みむら あやか
 それはちいさな子供をもつ、母親の丁寧さでかいてあった。習い事に行くときに使うようなかばんに、読みやすい字で。わかりやすいようにとかばんの表面、よく見える場所。深緑色をベースにした落ち着いた色のチェックのかばん。
 記憶にある。私がピアノのお稽古に使っていたかばんも、ちょうどあんなふうだった。スリーウェイのバックをリュックふうに背負って。
 いま、変なのは、それが結構いいとしのオッサンが夜の繁華街で背負っていることなのだ。子供にあわせた鞄が、きゅうくつそうに体を締めつけている。
――おかしい。
 そっと後をつけたのは、それにそんなに興味があるから、ではなくて、塾に行くのを自然と足が拒否したからだと思う。学校指定の地味で紺で、馬鹿みたいに重たいかばんを肩にかけなおして、私はオッサンの後ろ姿を小走りに追いかけた。

――おとうさん、という柄ではないよね。
 父親だったとしても、愛娘ミムラアヤカをいったいどこに預けていくというのか。繁華街の中心に向かってオッサンは歩を進めていく。
――誘拐犯だったりしてね。
 人混みに紛れそうな禿げかけた頭を、かろうじて眼で追いつつそんなことを思う。 
 角を曲がる。慌てて私も角を曲がる。ひだり、と。そこには。
 廃屋。
――すごい、こんなとこ東京にあるんだ。この調子だと本当に誘拐犯かもね。
 ……そういえば。
 いない。ずっと追いかけてきた、あの男はどこに行ったのだろう。 振り返ると。何かが顔にむかって降りてくる。
 ブラックアウト。

 すぐに気が付いたと思う。
 もどかしそうに縄をといて、怯えるようにこちらに視線を走らせてから女の子は駆け出した。
――ああ、あれが。
 ミムラアヤカちゃんか。
 手首が痛い。打ちっ放しのコンクリートの床がひんやりと冷たい。
筋肉がへんなふうに緊張している。
 男が、どさり、と鞄を降ろした。深緑色がベースのチェックのスリーウェイのかばん。かわりに私のかばんの物をゆっくりと出していった。教科書も、ノートも筆箱も塾のテキストも友達からかりたCDも財布も定期も全部。
 その間、ちらとも私には視線をむけなかった。くらい中で、ぎらぎらと目だけが光っているのが異常に思えた。
 全部の物を出したって全然軽くないであろう私のかばんを肩に掛けると、出した中身を、捨て去るように片隅に蹴った。ミムラアヤカのかばんも。
 隅の暗がりには。
 大量の鞄が捨ててあった。


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