ブル
|ベリ
|パイ
 唐突に。
 僕は失くし物をしたことを思い出した。
 桜の木の下。今でなければとばかりに騒ぐ大人たちを、黙って見ていたのは月とまだ咲ききらないピンクの花。あの時だろう。思い出すのに時間が掛かりすぎている気がしないでもない。僕の中では、あの日の夜は思い出として始末をつけられてしまっていた。もう5日も前のことだった。
 あの時。あの時に僕は何を失くしたんだろう。
「梓、ブルーベリーパイ焼いたんだけど、食べる?」
 母さんの声を背に僕は玄関に向かう。甘い匂いが家の中に籠もっている。こんなに良い匂いがするのに母さんが焼くブルーベリーパイは酸味が効きすぎているのだ。義父さんにの好物だから、甘さを意図的に抑えているというのもあるんだろうけれど。
「梓?」
「要らないよ」
 続けて掛けられる声がうっとうしくて、冷たい返事をしてから、下駄箱を開けた。自分の靴を出してから、おや、と思う。随分奥にあずさのマラソンシューズが入っている。あずさは家の中に居なかったのだが、妹があの靴以外を履くことなんてあるのだろうか。
「もう、折角焼いたのに」
 義父さんに食べて貰えばいいじゃないか。その言葉をさすがに口に出しはしなかったが、声も掛けることなく家を出た。
 この頃母さんは僕を子供扱いしすぎるきらいがある。僕のやること成すこと文句を付ける。おかげで僕はここ数日、ろくに外に出ても居ないのだ。
 今日は正当な理由もあることだし、断らなくても大丈夫だろう。夕飯は八時ちょうど。少し日は傾いてきているが、まだ高い空を見上げる。大丈夫、夕飯までには戻ってこれる。
 僕は宝物でも探す気分になって、桜の木の下を目指した。

 5日も経ってしまったのだから、桜は散りきってしまっているかと思ったが、まだまだ残っていた。全盛、とまではいかないけれど、今夜予定されている雨さえなければ、今週末、大人たちが夜桜を楽しむには余りあった。
 一面ピンク色に染まっている地面は、まるで絨毯を敷き詰めている様で、あのどんちゃん騒ぎの夜とは天と地ほどの差があった。御伽の国に迷い込んだような気に浸っていると、後ろからぶーと車のクラクションが響き、振り向くとコンビニの看板が昼間だというのに明々と点っている。
 幻滅するには数秒を要し、僕はとりあえず失くした『なにか』を探しはじめた。 
 
 桜が植えてある場所は以外に広範囲だ。
 大分探したが、何を探しているのかすらも分からないまま彷徨うには限界があった。見たら分かる、思い出せば見付かると、半ば自分を励ますようにひとつひとつ桜の根本やら枝やらを見てきたが、いい加減自分でも不毛だと思う気持ちが頭を占めはじめていた。
 御伽噺の絨毯にごろりと寝転がる。
 あたりには誰も居なかった。桜だけが思い出したようにひらひらと落ちている。一本通りを挟めば直ぐそこには街の雑踏がごろごろしているのに、それは遠く遠くとしての音しか聞こえなかった。
 いつの間にかものすごい赤を振りまきながら太陽が落ちようとしている。僕は仰向けに寝転がったまま太陽を見、そのまぶしさに思わず眼を閉じた。このまま眠ってしまいたい。
「梓、」
 薄く、目を開ける。世界はピンクと赤だけになっている。
「これでしょ」
 僕の手に小さな、金色のものが握らされる。半身だけ体を起こして、よく見てみると金のカフスボタンだった。僕のものだ。
 そう、夜桜鑑賞のどさくさ、僕の上着の袖のボタンは取れてしまって、ポケットに入れておいたのだった。そういえば母さんが取れて失くなっていると騒いでいたかも知れない。僕はカフスボタンをぎゅうと握りしめた。こんな、こんなものではなかった気がする。僕が失くしたものは。
 僕にボタンを渡した人はちょうど夕焼けを後ろに背負っていて、顔は真っ黒。ランニングの途中だったのだろう、走りやすそうな短パンに、軽く汗を掻いている。
 いつも言ってるだろう。風邪をひくから汗はふけって。僕にはすぐ誰だか判った。クイズなら随分カンタンだ。
「あずさ、母さんがブルーベリーパイ焼いたって。たべるだろ」
 振り返らず、足を投げ出したまま、後ろに声をかけた。聞き慣れた妹の声がする。
「義母さんのブルーベリーパイは酸っぱいからなあ、あまぁいココアと一緒に食べると絶品」
 くすくすと良く通る声で喋り、笑う。でも、質問にはまったく答えない。
「食べるだろ?」
「父さんが好きなのよね。甘さがちょうど良いって」
 不意に風がどうと吹いた。敷き詰めた桜が風に巻き上げられて視界がピンクに染まる。
 そういえばあずさは、どんな靴を履いていただろう。彼女のマラソンシューズは下駄箱の奥底に入れられていた。まるでもう履かれないもののように。
 母さんはどうして、あずさを呼ばないのだろう。僕よりもずっとあまいものが好きなのに。
 どうして。
 どうしてマラソンシューズはもう履かれないのだろう。
 不意に不安になって振り向いた。
 ピンクの闇ばかりが、あたりを包んでいた。
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