あのころの季節 「坂上さん」
 ふと振り向くとかつてのクラスメイトが立っていて、坂上由子はいささか面食らった。
「あ……お久しぶり」
 ぱらぱらと見ていた、今年の芥川賞作家の新刊を棚に戻す。相手の名前が思い出せないまま、顔は記憶にあるのでうろんな返事を返す。
 高校で一緒だったのは確実だ。この前まで同じクラスだった感があるが、卒業してからもう半年も会っていない人だと思い当たってびっくりした。由子は時間が流れていないような気がしていたが、そういえば確かに季節は流れて、猛暑の時もいつの間にか過ぎていた。
 はつらつとした雰囲気で、クラス内でもいつも笑顔の印象があった。クラス委員を務めていたはずだ。でも名前は出てこない。
 記憶の足しになるものを探すように視線をはわせる。今はショートカットだが、髪はもう少し長かったはずだ。今はずいぶん明るい髪色も、みどりの黒神を思わせるような。眼鏡はかけていたっけ? 由子には、セーラー服の印象が強すぎて、今着ているサテンのワンピースには違和感を覚えた。(そういえば由子と彼女は、私服で会うのは初めてかもしれない。休みの日にわざわざ遊びに行くような、そんなに親しい仲でもなかった)
 ふと、目がとまる。右の手に、由子もずいぶんお世話になった見慣れた赤色の表紙。黒字で大きく東京大学文科前期日程、の文字。相手も視線の先に気付いたようで、すこし恥ずかしそうに言う。
「あ、これ。私、再受験組だからさー、ね。そろそろだし」
 去年に引き続きあがいてるわー、と相手は続けた。季節は夏から秋に変わろうとしている。受験生にとってはいちばんつらい時期だ。
「ね、坂上さんはどこだっけ」
「……明治大学」
 へぇ、と言いながらすこし、ほんの少しだけ山吹の顔に安堵と侮蔑の色がうかぶ。(そう、唐突に思い出した。クラス委員長山吹綾花さんだ。)山吹はたしか、東大をために早稲田だったか慶応だったかをけったと聞いていた。仮面浪人すら勉強の妨げになると。
 その判断は正しいと、由子は思う。仮面浪人をしていたら、この時期、絶対に意志と、それに伴う学力が崩れていくだろう。
「センター試験の出願とか、自分でしなきゃなんないの。もう少ししたら調査書とか、学校に取りに行かなきゃなんないし。受験て基本的に現役生のためなんだなぁーって実感するよ」
 笑いながら山吹が言う。調査書、そんなものもあったな、と由子が静かに思いを巡らせた。あとは、入試要項。国立の方がすこし遅い。私立の方が少し早めに書店に並ぶ。
「……本屋ってさ、受験生が堂々ときていい、数少ない場所だよね」
 あとは、予備校と家の往復だよ。学校行かないぶんつらいよ、と山吹は続けた。
 由子はあいまいに笑ってあやふやに頷いた。そんな生活を送っていないぶん真摯に肯定できないし、そんなこと山吹綾香は望んでいないだろう。
「じゃ、私、つぎ授業だから」
 じゃあ、また。最後まで笑顔でレジに向かう山吹を見て、変わっていないのだなあ、という印象を受けた。由子は、自分もきっと変わっていないだろう、と結論づける。
 きっと臆病なまま、今年もまた逃げてしまうだろうか。
 受験の日は空がばかみたいに青く晴れていて、それが由子をおびえさせた。いくらやってもあがらない成績も、全く読めない英文も、ちっとも記憶に残らない人名、難解の言葉の論説文、見たことのないイディオム、語呂合わせのきかない年号、漢字の羅列、日本語にあらざる日本語、拒否する異国の言葉。
 一方通行の電車にずっと乗るより、山手線でぐるぐる回っていた方がいいとか、そんなことばかり上手くなっている。
 山吹が出口のところで由子に気付き、ひらひらと手を振る。由子は静かにお辞儀をかえす。
「赤本買わなきゃ」
 お帰りなさい、由子、試験はどうだった。落ちたよ。え、そういうこと言ってても、ううん、そういうこと言ってる子の方が受かってるものよ、案外ね……。落ちたの、落ちたの落ちたんだよっ。
「あと、調査書だっけ」
 母は何も言わなくなった。予備校にお金を納めているものの、行ってなどいないことにはうすうす気付いている。
 でも娘を傷つけると思って何も言わないのだ。良い母親。
「センター試験も出願しなくちゃ」
 受かるわけ、ないのよ、受けてないんだから。
 誰にも言わない言い訳ばかり上手くなるのはもう。
 参考書は七階でたしか赤本もそこで売っている。今の時期だとまだ新しいのは出ていないかもしれない。去年のやつだったら家にある。どこかにあるな、と由子は思い返す。
 でも、センター試験の出願書が売っているのだから、結局七階には行かないと。エレベーターのボタンを押す。もうずいぶんこのエレベーターなんて乗っていない。由子の好きな文芸書は一二階で、エスカレーターで事足りる、というより階段の方が早いくらいだから。
 調査書は、学校に取りに行かなければ。担任と顔を合わせるのは、あまり愉快なことではないのだけれど仕方ない。
 今年は受験しなければ。
 ……本屋ってさ、受験生が堂々ときていい、数少ない場所だよね
 不意に山吹の言葉がよみがえる。そういえば、由子も本屋にしかよっていないような気がしていた。ゲームをやるのも、ウィンドウショッピングも決して嫌いではないのに。
 うすくつきまとう罪悪感が、すこしでも勉強に役立つ所へと導いているのかもしれなかった。由子は自嘲気味に笑った。
 七階のボタンを押して、センター試験の出願書を買う。調査書をもらいに行く。何度も同じことを確認して、一つ一つやり遂げていくことをつぶしていく。気持ち悪いくらいくらくらする。逃げないのには体力がいる。
 でも、今年こそ受験しよう。
 大丈夫。今度は勉強してないって、免罪符がある。
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