わたしの頬はどうしてあんなに凍えていたのだろう。

 ひどく寒い日。もちろん冬で、あたしはコートを着込んで、それでもスカートでひざを剥き出しにしていた。昨日転んだばかりのひざに真新しい瘡蓋が出来ていた。確かズボンで瘡蓋が取れたら、と怖かったのだ。でも、寒かった。
 夕方になるまで学校にいた。冬に茜色に染まる校舎は、どうしてあんなに淋しげなのだろう。赤く染まっている筈なのに、白く抜いたみたいに寒々しい。
 あたしはその日、本当に凍えていたんだ。

 真っ白ね、といって女はわたしの足を触った。真っ直ぐで、細くて、白い。女は言いながらわたしの足を撫でた。
 その日、笑顔で刃物を向けてきた女は、わたしに笑顔で服を脱ぐ事を強要したのだ。

 白い指があたしの肌を滑る前に、物音に驚いて女は逃げていったのだけれど、そんな物騒な物を構えなくてもわたしは動いたりしなかったのに。白く鈍く光る包丁の色はやけにその日に合っていて、怖かったからじゃない。少しでも動いたら凍えそうな気がして、わたしは動かなかったんだ。
 白い細い指を持っていた女のツメには、真っ赤なエナメルが塗ってあって、キラキラと光っていて、暗い裏路地では貼り付いたように特別だった。だって、色があるのはそれくらいだったから。

 わたしは家路を急いだ。いつもと同じ笑顔で迎えてくれた母親にいつもと同じように。別に言う必要なんて無いでしょう。言う必要なんて無いんだ。

 次の日も寒かった。わたしは昨日と同じコートを着ていた。
 心なしか夕日が早く落ちた。黒が、早く来た。
 母親は、買い忘れた玉葱を買ってきてとわたしをもう暗闇で覆われた外に追い出した。ジーンズ地にピンクの花が刺繍してある蝦蟇口だけを握りしめてわたしは急いだ。蝦蟇口の中はたった300円だ。今日の夕食はグラタンだって。
 いろんな家からいろんな匂いがする。漏れてくる光は世界に色を添えているのでは無くて、ただ白く切り取ったように黒を無くすだけ。あの女の人のエナメルの方がずっとずっと綺麗だった。だってあれは色を、きちんと色が世界に出ていたもの。
 不意に目の前に気配がした。ぎらりと光る目。
 猫だった。
 びくんと身体が震えた。目があって、今まで考えていた事が解ってしまったみたいに。直ぐに落ち着いて、明らかに怯えさせてしまった猫を諭すように鼠鳴きをして一歩近づいた。猫は身をかがめフゥとちいさく威嚇した。もう一歩。ひらり、と身を翻して脱兎の如くに駆け出した猫を私はぼんやりと眼で追った。
 猫は身を翻して行ってしまう、道路を横切って。
 不意に、黒を切り裂いて白い帯が生まれた。目映い光を物ともせずに道路をよぎろうした猫を容赦なくトラックが踏みつぶした。跳ね飛ばされたりするのでは無くあの大きなタイヤにゆっくりと引き込まれるように、猫は飲まれていった。
 踏みつぶされたあとの猫からは赤が出ていた。出も何であんなに汚らわしいのだろう。赤いエナメルみたいに綺麗に黒に馴染まない。キラキラ光りもしない。そこの黒を益々黒く汚くしただけなのだ。
 汚らわしい。触れたくも無い。
 あたしは足早にその場を立ち去った。見たくも無い。早く早く家に戻れればいい。

 小さなビニールを握りしめて、その中の玉葱の独特に匂いがぷんとする。帰り道は違う道を通った。
 けれど。
 何故、あの時猫を埋めてやらなかったのだろう。何故あんなにあの猫が汚らわしいと思ったのだろう。汚らわしいのは、わたしだったのに。
 今からでも間に合うと言うかも知れない。
 でももう二度とあの場所には戻れないような気がするのだ。現にわたしは家の戻れないで居る。この黒から抜け出せないで居る。
 もう戻っても何も無いのだ。
 猫はまだそこに居てももう何も有りはしないのだ。
 黒が色を濃くしていく。あのエナメルさえあれば、あの猫だって綺麗に光れたのに。
 一袋の玉葱と黒を目一杯に詰めて、ビニールがじゃりと鳴った。

わたしの耳はどうしてあんなに凍えていたのだろう。

 なだらかに滑り落ちていく涙。
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