そしてそれが単なる空想や理論の上での存在ではなく、まさしく我々が手に触れることが出来るような形で存在しているのである。
また、そのことは単にOSの問題に留まらない。現代のソフウェアのありかた、知的財産権への方向性、あるいはそれらをはるかに超えて、我々の実世界における世界観をも根底からゆるがす可能性すらある。
歴史的流れ
Linuxは単に偶然の産物として生まれたものでもなければ、作者であるLinusがいきなり作ったものでもない。もちろん彼が作らなければLinuxは地上に存在しなかったのは事実であるが、単に彼が作っただけでは今日あるような普及のしかたはしなかったはずである。このことについて、歴史的背景を踏まえて考えてみよう。
黎明期のソフトウェア
フォン・ノイマンがいわゆるストアードプログラム方式のコンピュータを作って後、非常に長い間ソフトウェアはハードウェアの付属品でしかなかった。
それは当時(1950〜1965頃まで)のハードウェアは非常に高価であったにも関わらず、ソフトウェアを格納するべき記憶媒体の容量はあまり大きくなかったため、ソフトウェアそのものがあまり大規模なものが作れず、メーカにとっては相対的にソフトウェアにかかる投資が小さかったということが要因として考えられる。
また、当時のハードウェアでは実際に業務で必要となる計算やデータ処理をするだけで手一杯であり、また非常に高価であったため、「使い勝手を改善するためのソフトウェア」を工夫して開発効率を上げるよりは、そのようなソフトウェアの使わないで人間が工夫してプログラムを書く方がコスト的に安かったということも要因として考えられる。
いずれにしても当時はハードウェアメーカがソフトウェアに力を入れることもなければ、ソフトウェア作成にかかる費用もわずかなものであったため、基本的にソフトウェア単体の費用については考えられなかった。
また、そのような背景があってソフトウェア単体では商品価値はないものと思われていた。にもかかわらず、当時のコンピュータはソフトウェアを作るのは容易ではなかったため、ソフトウェア技術は独占することよりは、ソフトウェア技術を共有することの方がメリットが大きいと考えられていた。このようなこともあり、基本的にソフトウェアは現在で言うところのフリーソフトウェアと同じ扱いを受けていたのである(注1)。
注1) 当時は「著作権」という考えすらなかったので、言語処理系のようなかなり大きなプログラムであっても、コピーして流通させていた。
商用化初期
ところがハードウェアが大きくなり、コンピュータの適用範囲が広くなるに連れ、ソフトウェアも大きく複雑になって来た。そのため、まずモニタ(注2)と言われる小規模のOS的なものが生まれ、言語処理系や各種ツールが生まれ、ついでそれらをまとめあげるOSが生まれた。
この頃(1970年前後)になるとソフトウェアの作成にかかる相対的コストも大きくなり、またハードウェアの仕様も安定して来たため、ソフトウェアを商品にしようという動きが出て来た。それと同時にソフトウェアを資産として見る考えが生まれ、権利保護の対象にしようという動きが現れた。
しかし、そのような動きに反して、ソフトウェアはフリーであるべきだと考えるグループもあった。彼等はその技術を讃える意味もあって「ハッカー(注3)」と呼ばれていた。この人々はそれ以前にあったように、「ソフトウェア技術は独占するよりも共有するもの」という考えの方がメリットが大きいと考える人々であった。また、この人々は当時の風俗であったヒッピーと共通な思想背景を持っていて、「自由」「共有」は彼等のテーゼでもあった。とは言え、まだ特別に確立した思想的なものはなく、原始共産主義的に単に自由と共有を主張するに留まっていた。これが初期のハッカー文化であった。
注2) システムの初期化やプログラムの読み込み等簡単ではあるが共通に使われる機能をまとめたプログラム。現在のパソコンのBIOSレベルのものだと理解されたい。
注3) hacker。ここで言うハッカーはネットワークに侵入したりコンピュータの破壊活動を行ういわるう「クラッカー(cracker)」とは異なり、プログラムをいじり倒すこと(これをhackと呼ぶ)を生き甲斐としている人々を指す。
Gnuの時代
当初単に「自由と共有」だけをテーゼとしていたのであるが、自分たちがそれまでフリーであると思っていたソフトウェア---例えばEmacsのようなエディタ---をいきなり商用にする者が現れた。その結果、それまで自由に流通していたソフトウェアを急に特定の者が所有権を主張するようになってしまった。そのような事件があったため、無邪気に「自由と共有」とだけ言っていたのでは済まなくなってしまった。
その結果、何らかの思想性と法的根拠を持った活動が必要になって来た。また、それと共に元々「公共物」として扱われて来た既存のソフトウェアを独占から守るだけではなく、所有権の主張されたソフトウェアから著作権的に独立したソフトウェアを作る必要も出た来た。これがFSFを中心とするGnuという「活動」である。
Gnuでは「自由と共有」を守るために、「自由の強制」と「その裏付けとなるライセンス条件」とを持ち、またその活動に参加するように多くの人へゲキを飛ばしていた。このための文書が「Gnu manifesto」と「Gnu General Public License」である(注4)。
また、所有権の主張されたソフトウェアのライセンスから独立したソフトウェア(当時の考えとしてはUNIX)を新たに作ることとした。またその新たに作られるソフトウェアは「どうせ新たに作るのであれば、技術的にもより洗練されたものを作ろう」ということで、従来のソフトウェアと互換性を持ちながらより効率の良いアルゴリズムを採用したり、多くの機能を追加したりされていた。そのためハッカーの流れをくむ人々には好んで使われ、また改良もされた(注5)。
このGnuは元々は「フリーソフトウェアだけでUNIX上位互換システムを構築する」というのが目標であったのだが、当時の環境や労働力、また「より良いものを」という意識がかせとなって、なかなか出来ないでいた。
注4) Gnuについての詳細はhttp://www.gnu.org/ に書かれているので、そちらを参照されたい。
注5) たとえばGnu Emacsやgccといったソフトウェアは同等の商用製品よりも優れているとされている。
Linuxの誕生
実はUNIXはその黎明期にはいわゆるフリーソフトウェア扱いであった。そのため「実用になるOSのソースコードが見られる」ということから、多くの教育機関で教材として使われていた。ところが他のソフトウェアの例に漏れず、その商品価値を見い出したAT&Tの手によって、独占的所有権の主張されたソフトウェアになってしまい、教材として使うことが不可能になってしまった。
これでは生きた教材が提供出来ないということで、Andrew TanenbaumがMinixというUNIXモドキのOSを作り、それを教材として提供するようになった。これは16bit OSではあったが、当時のUNIXの機能をほぼ全部持っており、またいわゆるフリーソフトウェアではなかったが、ソースが公開されていたため、多くの教育現場で生きたOSの教材として使われるようになった。
他方、UNIXの本家筋ではBSDからAT&Tライセンスのコードを追い出し、自由に改造再配布出来るものにしようという動きがあった。これは後にJolits夫妻の手によってPC上で動くものが作られ、386BSDとして公開された。
この頃は既にパーソナルコンピュータが玩具の域を脱し、ビジネスシーンで使われるようになった時代であり、CPUも16bitから32bitになろうとしている時代であったが、MinixはTanenbaumの方針もあって、16bitコードのままであったが、それでは飽き足りない人々が32bit化Minixを作ったりしていた。そういった流れ中、ヘルシンキ大学のLinus TorvaltsはMinixを改良するという形ではなく、Minixと互換性を保ちながら全く新しくOSカーネルを書き起した。これがLinuxである。表1に簡単な年表を挙げておく。
表1:初期のLinux年表| 1991/4頃 | inusがi386の勉強を初める |
| 1991/6頃 | カーネルらしい動作をするプログラムが出来る |
| 1991/7/3 | comp.os.minixにPOSIXについての質問をpostする |
| 1991/8/25 | comp.os.minixに新しいOSの機能についてのpostをする |
| 1991/9中旬 | Ver 0.01 |
| 1991/10下旬 | Ver 0.03。gccのセルフコンパイルが可能になった |
| 1991/12/25 | 仮想記憶のサポート |
| 1992/1/5 | Ver 0.12 |
| 1992/1/12 | タネンバウムとflame warが始まる |
| 1992/3 | Ver 0.95 |
当初はBSD(注6)のような「有名ブランド品」でもなければ、MinixのようにOSの大家の書いたものでもなく、また特に能力的に優れた点があるわけでもなかった。しかし、それでもその可能性が多くのハッカー達を燃えさせたのである。
Linuxはかなり早い時期からかなり安定していた。また、かなり早い時期からUNIXとしての機能が完備するようになっていて、当時PC上の主流になりつつあったMS-DOS + Windows 3.1を凌駕する環境のタダで構築することが可能になった。このようなことから、Linuxの商用利用の可能性を思った人も少なくなかったようである。
注6) 元はカルフォルニア大学バークレイ校で作られたUNIXの一バージョン。AT&Tに由来しない部分のコードについてはフリーで公開されていた。
普及期のLinux
Linuxが公開されてから、Linuxそれ自体の品質や性能は急速に向上して行った。また、それを利用するための環境や、構築される実行環境についても、成長著しいものがあった。そのため最初はごく私的な用途で、またそれで実績が出来ると次第に用途を拡げて行くようになった。
それが成功すると、Linuxを商品として扱うところが出るようになった。商用のディストリビューション(注7)やサーバの販売である。特に後者については、Linuxの品質やUNIXとの互換性の高さ、また環境の構築しやすさ等の要因により、多くの「業者」が参入するようになった。
この「Linuxサーバ」は性能も品質も良く、またOSライセンス料金のこともあって廉価に作ることが出来、出来上がったシステムをきちんと性能評価することが出来るところや、システムの中身をあまり気にしないところには非常に良く売れた。しかし、Linuxには「タダのOS」というイメージが強かったため、
- タダのもので金を取るのか?
- タダのものが信用出来るのか?
- タダのものに保証が出来るのか?
といった、「タダ」ということでマイナスの評価を受けることが少なくなかった。そのため、ブランドが重要な人々にとってのウケは今一つで、そのため「一般大衆に普及する」ということは出来ず、ある程度技術のわかったところにしか広まらなかった。
しかしこれではビジネス的にパンチに欠ける上、「布教」をしたい人にとっては「言われもない中傷」であった。そこでこの「タダ」というイメージがつきまとう「フリーソフトウェア」という言葉を変えてしまおうという動きが出て来た。その言葉が「オープンソース」である。つまり、「Linuxはソースが公開されているソフトウェアです」という表現を使ったのである。重要なのは、この言葉の中に「フリー」という言葉やニュアンスが全くないということである。また折良く、ネットスケープナビゲータの新しい版が、Linux同様「オープンソース」となった。このネットスケープナビゲータは元々商用のソフトウェアだということがあり、「オープンソース」という概念と「フリー」という概念は直接リンクしないという印象付けを成功させた。Linuxはネットスケープナビゲータと同じクラスに属するソフトウェアということになったのである。
この言い換えが成功したからかどうかは別にして、この後のLinuxの爆発的普及は記憶に新しい。これについては一々書くまでもなく、皆さん御存知のことだろう。
注7)ディストリビューション Linuxの動作環境を構築するためのファイル群をまとめたもの。
技術的優位性
前節のような歴史を持ってLinuxの今日がある。前節の説明の中では歴史的必然性を強調するためにあえて技術的な要因について述べなかったが、無論このようなものが技術的な根拠がなく使われるはずがない。多くの人にとってもはや常識でしかないLinuxの技術面での優位性について少しだけ触れておく。
UNIXとの互換性
言うまでもないことであるが、LinuxはUNIXと互換性のあるOSである。元々UNIXにはBSD系とSystemV系とがあり、それらの間にかなりの非互換があった。しかし、これら非互換の多くはPOSIX(注8)という規格の下に統合化されており、Linuxは基本的にPOSIXに準拠するように設計されている。また、POSIXの規定していない部分についても、極力互換性を持つように設計されているため、BSDともsystemVとも互換性がある部分が多い。そのため、ユーザのレベルでは完全にUNIXであると言っても良い。
またUNIXには事実上の標準グラフィックシステムとしてX Window Systemがある。このため、本来ハードウェア依存性の高いグラフィックソフトウェアも移植性を持って作ることが出来る。
このようなことから、UNIX用として作られたプログラムの大多数はLinuxの上で容易に移植することが出来る。また、そのまま動かなくても移植作業は容易であることが多い。その結果UNIX用として公開されたオープンソースソフトウェアは、たいていLinux上に移植された。Linuxにサーバ系のソフトウェアが多いのは、元々UNIXがサーバに多く使われていたため、その辺からの移植が多かったからである。
また、このようなAPI的なことの他に、ユーザインターフェイス的にもLinuxはUNIX的な部分が少なくない。UNIX上のソフトウェアがたいてい動くということから、それらを使う限りはUNIXと全く同じものとして使える。また直接UNIXから移植されたソフトウェアでなく、Linux用として作成されたプログラム(システム管理用ツール等)であっても、基本的UNIX的使い心地を踏襲しているため、やはりUNIXと同じ感覚で使える。UNIXは同じUNIXであっても、SystemV系のものとBSD系のものではコマンド等が若干異なるため、システム管理コマンドあたりの使い勝手が若干異なることがあるのだが、Linuxは元々どっちということなく作られたものであるため、どちらにも似せることが可能である。そのため、SystemV的な使い勝手とBSD的な使い勝手から選択出来るようになっているものもある。
このようにLinuxは単に「UNIX」という大きなくくりとして互換性が高いだけではなく、SystemV系やBSD系といったような細かいレベルまで互換性を持つようになっている。これはソフトウェアリソースの有効利用だけではなく、プログラマやシステム管理者といった人的リソースまで有効利用出来るということ である。
注8) IEEEの標準化UNIX規格。
UNIX的でない部分
Linuxは基本的にUNIXと互換性を持つOSとして設計されて来たのであるが、基本的にはUNIXから継承されたコードはない。全く新規に設計され、新規に作られているため、UNIXの実装上の過去を引きずる部分はほとんどない。
これは特にネットワークコードに顕著に見られ、多くのUNIXで使われるBSDコードとは直接関係を持たない。ところがこのような部分の多くは既にオープンソース化されていたり、論文や報告で問題点か改良の方法が提案されていたることが多いため、それらの成果を取り入れながらも、BSDコードの持っていた問題点等も新規に設計され直したため、解決されていたり、改良されていたりしている。たとえばBSDのネットワークコードの中身は広く知られているため、時々その穴を突いたようなクラックをされることがあるが、そのようなクラックが元で多くのBSDコードを持ったルータやサーバが停止しても、Linuxは停止せずに動き続けるのである。
もちろん新規に設計実装されたものであるから、いわゆる「枯れたコード」にはなっていない。そのため、安定性を疑問視する声がないわけではない。しかし、Linuxは非常に多くのユーザを獲得した結果、枯れることによるコードが安定することが期待されなくても、多くの人に叩かれることによって安定することが期待出来る。そのため、新しい実装を採り入れても、その評価はかなり短い期間で行うことが期待出来る。そのため枯れたコードを使うことにあまりとらわれないで済むので、新しいものを採り入れることが割合簡単である。
また、LinuxはUNIXであること自体にも引きずられる必要がない。それは「Linuxはこうあるべし」的な強制力を持った指針がないということから、またLinuxは元々OSのカーネル部分だけの存在であるということから、そのようになっているのである。そのため、無理にUNIX的ディレクトリを構成する必要はない。またUNIX的に使われなければならないという決まりもない。だから組み込みシステム用OSとして使うことも可能であるし、そのようにしたシステムもまたLinuxである。しかもそのような形のアレンジをされたLinuxであっても、Linuxであることは同じであるため、UNIX的な使われ方をするLinuxとも互換性を持たせることが出来る。
オープンソースであること
Linuxはその生い立ちからオープンソースである。そのため、オープンソースソフトウェアのメリットは全てLinuxにも有効である。また、単にオープンソースなだけではなく、GNU GPLの下に配布されるソフトウェアであるから、そのメリットも享受することが出来る。
使う側の立場から言えば、オープンソースで あることにより、
- それ自身の技術情報の詳細が公開されている
- 他のソフトウェアを作る時に参考に出来る
- 必要があれば自分で問題解決をしたり改良を加えたり出来る
といったようなメリットがある。またLinux 自身にとっては、
- 広く技術情報が公開出来る
- 多くの人の手によって改良される可能性がある
- ソフトウェアの寿命を伸ばすことが可能
というメリットがある。
これらは無論独立したものではなく、それぞれが密接に関係しており、相乗効果的にメリットを産んでいる。
このオープン性こそが、特定のベンダやメーカに依存することなくLinuxが進歩し続けることが出来る要因である。
低エントロピーの解
Linuxは様々な点において低コスト省資源であると言える。これは単にコストだけではなく、それ以外の面でも言えることである。
ハードウェアコスト
Linuxは一般に軽量で高速だとされている。また、品質も良く、商用利用に十分耐える。これはローコストで実用的なシステムが構築出来るという可能性を指唆している。
また、多少時代遅れのハードウェアでも問題なく動くため、それまで動作させ続けていて古いが動作実績のあるハードウェアがあれば、それを利用することが可能である。つまり、徒に「高信頼ハードウェア」を用意しなくても、ある程度は信頼性を確保出来るということにもなり、その点でもコストダウンが可能になる。当然そのようなハードウェアはそれまでは単なる廃品になるしかなったわけであるから、新規に購入するコストが節約出来るのみならず、廃棄コストまで節約出来る。つまり、「地球にやさしい」のである。
新規に購入する場合であっても、一般的にはWindowsNTと比較して、メモリもCPUもそれ程必要としない。当然その部分はコストセーブ出来る。あるいは節約出来た分を信頼性確保に回すことも出来る。
このように大きなハードウェアを要求しないということは、単なるコストだけの問題に留まらず、信頼性向上、また(一般的な意味での)省資源に有効なのである。
開発コスト
また、多くのソフトウェアはオープンソースであるだけでなく、フリーであるのでソフトウェアの入手性、コストパフォーマンスは非常に高い。開発のための仕入れコストを全くゼロにしてしまうことも不可能ではない。開発ツールにしても、WindowsにあるようなVisual C++のようなものを期待しないで古典的な開発ツールを使う限り、コストはほとんどかからない。ライブラリやツールキットの多くはフリーなのである。
開発に必要な情報も、その多くはネットワーク上で入手可能なものが多い。もちろん多くの場合オープンソースであるから、ドキュメント化されていない技術情報もソースから読み取ることが可能であり、他のOSでありがちの「情報を求めて本を買いあさる」というようなことはしなくて良い。また、多くの場合サンプルプログラムも大量に存在しているので、学習のための材料に困ることは、あまりない。
実際の開発について見てみると、何か新規にソフトウェアを作る場合、既存のソフトウェアを拡張したり参考にしたりすることが出来る。古き良き時代のUNIXにあるように、「プログラムをスクリプトで結合して新しいプログラムを作る」といったスタイルも可能であるし、現在ではそれをGUIなプログラムに仕立て上げるようなプログラムも存在している。
また、一切の流用を行わず全く新規にソフトウェアを作る場合であっても、既に同様のソフトウェアが存在していることが多いので、機能設計のような上流工程でのコストの節約も期待出来る。既存ソフトウェアをプロトタイピングのために用いることも可能である。
管理コスト
システム管理については、Linuxは基本的にUNIXと同じである。そのため、技術的にはUNIXと同じでよい。使われる用語もほとんどはUNIX界の常識的なものばかりであるから、一般的な用語で無用に混乱するようなことはない。「マイクロソフト用語」のように、既存の技術用語を別に意味に定義したものはない。だから、多少の違いを学習するだけで、他のUNIX系OSのシステム管理者をLinuxのシステム管理者にすることが可能である。人的資源の有効活用が出来るのである。
また、Linuxそれ自体はフリーであるし、その上のアプリケーションの多くもフリーである。そのため、同じ設定で大量にシステムを配布する必要がある場合、一々システムをインストールしなくても、一つちゃんとシステムを構築しておけば、それをダビングして配布することも可能である。ソフトウェアの更新も、ライセンス管理のことを考えることなくファイル分配ということだけ考えていれば済む。ライセンスコストのことだけ考えれば、完全にフリーであるということと、個々のライセンスが安いということと似てはいるが、管理コストということを考えると、全く違うことである。
サポートコスト
最近でこそLinuxも商用サポートがあるのだが、まだそれ程一般的になっているとは言い難い。そのためLinuxは外部によるサポートは今一つ期待することが困難に見えることは否めない事実である。
商用UNIXの場合、サポート契約の中にOSのバージョンアップ費用も込みになっているため、サポート契約を結ぶことに抵抗感はないし、費用の点でも納得しやすいのであるが、Linuxは「ローコストUNIX」という面から導入されることも少なくない上、バージョンアップのためのソフト費用は本来0であることは誰もが承知していることなので、他のUNIX同様の費用となる商用サポートを導入することに抵抗感のある人も少なくないだろう(実際のサポート費用の大部分は人件費である)。
このような事情から、Linuxユーザの大部分は「自助努力によるサポート」ということになる。幸いなことに、元々Linuxは自助努力によるサポートが基本であったから、そのための文書は大量に存在している。それらに問題点が全くないわけではないが(古かったり勘違いしたものがないわけではない)、よく読み込めば必要な情報はたいてい得られる。
それでも不足の場合は、いわゆる「コミュニティによるサポート」が期待出来る。つまり、関連するメーリングリストに質問を投げることが可能である。これは無闇に使うことは推奨されない「サポート」であるが、最後の手段的に思っておけば、安心して「自助努力によるサポート」を行うことが出来る。もちろんそこに流れている他の人の質問や答えを見ているだけでも、随分と勉強になる。
このような事情は、商用のサポートをしなければならない立場の人、たとえばメーカのサポート部隊であるとか、システムインテグレータであるとかという人々にとっても、非常に都合が良い。本来大きなメーカやシステムインテグレータは「システム技術部門」といった、「サポートのためのサポート」という部門がある。そこの部分をそっくり「コミュニティによるサポート」や「自助努によるサポート」に置き換えることが可能である。そのため、サポートそれ自体のコストも抑えることが可能になる。
共存へのパラダイム
これは私が日本Linux協会の設立準備作業をしていた時に思ったことなのであるが、メーカやベンダーはことLinuxのこととなると、非常に利害が一致している。それと言うのも、全てがLinuxという共通の「商材」を扱っているという点で、共通しているからだと思われる。この「商材」を直接扱う技術部門や商品企画部門あたりでは、利害が一致しており、いわゆる競争のある部門は営業部門だけである。場合によってはその営業についてさえも、「共闘」という体制になっている。
また、時として対立しがちであるユーザとメーカの論理も、一部のわけのわかってないユーザを別にすれば、今のところは一致しているように思われる。
つまり、今現在のLinuxをとりまく環境は、様々な立場の人々が利害の一致の下に共存共栄を計っているように見える。
この理由は様々考えられるのであるが、それはLinuxが極端にオープンなシステムであるため、ある種の独占の働きにくい世界であるということと、元々「メーカ」と「ユーザ」との境界線のはっきりしない世界であったということで、それぞれがそれぞれの立場を理解しやすいということからではないかと思われる。また、Microsoftの一人勝ちへの批判が高まっているということもあって、コンピュータ業界は一人勝ちを嫌うような状況が出来ているというのも原因の一つと考えられる。
このような状況にあって、ビジネスを成り立たせて行くためには、シェアをいかに取るかという従来のビジネスではなく、共通の資源であるLinuxからどうやってそれぞれのメリットを得るかということが重要になると考えられる。元々、Linuxは戦略上産まれたものでもなければ、最初からある程度のマーケットが保証されたものでもない。いまだあまり大きくないパイを皆で分け合うのがLinuxの現状である。だからまずパイを大きくすることを、ビジネスのポイントとしなくてはならない。今のままでは、この半年くらいに流入した人々のビジネスが成立するのは困難である。
そのためには、いかにして他者と協力し共存して行くかということ考えなくてはならない。このような考えは一種の幻想と思われるかも知れないが、Linuxというものは今までの常識を超えたものを提供し続けて来ているので、あながちありえないこととは言い切れない。
可能性への期待
現在のLinuxの「流行」は一種の「バブル」であると言われている。いくつかの技術的問題点を挙げたり、商業的問題点を挙げたりしながら、「Linuxの時代は長くは続かない」「今の状況はバブルであるから反動が心配である」という声がある。
極端に間違った批判は別にして、多くの批判はたいていはその時点では間違ってはいない。中には「最新情報を見てから言え」と言いたくなるような批判がないわけではないが、多くはそうではない。だから、現実にLinuxはそこで指摘されている欠点を持っているわけである。
しかし、Linuxの良い点は、そのような指摘された欠点は時間が解決して来たということである。つまり、今日の欠点は明日には解決されている可能性が大なのである。かつて商業的サポートがないと批判されたことがあった。しかし、現在ではそれは不完全ながらも解決されている。かつてLinuxのネットワークはセキュリティ的に不安がある上に、効率が今一つだと言うことで「Linuxはサーバには使えない」言われていた。しかし今日Linuxの批判として「サーバには使えるがワークステーションとして使うにはまだまだ」というような、全く逆の批判がされるようになった。このようにLinuxは常に変化し進歩し続けているのである。
私はLinux Japan誌で「Linux TODO」というタイトルでLinuxにはここが不足している的な指摘をし、その解決はどうあるべきかということを書いて来たのであるが、その多くが雑誌掲載後しばらくすると解決されているのである。それくらいLinuxとそれをとり巻く世界の進歩は早いのである。
Linuxの進歩には派手さはあまりない。新しい機能が実装されても「あってあたりまえ」的なものが多い。しかし、必要なものが確実に実装されて行く。しかもそれは我々の期待を裏切ることがない。Linuxは常に現実が存在し、vaperなものがないのである。
このようにして、Linuxはそれまでの我々の常識を打ち砕きつつ、かつ新しい常識を提供し続けて来た。実はこのことこそが「今なぜLinuxなのか」ということの答えなのかも知れない。