ナノセカンド  ただ、会いたいと思った。
 十億分の一秒でもいい、ただ会いたいと。

「好きだ」
 聞こえてきた声に身がすくんだ。半分ほど廊下に出たからだを、階段側にひきもどす。なんども夢想した、耳にここちよいセリフが、わたしを射る。人知れず赤くなる頬は、ばかみたいに熱をもって、自分の意志でしずめることができない。それが望みえがいた使いかたとは正反対だったとしても、だ。
 きなりの廊下を赤い日がてらしていて、長く長くがたがたと階段に影を落とした。ふりかえって走りだすと、影はとどまるように尾を引いて、わたしを引っぱったのだ。わぁ、とまだ声変わりしていないような男の子の声で歓声が上がったのが聞こえてしまった。
 そう、聞こえてしまった。
 うまく息ができない。息を吸っても吸っても満足できるほど吸えない、小さな穴からもれている感じ。その穴はとても小さないので見つけることはできなくて、その穴はとてもたくさんなので修復することができない。死んでいく苦しさではないけれど、意識して息を吸っていかないと必要な分が確保できない。そんなに頑張って吸ってもそれは応急処置でしかないから、根本は満たされないのだ、絶対に。そんな感覚。
 スカートがゆれたひざのうらの感覚で、弁当箱をおいてきたことに気付いた。
「サヤカ?」
 はっとして顔を上げると目の前にスイの顔があった。
「ごはん食べよ?」
 ごめん、購買行って買ってこなきゃなんないから、先食べてて、とわたしが言うと、うん? とスイがうわめづかいに目をのぞきこんできた。
「めずらしいね、弁当は?」
 昨日のスイの返事が聞きたくなくて弁当箱忘れたままにして帰ってきちゃったの、ねぇスイ、スグルになんて返事したの、歓声が上がってたから、ねぇ、オーケーしちゃったんでしょう、だってスグルはただの友達で、そりゃあ小学校が一緒だから仲もいいけどただの友達で、スグルのこと好きだけどそれはライクの意味で、ラブの意味で好きな子の気持ちってわかんないなぁって言ってたじゃない、あれから気持ち変わっちゃったの、スグルのこと好きになっちゃったの、なんて言えるわけもないから、うんちょっとね、とだけ言って財布をひっつかんで購買に走った。一人で学食のすみの方で食べたあのときのサンドイッチのぱさぱさしたパンを、マヨネーズでやたらぬるぬるしたレタスを、まだ、覚えている。
「サヤカ?」
 スグルが声をかけてきたからとっさになんの対応もできなくて、ちょっとおろおろしたわたしを、スグルのやさしいどうしたの、という声が癒してくれた。
「一人で食べてんの? スイは?」
 スイは教室、お弁当忘れたから買って食べてた。
 やっぱりスイが気になるのかなあと思ってずきんとした感じ。サンドイッチよりものどにつまる。
「一緒に教室で食べよう?」
 スグル、どうしてそんなこと言うの、そんなことだからどの子もスグルのこと好きになっちゃうんだよ、スイのことだけ好きなんて思わないんだよ、とやっぱり言えない言葉をぬるぬるで飲み込む。となりで笑顔の男の子にもきっと同じ様にやさしくしてて男子にも女子にもたよりにされてて大好きなのなんて、スグルぐらいしか知らない。
 わたしには言えない言葉がありすぎるみたい。
 映画に行こうと言う時も、遊園地へ遊びに行こうと言う時も、あそこに美味しいケーキ屋さんができたんだよと言う時でさえ、スイを誘ってスイにスグルを誘ってもらうようにして、ずっと三人で遊んでいた。
 スグルだけを誘ってもきっと一緒に行ってくれるような気がする。でもスグルはきっとなんにも言わないけれど、その無言の中にスイは、と聞いているのがわたしにはわかる。それが聞きたくないから、わたしはずっとスイのそばにいる。となりで笑って思考をトレースしていつも二人を見ている。
「スイってさー、スグルのこと好きじゃないって言うわりにはいっつも一緒にいるよねー」
「なんか高校も一緒のとこ希望してるんでしょ、もろじゃんね。サヤカは一緒にいてウザくない? スイのこと」
 べつに、と言うけど、嫉妬はしてる。どうしようもなくため込んだ悪口なんてここでもどこでも言えなくておなかの中にたまっては発酵して、異臭を放つことを必死で食い止めてる。でもスイよりふんだんにある下心で受験校を決めたのも、ぐうぜんだねみたいな顔してにっこり笑って見せたのももっともっと卑怯なのはわたしだ。
 一生言ってくれない言葉を引き出すためにわたしがしたことは姑息だろうか。かもしれない。でも胸の高鳴りも頬の熱さも本来の用途で取りもどしたかったから。
 スイ、わたしね、と切り出して本当のことが言えたのはいったい何回目だっただろうか。
「うん?」
 と対応するスイの声、くびのかしげた感じ、のぞきこむ瞳の角度さえなんども経験して言い出せないのが、どうして次の言葉が出てきたんだろう。黒の重厚なカメラを向けられて、振りはらうようにそれより聞いてよちゃんと、とつなげられたんだ。
 カメラなんか嫌い。どうして、こんなにもわたしとスイが違うってことを、れきぜんと示してしまうんだろう?
 わたし、スグルとつきあってるの。
「ふうん」
 レンズについたほこりを、スポイトのおおきなやつのようなものでふきとばしながら(そんなもので本当にきれいになるんだろうか)気のないように返事をされて、でも肩がぴくりと震えたよ、スイ。
 どうして、とかいつから、とかもっと怒ったり、表さないようにしようと思いながら悲しんだり、見せかけでも良かったねと喜んだりしてくれるかと思ってたから、ちょっと本気で怒った。わたしだってその質問に対して、じゃあスイとスグルはいつつきあってたのとかいつ別れたのとかどうして、とか今私たちがつきあってるのどう思うとか、それもこれも全部嘘って言ったらスイどんな顔するだろう、ちょっと良かった、て顔するだろうなきっと正直な人だから、でもそれが嘘なんだけど、とかいっぱい考えていたものが、全部想像で終わってしまったから。
 じゃんけんに負けたスグルが、ぶーぶー言いながら三人分のソフトクリームを買って向かってきてるのが遠くに見えたから、この話はおしまいになろうとした時、不意にスイが
「ワタシここにいて良かった?」
 と言った。
「これから、言ってくれればちゃんと外れるからね、言ってね」
 とっさ、に、笑顔が出てきてううん、と言ったのは自分。これからも、ね、一緒に来てくれるでしょ?
 スイはまぶしいものを見る時のようにわたしを見あげた。スグルが、はいとチョコレートとヴァニラのミックスのソフトクリームを渡しながらベンチのスイの横に座ったのを、もうれつにうっとうしく感じる。
「なんでそんな不機嫌なカオしてるの」
 スイの目がのぞきこんでくる。短く切りそろえた髪がゆれる。くっきりとした猫のような二重。そうわたしはいつもこれをうらやんでいたのだ。
「もしかして気にしてるの、さっきの子のこと」
 重く長い髪、はれぼったい一重の目、子供のようにえくぼができる頬。気になる、気になるよ、二股かけてるなんて本気で怒る子がいるのも、無理はない。そうなの、なんてへらっと笑って訊きかえしたスイよりも、顔を赤くしてくってかかったあの子の気持ちの方がずっと理解できる。あの子はきっと、スグルのことが好きなんだろう。
 スイってさ、今誰とつきあってるの。わたしの質問が突然だったからだろう、スイは少し面食らったようにきょとんとした。
「誰ともつきあってないよ」
 その前は。
「思い出させないでよ、あの先輩よ。ちゃんとつきあったと言えるかどうかは自信ないけど」
 その前は。
「どしたの、サヤカ」
 息がつまる。うまく呼吸ができない、あの感覚がよみがえる。穴のあいた風船をふくらましつづけるおろかさ。どうして、どうして、こうも簡単に。
 その、前、は誰と、つきあってたんだっけ。
 息を吐くのと同時に一音。応急処置でもし続けなきゃならない。たとえそれが根本の解決にならなくても。
「つきあってないよ、誰とも。言うならばワタシは誰ともまともにつきあったことないよ。彼氏よりも男友達がいればいいって感じかな、スグルとか。サヤカもいるし」
 そこでスグルの名前を出す神経をはかりかねた。うん、と伸びをして背中を見せたスイはわたしに表情を見られたくないからだろうか。ほんとのことを言ってくれない限り、わたしの呼吸は楽にならないのに。それとも本当のことを言われたらわたしの呼吸は止まってしまうだろうか。それでも。
 楽にはなる。
 スグル、は?
「うん?」
 どういうこと、というようにふりかえったスイの顔が、いつもと同じでむしろどきりとする。訊かなければ、わたしの肺には穴があきつづけたままだ。
 スグル、と、つきあってたこと、あるでしょう?
 スイのただでさえおおきな目が、きゅっとつり上がるように見開く。口を変な形に突き出す。
 わたしはといえばばかみたいに息を吸うことにやっきになっていた。もうすぐすべては楽になるのだから、先の見える応急処置。先が見えるから、楽なんだって自分に言い聞かせていた。
「誰が、ワタシが? え、いや、そんな事実ないよ、ぜんぜん」
 じゃあ、振ったの、よくそれで何事もなかったように振る舞えるなあ、二人とも、とおぼろげながら思った。スグルにいたっては三人組のもう一人とできてしまっていて、そう考えはじめると、いやたとえスイが嘘をついていて本当はつきあっていたとしても言えることは同じか、すごい、なんにも感じさせないでうらではすごいどろどろしてる昼メロみたいだなあと、いまさらながらに呆然と思った。
「……どうしてそういう話になったの?」
 聞いてたの。中学の時、スグルがスイに好きだって言うところ。そのあと歓声が上がるところ。
 そのあと怖くて逃げ出したんだ、今でもずっと、そのことを考えるとときどき息ができなくなるみたいになるんだ、というのは飲み込んだ。
 スイは考えるようにくるり、と黒目を一周させてまばたきをくりかえした。の、あとにおもむろに口をあ、の形に開いて、やおら納得した、というように目のしばたきを止めた。「あれは、違うよ」
「あれは違うの、罰ゲームだったの、スグルが、なんかで負けて。でワタシも丁度なんか教室に忘れ物を取りに行ってて。やったらさわがしいなーと思ったら出ていく時に言われて。きょとんとしてたら、スグルの仲間が騒いでなにがなんだかわかんないうちにまたゲームが再開されてて。ワタシもあれあとで怒ったよ。サヤカ見てたんだ。よく覚えてたね」
 にこりと笑うスイに嘘が見いだせなかったから、わたしのほんと、という問いはずいぶん間の抜けた、形式的なものだっただろう。
「ほんとほんと」
 やましいところなんか今まで生きてきてひとつもないみたいな、日に光るスイの笑顔を、わたしは信じた。こうもあっさり空気が入ってきて、何事もなかったように肺を満たした。
 スイ、スイ。
 わたしはそのまぶしい笑顔が本当に好きだった。恋をしていた。
 この前当てつけるみたいにスグルをホテルに誘って、部屋に入って怖くなって、泣きながら拒んだわたしを、どうして見放したりしないんだろう二人とも。どうして全部、大丈夫だよサヤカはいい子だねって抱きしめてくれるんだろう。
 わたしはその、いくら焦がれてもすべてを望むべくないものを少しでも手に入れようとやっきになっていた。あこがれる対象がお日様みたい。

 ずっと見ていたから、両の目から涙があふれてきたんだ。


 瞳の横の方に見なれない感じで灰色があった。
 緑とその葉のうらの微妙に色のくすんだ緑と、もっとそれの再度を落としたような道路脇についている緑と、白と赤とオレンジと緑(これは発光しているせいかべつの生き物みたいな色の出方をしている)のよく光る背のたかい看板とそれを持つ夜中でも明るいたてもの。それらは全部目の端にあって、真正面におおきな、それはそれはおおきなものが視界のほとんどをおおっていた。わたしの体よりいくらもおおきい。やたら部分がてらてら光るもので、ガラスとかもなにか拒否するように光るので、しかも両側には本当に光を発するものがついているから、よけい。
 ああ、トラック。止まった世界の中で、わたしは呆然とその視界のほとんど占拠するそれの名前を思い出した。
 そして視界のみぎはじの方に灰色の地面がありえない角度で横たわっているのを、もうどうでもいいことのように認識した。
 世界がスポットライトを浴びたように、そのもの自体が光を発しているようにまばゆく見える。
 ちがう、スポットライトが当たってるのはわたしだ。
 ああ、これはスポットライトじゃない、フラッシュだ。カメラのフラッシュ。ひどく旧式の一眼レフで、とりはずしのきくあれだ。
 スイ、カメラはきらいだって言ったじゃない。
 まぶしくて目を閉じた。
 不意に、会いたいと思う。母さん、父さん、できたての大学の友達、長く会っていない中学校の先生、かどのところのよくほえる犬、この前一緒に買い物に行ったバイト先の子、まだCDを返してない高校の友人、誕生日に時計をくれた部活の先輩、ベット際にうずくまるぬいぐるみのパンダ、買おうと思ってたマルイのチェックのスカート、スグル、それにスイ。
 ただ、会いたいと思った。
 十億分の一秒でもいい、ただ会いた






























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