五月病の特効薬 “言葉にしたら逃げてしまう 君には何も言えない……”
 ラジオから流れてきた男性ボーカルの歌声に思わずあたしはむっとした。
 言わなきゃわかんないでしょうよ。
 ひざでも抱えて小さくなりそうな所だったけれど、何故だか開き直って大の字に寝ころんだ。投げたクッションがたまたまスイッチに当たったのか、ラジオはそれ以上何も言わなかった。

 四月ごろからその兆候はあったのだが見ないフリをしていた。直視した途端、がんばってでもやってきたものがもう駄目になるのは分かっていて、例えばそれは体温計で計った熱を見たらもうだるくて身体が動かなくなるみたいに。
 でももうそろそろ駄目。ゴールデンウィークを良いことにずっと無気力に過ごしてきたけれど。見ていかないとこのまま居なくなってしまいそうだった。
 鉄の味がする。さっき荒っぽく食べた健康食品のウエハースで切ったのだろう。口の中のいたるところから血がにじみでている感じがする。
 まともな食事ももうずいぶん摂っていない。そんなことを思いつつも、手を伸ばして取るのは、ビタミン剤のカプセルやタブレットなのだ。気持ちが悪くなりそう、と思いつつ。
 もう何をする気力も起きない。
 日は高くなりかけているのにパジャマのまま。着替える気も起きない。どうせ今日もこのまま。今日もぼうとして過ぎていく。
 開けても居ないカーテンから、日の光が薄く漏れて、今日も快晴だと伝えている。それがあたしの少しの気力を責め立てる。せめて曇りだったら。言い訳になるのに。
‘何かしなきゃいけないのに、外はこんなに明るいのにお前なんにもしないの?’
 あたしは五月病みたいだっだ。

 そんなことでもう連休は最後の日になってしまっている。カズヤはゴールデンウィークに入ったというのに電話の一本もくれない。電話が来たらあたしもどうにかなるかなぁという気になっているのに。
 文句も言えないで、あたしはここで小さくなってる。

 カズヤは友達だった。友達にも『友達』としか紹介できない。
 えらく恥ずかしがりやのカップルにグループデートを持ちかけられて(でもデートといってもカップルはそこだけだった)行った先にカズヤは居た。何かやたらに気になった。
 友達にどっちから告白したのーと聞かれるとどっちからともなく、ってかんじかな、告白なんてしてないよ、と答えていたけど、はじめに誘ったのはあたしの方からだった。携帯電話の番号だけしか交換していなくて、掛けるのが凄くためらわれて、それでも間違え電話のフリして掛けた。さっきウチに電話した、って。電話してないのは分かってたけど。電話の口実を間違い電話にするなんて、すけべオヤジみたいだ。
 ついでみたいに、ふと、今度逢わないって言った。断られたらどうしようとか考えてなくて、言ってから涙が出るくらいどきどきした。いいよ。カズヤの声が聞こえたとき、あんまりどきどきして、あたしはよく覚えていない。
 それでも、あたし達はそれから何度も逢った。
 世間様では「付き合って」半年以上。雰囲気で、といったら語弊があるけど、キスもした(映画館で、映画が始まる前にふっと暗くなったときだ。おかげでその映画は全然覚えて何か居ない。なんてファンシーなシーン)。
 それでも。あたしとカズヤは恋人同士じゃない。告白していない。友達にいった言葉もそれだけは真実。どっちも告白していないのは、あたしは、怖くて。カズヤは……よく分からない。
 先週、4月の最後の日曜日、あたしの誕生日だった。カズヤは電話をくれた。あたしはそれを無視した。留守番電話に入れるカズヤの声をリアルタイムで聞いて、どうして良いのかよく分からなかった。電話は手を伸ばせば取れる位置にあるのに、あたしが取ろうとするとぐんと距離を伸ばすのだ。それこそ電話がまめつぶに見えるくらいに。
 あたしはこんなに好きなのに、ほんとはあたしから電話をするような時期なのに、わざわざ掛けてくれているのに、電話にもでられない。それなのにその声を聞くとたまらない。
 カズヤはこんなあたしのこと、本当は、どう思ってるんだろう。

 ぴんぽーんと間の抜けたチャイムの音が聞こえた。インターホンにも出ずにそのままドアに向かう。大体立ち上がっただけでも奇跡に近いのだ。ドアを背もたれに玄関のたたきに座り込んだ。がこんという音を発したがさすがにドアは開かなかった。
「だれ?」
「ヨウ?」
 カズヤだ。カズヤカズヤカズヤカズヤ
「カズヤ。ごめん。あたし今ちょっと調子わるい」
 あたしは今言いたかったことをなんて言葉にしちゃったんだろう。口だけ勝手に動いてるみたい。
「ヨウ?大丈夫?ほんと、この前も留守電だったし、具合わるいの?」
 カズヤのほんとにどうしたんだって声が聞こえる。こういうとき、カズヤは本当に複雑な顔してる。笑ったような泣いたような困ったような。ドア一枚へだてて、絶対ああいう顔してる。
 ぎ、とあたしの身体が倒れた。それは、もたれかけたドアが開いた音だった。
「かぎ掛けてないの不用心」
 カズヤの逆さまの顔と思いっきり青い空が見えた。抜ける抜ける青い空。責めてないよね?
 不意に、カズヤがあたしの口に何かを押し込んだ。
 それは甘くて、安物の口紅のニオイがした。ジェリービーンズ。
 カズヤの好きなジェリービーンズ。輸入物で毒々しい色でいろんなニオイがする、それでもカズヤが大好きで見付けたら袋いっぱい買っているジェリービーンズ。
 かむとそれはココナッツとラズベリーの味がした。色はきっと赤に白いまだらの、ジェリービーンズをあたしはゆっくりとかみしめた。
「遅いかも知れないけど、誕生日、しよう」
 カズヤがゆっくりと笑った。視界が一瞬、何かで遮られた。それが、息が詰まるような良い匂いの花の束と言うことに気がつくまでは、少しかかった。
「何で、すぐ、来てくんなかったのよ」
「今まで、ヨウの家、来たこと無かったんだぜ?」
「だから?」
 あたしが眉を寄せてるのは外に出てなくて、日が眩しかったことにして。ねぇ。
「ヨウ、独り暮らしだし」
「だから?」
 だから?だから?だから?あたしは笑顔をかみころして意地悪く訊いてやる。
「今まで来たことないのに、来にくいだろ」
 すねたように言わないでよ。その言葉の意味が知りたいのよ。
「言わなきゃわかんないでしょうよ」
 ラジオに言ったことをそのまま言ってやる。でも、ラジオに言ったときより、もっとずっと優しかった。眉を寄せてるのは日が眩しかったからじゃないのよ?
 ねぇ、神様ありがとう。今日を青空にしてくれて。きこえてる?あたしはあなたに感謝してるのよ?ねぇ、また今日みたいな青空を下さい。そしたら、あたしは。

 今までの気持ち何だったんだろう。五月病だって言うなら、それはこの口に残った甘みは何なんだろう。このまだ口に残る甘い甘いかけら。これはきっと。

 あたしはまだ眉を寄せたまま、逆さまにカズヤの顔をのぞき込んだまま、次の言葉を待ってる。

 これはきっと、五月病の特効薬。
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