95年12月11日執筆

開発と人の和

みんなが作ったOS==Linux


はじめに

Linuxは随分とメジャーなOSになって来ました。人によっては「これからの10 年生き続けているOSはWindowsとLinux」と言ってのける人もいる始末です。某 誌の読者アンケートの「インストールしているOSは?」という問いでは、 Windows,MS-DOSといったMicroSoftのOSの次くらいに多いという結果もあるく らいです。ちまたにはLinuxのインストール本は結構ありますし、CD-ROMも多 数出版されています。

ところが、Linuxはほんの数年前には存在すらしてなかったOSなのです。また 存在するようになっても、*BSDのような実績もなければ、ブランドでもない、 単なる一ハッカーが勉強のために作ったものでしたから、今のような隆勢は想 像することすら出来ませんでした。この辺の事情は、何もBSDな人々の口を借 りなくても、Linuxを実際に使っていた人々も知っていたことです。口では 「Linuxはいいよ。何でも出来るし、どこでも動くし」などとメリットを挙げ ながらも、「NetBSDってオタクでいいよなぁ」「LinuxはHurdが動くまでのつ なぎだよなぁ」などと内心思っていたものでした(実は今も思っていたりしま す)。

そんな「二流品」のOSだったLinuxが今や(少なくともマーケッティングでは) 一流のOSであるWindowsやMS-DOSの背中をとらえ、それまで一流と言われてい たBSDを(少なくとも人気の上では)凌駕するに至ったわけです。それはなぜで しょうか? これには色々な立場の人が色々な解釈をすることが出来るでしょ う。「それはInternetが育てたのだ」と説明する人もいるようです(「インター ネット進化論」P.70)。しかし、Linuxが「おしめ」をしていた頃から見て来た 者としては、それは確かに嘘ではないし、広義では正しいことだとは思います が、一方単なる一面に過ぎないようにも思います。それでは一体、何がLinux をここまで成長させたのか? それについて「内部」から見た歴史についてお 話したいと思います。

初めにLinuxがあった。LinuxはLinusと共にあった

最初にも言ったように、Linuxは初めは本当にマイナーなOSでした。だから Linuxの初期を知る人は割合で言えば非常に少数になってしまいました。100年 も前からLinuxを使っているような顔をしている私も、Linuxを初めて使ったの はVer 0.95ですから、そんなに大きな口は叩けません。とは言え多少は大きな 口を叩かないことには話が進みませんから、私よりもうちょっと前からLinux と関わって来た人々の話も参考にしながらお話しようと思います。

Linuxが書かれ始めたのは1991年の春頃の話です。そして、Minixと同じような ことの出来るkernelが出来たのが1991年の秋頃。私が実際にLinuxを動かした のが1992年の春頃の話です。ちょっと古い人は知っていると思いますが、この 1992年というのは記念すべき年で、Linuxが一般公開された年であると共に、 386BSDが公開された年でもあります。その頃両方を動かしてみて、「やっぱり BSDは偉いな。Linuxはまだまだだな」と思った人もあると思います。私もその 中の一人です。とは言え、386BSDにしてもLinuxにしても、ごく初期の版でし たから、山のように虫がいたものです。 ところが両者の違いはそれからです。当時の386BSDを使いこなしている人は多 かれ少なかれhackerですから、問題を発見したらどんどん自分でfixして行き ました。中には親切な人もいて、fixしたパッチをネットに公開してたりして いました。お陰で品質は良くなりましたが、同じ作業を複数の人がやった結果、 似たようなパッチが多数出回ったり、別の機能のためのパッチであっても、過 去に当てたパッチに依存したパッチになっていたりして、初心者やネットワー クにアクセス出来ない人には、とても手に負えるような代物ではありませんで した。「パッチキット」を作った人もいましたが、それは結局パッチを集めた ものに過ぎず、オリジナルがVer 0.0 → Ver 0.1となった後はVer 0.2とかに なったりしてはいません。この辺を後に反省してNetBSDやFreeBSDが出来る元 となったということも知っている人は知っていると思います。

一方Linuxは制作者であるLinus自身がどんどん改良して行きました。途中から 色々な人がパッチを作ったりドライバを新規に書いたりしていましたが、適当 な頃にLinusがオリジナルへ吸収して行き、Ver 0.95 → Ver 0.96 → Ver 0.97といったように、順調に新しいkernelが作られて行きました。386BSDの作 者であるJolitz夫妻が事実上手を引いてしまったのと違い、Linuxは昔も今も Linus自身が保守し育てています。kernelソースのREADMEを見ると、実に多く の人がkernelを作るのに協力してはいますが、あくまでもLinuxはLinus自身の 著作物であることに変わりはありません。Linuxでもun-officialなパッチが多 数ありますが、これらも待っていればオリジナルに吸収されて誰にも使えるよ うになって行きます。ですから「レベルダウン」という「新しくなったらバグ が入った」という現象にさえ注意していれば、何も細かいことを知らなくても、 単に新しいバージョンを手に入れることでより良いkernelを使うことが可能に なるのでした。

これは単にLinusがマメな性格をしていて、Jolitz夫妻はいい加減な性格をし ていた... ということではありません。この辺の違いが両者の違いを決定づけ る「文化の違い」の元であるように思います。元々386BSDは386BSDという完成 したOSを提供するのが目的ではなく、「このようにするとBSDがPC上で動かせ るのだよ」という実証のためのものでした。だから動いてしまえば「後は皆さ んで勉強して下さい」という形で放り出されても当然でしたし、「OSを作る」 ということを目的とした生きたテキストでしたから、テキストが想定している レベルに到達するのは各自の責任でした。だからこの「テキスト」について来 れる人は、やはりOSの中身がわかるhackerであるというのは暗黙の了解でした。 Linuxは始めの頃こそhackerやLinus自身のおもちゃでしたが、かなり早い時期 から多くの人に使われることを目的とした「実用OS」を目指していました。で すから、いわゆる「タコ」と呼ばれる人種も使うということが暗黙の了解でし た。この両者の「暗黙の了解」の違いが、「freeと言えど手厚いサポート」が あるOSなのか、「hacker対象とは言え生きた教科書」であるOSなのかという違 いであるわけです。そして、この「freeと言えど手厚いサポート」という考え 方が、その後のLinuxの発展を支えて来たものなのです。

SLS誕生

今でこそ「Linuxのインストール」と言えば、SlackwareでもRedHatでも、「フ ロッピで起動して、後はインストーラが色々やってくれる」ものですが、ごく 初期のLinuxには、そのようなものはありませんでした。ではどうやってイン ストールしたかと言うと、Linusが`bootimage'と`rootimage'という2つのファ イルをリリースしていて、それぞれをフロッピに書き込み、bootimageを入れ たフロッピを入れてリセットするとkernelが読み込まれてLinuxが起動し、そ の後rootimageを入れたフロッピを入れると、いくつかのコマンドが使えるよ うになるので、それを使って、自分自身をハードディスクにコピーしたり、他 のソフトを持って来るのに使ったりして、自分で動く環境を徐々に構築して行 くのが普通でした。ごく初期のrootimageにはtarすら入っていないため、外か らプログラムを持ち込むのには随分と工夫をして入れたものでした。今から見 れば非常に原始的ですし、上手にやるにはかなりの技術を必要としましたが、 反面自分の好きなようにシステム構築出来ますし、見通し良く細いところまで 把握出来ますから、再評価されてもいいのではないかと思います。

このようなちょっと技術を要する方法が当時の標準でしたが、それでもほぼ full setのUNIX環境が手に入るということから、結構「タコ」でもLinuxを動 かすようになって来ました。それと共に、このインストールをもっと容易にし、 またある程度完成されたシステムを簡単に構築するための方法が必要とされま した。同じ頃にリリースされた386BSDは当時のLinuxよりもはるかに簡単にイ ンストール出来ましたし、それによって構築される環境はかなりの完成度を持っ ていましたから、同じようなことをLinuxにも求めたくなるのは人情と言うも のです。当時回覧の胴元をやっていた私は「いかにしたら手軽にLinuxを楽し んでもらえるか」ということを考えて、386BSDのような環境を作って配布しよ うかと思っていたくらいです。

そのような時、ちょうどkernelがVer 0.96の頃ですが、「SLS」というパッケー ジが登場しました。これは今のSlackwareの原形とでも言うべきもので、内容 やインストール方法もだいたい同じようなものです。色々苦労して環境を構築 していた当時にしてみれば、たった30枚程のフロッピを順番に入れるだけで、 gccも動けばXも動く環境が構築出来るというのは、本当に夢のような話でした。 何しろバラバラのファイルを苦労して入手して来なくても、「1セット」を入 手すれば、何でも揃いましたし、一々tarを実行しなくてもインストーラが自 動的にファイルを展開してくれてました。当時としては、DOSやWindowsをイン ストールしているのと同じような気分でした。

このSLSは便利な環境を提供してくれたと共に、一つのパラダイムシフトを我々 に提示してくれました。それは、

と言ったことです。このパラダイムシフトが今日のLinuxの隆勢の一つの要因 となったことは明らかですし、後で述べる「JE」のようなものを作る余地を与 えてくれたものでもありました。

さらに注目したいのが、SLSを作ったのはLinusではないということです。 Linusは今日に至るまでkernelのメンテと改良を行っていますが、システムを 作るということまではしていないのです。これは

という「Linux村のお約束」の起源のようなものです。これは*BSDのように 「全てを一人が構築し、全体がセットでシステムである」というのとは随分違 うことです。この辺がLinux文化の根源に関わる部分だったりしますから、ちょっ と詳しく見てみましょう。

一人で全部やると次のようなメリット・デメリットがあります。

反対に大勢でやると次のようなメリット・デメリットがあります。

それぞれこのようなメリット・デメリットがありますが、実際にはデメリット は解決すれば良いことなので、結局は「どちらを選択するか」というコンセプ トの問題であって、したいようにやってしまうのが現実です。そういう訳で Linuxは大勢で分担する方を選択したわけです。もちろんデメリットはありま すから、それを解決することも同時に考えられているわけです。どのように解 決しているかを見てみましょう。

全体の把握のしかた

Linux界は良いにつけ悪いにつけ、「村」にたとえられます。他のOSの場合と 違い、ユーザも開発者もかなり強く結びついています。ですから、誰が何をやっ ているかというのは、案外簡単に見えています。また、kernelはフィンランド 人が作ったものですが、システムの多くの部分はMITの流れをくむhacker達が いじってますので、「ヘイ! みんな元気かい? 最近俺ってこんなことやって るんだぜ。凄いだろ」みたいなノリで自分のやっていることを公開したりする 人もいます。Linux界は色々な文書が存在していますが、その中には誰が何を やっているかを把握するための文書までもが存在しています。小さいものこと は、それぞれに聞けばわかります。ある程度大きな物は、さらに分担されてい たりしますが、その時は責任者というかチーフみたいな人がいて、その人が全 て把握していたりします。そしてそのチーフをさらに束ねるリーダがいて... ちょうどこの辺はメーカがソフトを開発するようなシステムがあるわけです。

コンセプト

LinuxにはLinuxというシステムとしてのコンセプトは存在しません。強いて言 うなら、この「コンセプトは存在していない」ということ自体がコンセプトな のかも知れません。では全てが完全に野放しかと言えばそうでもありません。 ディレクトリ構造に関しては一応の標準が存在していますし、「Linuxらしい な」と感じさせるアプリも結構あります。ですから、コンセプトが全くないと いうのも違うような感じがします。

では、この「コンセプトはないはずなのにあるように感じる」元とは何でしょ う。やはりこれはLinux界の「文化」です。つまり全てのものは「文化」に逆 らわないようになっている結果、「Linuxの文化」という「コンセプト」で全 てが作られているわけです。「文化」というものはみんなが作りみんなの肌に 染みているものですから、特にそれに従おうとしなくても、勝手にそうなって しまうものです。

ではその「Linuxの文化」とは何でしょう。色々あるとは思いますが、やはり 一番大きいのは、「タコは財産」ということ。もっと上品に言うなら、「誰も が使えるようにする」ということです。Slackwareを何度もインストールして いる人はわかると思いますが、バージョンが新しくなればなる程、インストー ラは高機能になり、多機能になり、簡単に操作出来るようになって行っていま す。つまり「誰でも出来る」という方向に向かって進化をしているわけです。 もちろん使い道は人それぞれですから、「誰でも出来る」というのも、人それ ぞれのとらえ方があると思いますが、それでも傾向としては同じようなことを 狙っていて、「より簡単に」「よりわかりやすく」「より手軽に」といった方 向を狙っていることは同じようです。このように同じような方向に進むことを 念頭に置いてやっていますから、これが事実上の物作りのコンセプトになって いるわけです。

日本でのLinux

今はどのコンピュータ関係の本を見ても、Internetという文字を見ないことは ありません。そればかりか「おぢさん雑誌」や「エロ雑誌」でもInternetの話 が出ています(本屋で見た本に「インターネットは抜けるメディアだ」と書か れていたのにはびっくりしました)。ですからInternetは誰にも手の届くとこ ろにあるものですし、そこから世界に窓が開いているということは誰もが知っ ていることです。だから海の向こうで公開されたLinuxは日本にいても使える というのは常識でしょうし、実際にそうなのですから、「日本でのLinux」と いうことは「日本語の扱い」ということ以外では、ある意味でナンセンスな話 です。しかし、Linuxが公開された当時、今日ほどはInternetはメジャーなも のではありませんでしたし、「Junet」なんていうものに繋がっていたところ でもuucp接続がほとんどで、「どこかのサイトからftpして来る」なんてこと は、夢の中の話という人がほとんどでした。さらに多くの人はJunetにすら参 加出来ず、Niftyを始めとする「パソコン通信」がいわゆる「ネットワーク」 でした。ですから、「Internetで見える世界」と「日本のパソコン通信」とは 別世界でした。それ故に「日本でのLinux」という特殊事情の世界が存在する のも当然でした。そればかりか、「日経MIXでのLinux」とか「NiftyでのLinux」 などというものがあっても不思議ではありませんでした。というわけで、この 節での話題となります。

Internet界以外でLinuxが紹介されたのは、おそらく日経MIXのminix会議が最 初でないかと思います。それはちょうど「Linux is obsolete」というsubject でcomp.os.minixでのflame warが起きたという話の紹介だったように記憶して います。つまり「何やらLinuxという386にベタベタに依存したminix派生のOS があって、それはASTに古臭い設計であると言われた」みたいな紹介のされ方 です。同じ頃本特集の別稿を書いておられる野口さんが、やはりminix会議で Linux-InfoSheetの私訳を公開されてもいました。その頃色々なことがありま したが、結局Linuxがcomp.os.minixを追い出されたのと同じように、日経MIX でもminix会議から出て行き、Linuxの話題は私が議長をしていたfm会議の hacking分科会というところで話されるようになりました。元々このfm会議と いうのは、「富士通パソコンに関する会議」ということで、とてもメジャーに なれるような会議ではなかったので議長が私物化しても文句が言われ難かった ということと、「何か話題がないと会議の存続が危い」という事情もあって、 「Linuxネタで活性化しよう」ということでLinuxの話題を引きうけることにし ました。またそのLinuxの話が出来る人を一人でも増やすために、回覧を行っ て普及をはかったものでした。つまり私がLinuxの普及活動をするようになっ たのは、全く偶然の話でした。

この回覧の元ネタは野口さんがftpして来たものです。当時はまだCD-ROMで入 手なんてことは出来ませんでしたし、ftpは「特権階級」のものでした。だか ら回覧をしたくても元ネタの入手はなかなか簡単ではありませんでした。そこ を野口さんに助けてもらったわけで、最初はこのようなささやかなものでした。 それでもLaser5から出た最初のLinux CD-ROMの/OTHERSの中身はこのテープを 整理したものが元になっています。

Linux mailing-list

このように頑張って日経MIXで仲間を増やしたのですが、やはりInternetで情 報をやりとりしないことには、今一つ伸びに欠けるということで壁に当たって しまいました。幸いこれも日経MIXでの付き合いから上流サイトの確保が出来、 Internetのnewsを読んだりmailing-listに参加したりすることが出来るように なりました。ほぼ同じ頃に真鍋さんがkonを公開し始めていて、やっとLinuxで も日本語が使えるようになりました。

konは御存知のように、DOS/Vなどと同じ原理でグラフィックを使って日本語を 表示する機構です。DOS上ですとビデオBIOSと使うだけでグラフィックの初期 化が出来ますが、Linuxではそれが出来ません。となるとグラフィックの初期 化関係はそれぞれのビデオボードに対応したロジックを書く必要がありました。 当時の興味の対象は、

でした。いずれもビデオボードの機能をよく知らないとプログラム出来ません し、それぞれのマシンを持っていないとテストも出来ません。MLの最初の頃は そんなような話題に終始していたように思います。そのあい間に「どのように したら普及させることが出来るか」とかといった戦略的な話がされたり、それ と関連して「Niftyでの様子」「PC-VANでの様子」といったような情報交換が 始まったりしていました。

今までのOS関係のnews groupやmailing-listでは、Q&Aや開発の話が出て来 るのは普通でしたが、「いかに普及させるか」といった話題が出て来ることは 稀でした。そもそも、特定のOSを普及させるということは、とても一般人がす るようなことではなく、OSメーカやその関係の会社のする仕事です。ですから、 一般ユーザは主に「そのOSをどう使うか」ということを考えていれば良かった のです。なぜそのようになったかは「Linuxを256倍使うための本」に書きまし たので繰り返しになってしまいますから詳しくは書きませんが、「とにかく仲 間を増やしたい」という思いがみんなの中にあったのだけは確かです。そして、 それは今までhackerにだけ許されていた「OSに直接関わること」を「普及活動」 という形で一般の人に解放することにもなりました。この「普及」というもの は、いわゆるhackerでない人にとっても、結構楽しく刺激的なテーマでした。 ですから、「mailing-listを通じてパソコン通信を越えた情報交換をしよう」 ということであちこちのネットに組織的に参加してみたりもしてみました。こ のようにかなり初期からLinux-MLでは普及活動を行うようになりました。具体 的には、

といったところです。

JE誕生!

そうこうしているうちにWnnやktermといったものもLinuxに移植されるように なって来ました。Linuxで日本語を扱うための環境は徐々に整いつつあったの です。しばらくしていると、真鍋さんが「Linuxで動くソフトのリストを作り たい」ということで、主に国産のソフトのリストを作り始めました。私は真鍋 さんではありませんから、彼の心の中でどのようなことがあったかについて、 詳しいことは知りませんが、それからしばらくしてSLSにadd onして日本語を 使うための「JE」がリリースしました。JEのごく初期の版は、今あるようなイ ンストーラもなく、SLSのインストーラに依存したものでしたし、パッケージ ングの稚拙さはありましたが、「インストールするだけで日本語がバリバリ使 えるパッケージ」は非常に画期的でした。また、「なぜJEか」といった理論武 装をしたりもしました。何しろそれまでは、「UNIXではソフトは自分でコンパ イルするものだ」みたいな空気があり、バイナリで配布するなんてことはとて も考えつくようなことではなかったからです。

JE以前のLinuxでは、

  1. まずSLSをインストールする
  2. konをインストールする
  3. NEmacsをインストールする
  4. 各種アプリをインストールする

といったような手順で環境を構築していたものです。これは何だかSLS以前の Linuxの環境構築に似ていますね。問題点も似たようなもので、とにかく面倒 でしたし、初心者にはちょっと荷が重いことです。しかし、JE以後の日本語環 境構築は、

  1. まずSLSをインストールする
  2. JEをインストールする

だけで終わりです。これで表示から処理までの、今日普通に日本語処理用とし て存在するプログラムは、ほぼ全部動くようになります。これは非常に画期的 なことでした。

しかも、JEは独立したパッケージではなく、他のパッケージのadd onとして作 られていました。この方法は元のパッケージとは別にインストールしなくては ならないという欠点はありましたが、逆に多くのパッケージと組み合わせるこ とが可能でもありました。実際、初期のJEはSLSのことを考えて作られたもの ですが、後に出たSlackwareにもインストール出来ましたし、ちょっと工夫す るだけでYggdrasilにも対応出来ました。とにかく、このJEのお陰でLinuxは日 本で認知されたOSとなることが出来たと言っても過言ではないでしょう。

余談になりますが、日本以外の国で日本語をサポートしたOSを入手する必要が ある場合、Linux+JEというのは、もっとも簡単に入手出来る環境なのだそうで す。我々は日本に住んでいますから、DOS/Vでも日本語Windows95だろうが手に 入りますが、これらは外国では簡単には入手出来ないのだそうです。ところが JEは普通にftp公開されていますし、海外のあちこちのサイトにミラーされて いますし、外国製のLinux CD-ROMにもたいてい入っています。ですからこと海 外の場合は日本語の使えるOSで一番手軽なのはLinuxにJEをadd onしたものな のだそうです。

Linuxの神々と教祖様

JF

JEのお陰で日本でのLinux userは爆発的に増えました。それと同時に多くの 「タコ」と呼ばれる人も増えて来ました。これはもう良いとか悪いとか言う以 前に、当然の自然現象とも言えることです。そしてLinux本体がタコによる信 頼性テスト(「タコ行為」とも言う)によって信頼性が上がって来たのと同じよ うなことがJEにも求められるようになりました。つまりある種の「保証」を必 要とされるようになったのです。もちろんfree softwareの常識としては、保 証やサポートの類は一切しなくても許されるのが本来ですが、そーゆー「お約 束」も知らない人がユーザになってしまったのですから、何とかするしかあり ません。

そこでとにかくFAQだけは何とかしようということで、FAQLを作ることにしま した。最初はLinux-MLのメールを見て、質問と答えの対を作ってまとめるとい うところから始まりました。それをやり始めたところで、「何とか自動化した い」ということで使われるようになったのが通称「質問形式」と言われるよう なSGMLの利用です。つまり説明のしかたを工夫することにより、自動的にFAQL を作ろうとという試みを始めました。このようにいて元々はFAQLを作るための プロジェクトが起きました。最初はMLに出ている質問を整理してFAQLを作ろう という、ごく小さな集まりでしたが、これが元となってJFというプロジェクト が始まりました。その後、ドキュメントやLDP bookの翻訳も手がけるようにな り、いつしか日本のLDPプロジェクトのようになって行きました。「チーフ」 は小野さんということになっていますが、これは特別な事情があったわけでは ありませんが、「古いMLの記録を読んでいたらやる気になった」ということだ そうです。最初は単にメールでのやりとりでしたが、「どうせならMLの方がい いよね」とそそのかして、JF-MLの発足となりました。これがJFの起源です。

JG

JGはJEやJFのような必要性を持って出来たものではありません。どちらかと言 えば「ノリ」のようなものから生まれたものです。JEというのは、「元になる パッケージに追加して使うパッケージ」という形式です。つまり「汎用パッケー ジに追加することにより、ある目的を達成する」という考えで作られていると 言えます。つまり、汎用パッケージで作られた環境に「日本語処理」という機 能を追加するのがJEというわけです。そうなると同じようにして、色々な機能 を追加するパッケージが考えられるわけです。ですから、汎用パッケージに 「ゲームとエンターテイメント」という機能を追加するものとしてJGは企画さ れたわけです。と言うのは表向きの理由です。

実際は、ある日、某所で「Linux CD-ROMを作ろう」という打ち合わせをした帰 り、私が帰りの飛行機の時間を勘違いした上に、ズルズルと残ってしまい飛行 機の時間が迫ってしまったため、Laser5の窪田氏の車で羽田まで送ってもらう こととなりました。その時同席していた阿部さんは窪田氏同じ横浜の人だった ので、帰りに一緒に送るということで、3人帰ることにしました。その日は首 都高が妙なところで混雑していたため、私は結局飛行機に乗れず、仕方がなく、 「窪田先生の医院(窪田氏の本業は歯科医)で遊ぼう」ということで、3人は横 浜某所の歯科医院に行きました。

その途中で、「JEみたいなのを阿部さんもやらない?」と私がカマを掛けたら、 人を疑うことを知らない阿部さんは「今会社のWSにゲームを集めてるんですよ。 これを...」などと言うものだから、「それいいよ。JGってことでゲームのパッ ケージ作って、SLSの(当時はSLSというパッケージが流行っていた) add onっ てことで出せるじゃない」という話になり、阿部さんはJGを作ることになった のでした。つまりJGは「口は災いのもと」に近いノリで始まったものです。

もちろん阿部さんは優秀な技術者ですから、このように簡単に出来てしまった のでしょうが、あまり難しいことを言わないで「ノリ」でもやれるということ の実証でもあります。とにかくこのようにして阿部さんも「Linuxの神々」の 中に加えられるようになりました。

教祖様?

私は「神々」の方々とは違ってそれ程技術があるわけでもありませんし、Jシ リーズのパッケージを作っているわけでもありません。しかし、なぜか「教祖 様」ということになっています。語源はある本の対談の時にBSDな人に

ぼく自身も含めてLinuxのユーザは、生越さんの存在を無視できないんですよ。 たとえは悪いけど、教祖様のように生越さんが思っていることがちゃんと伝わっ ている。つまり、ちゃんとしないといけないんだ、ちょっとでも道をはずれた らLinuxの名誉のために正さなければならないんだ、という思いが末端のユー ザーにも浸透しているんですよ。

と言われたことです。どうも私がそういったことのリーダと思われているから のようです。私自身は今も昔もそういった「日本のLinux界のリーダ」みたい な立場になったことはありません。ただ、この発言をされた当時はLinuxは今 ほどはメジャーな存在ではなかったし、私を含めて多くの人が普及させようと 頑張っていた時期ではありますし、今ほどは雑誌でLinuxが取り上げられるこ ともありませんでしたから、ちょっと私が目立っていただけのことだと思いま す。私は自分がそう大したものではないことを痛いくらい知っていますから、 あまり上に持ち上げられるのは好まないのですが、そういう位置にいるのは色々 都合が良いので、敢えてそのままにしています。私は神々な方々とは違って、 持ち上げられるようなことは何もしていませんから、私を「教祖様」と呼ぶの は面白くないと思う人は、別にそう呼ぶ必要はありません。しかし、そういっ た私的な側面以外にこの「教祖様」と呼ばれることには、今の日本のLinux界 の一つの側面を見せる部分でもあります。ではなぜ私が「教祖様」などと呼ば れるようになったかという話をしましょう。ポイントはこの発言に中の「ちゃ んと伝わっている」にあります。

Minixという「教育用」のUNIXモドキがありました(今もあります)。Linux以前 は一般人の手の届くほとんど唯一のPC-UNIXでした。元々教科書の教材として デザインされていましたから、LinusもMinixで勉強しましたし、kernelイジリ をしている多くの人がそうだと思います。このMinixが日本で紹介された頃、 日経MIXのminix会議の人々がPC98に移植しました。これが通称「MIX版」と呼 ばれている移植です。それとほぼ同じ頃にASCIIからもPC98に移植した版が発 売されました。これが通称「ASCII版」と呼ばれている移植です。それぞれの 移植をした人々は、特に交流がありませんでしたし、移植されるちょっと前に MIXの人々とASCIIとの間にはMinixの著作権に関する考え方の違いから、ちょっ とした(大変な?)感情のもつれもあり(これはあまり思い出したくないことな ので「あった」というだけにしておきたいと思います)、またMIXではASCII版 は中身をよく知らないことも手伝って、無視されたような存在でした。確かに 中身がよくわかりませんから、「○○が動きません」と言われても答えようが ないのは事実ですが、質問する方が困るのもまた事実ですし、同じ機械への移 植が複数存在しているというのは色々面倒であるというのも事実です。結局、 これは同じOSに対して複数のコミュニティがあったから起きたことです。当時 は今程はInternetが使われていたわけではありませんから、ある意味ではしか たのないことでした。

Linuxが日本に紹介された頃も、事情はそう違っていませんでした。しかし、 そういった「Minixの不幸」を知っていた者としては、同じようなことが起き るのを避けたくなるのは当然のことです。そこで、出来る限りあちこちのグルー プと連絡を密にしたり、何か分裂のきざしを見ると仲裁をしたりして、極力 「付き合いのない複数のコミュニティ」というものが出来ないように努力した ものです。またLinux-MLの中では比較的年長でしたし、声も大きい方なので、 結果としてリーダー格に見らるようになったわけです。しかし、私としてはリー ダー格が誰であるとかというのはどうでも良くて、やはり「みんなが協力して いる」という状況が大切だと思います。などという発言が宗教的であり教祖的 なんでしょうけどね。

これから

Linusによると、「僕はLinuxをずっと大切にして行く。何かのための繋ぎなん かじゃないよ」ということですから、おそらくLinusの目の黒いうちは発展し 続けるのでしょう。別にLinusと心中する気はありませんが、今のLinuxはとて も便利ですし、これからも便利になり続けるでしょうから、敢えて捨てる必要 も感じません。「LinuxはつなぎでHurdが本命さ」という声もありますが、イ ンストールすることを考えるとHurdには致命的な問題がある上、それはちょっ と解決出来そうにないので、おそらくLinuxはずっと使われ続けるでしょう。 そうなるとやはりLinuxを伸ばすことを考えてやるべきでしょう。

kernelは放っておいてもLinusが生きている限りはどんどん成長し続けるでしょ う。networkやXのような基本的な部分も同様でしょう。そうなるとやはり我々 が手がけるべきはアプリということになりますし、日本でどんどん使われるた めには、やはり日本語アプリということになると思います。そのようなfreeの 世界とは別にLinuxには商用ソフトもいくつか出て来ています。これを日本語 化するような会社も出て来れば良いなと思います。コンピュータ界の未来なん て、予測するのは不可能ですから、予言じみたことは言おうとは思いませんが、 Linuxのような良い環境が、これからもずっと亡びず成長し続ければ良いなと 思います。

Linux年表
1991年
4 月ごろ Linus さんが 386 のタスク切り替え機能の探検を始める
6 月ごろ ほぼ 386 の機能をうまく使えるようになる。カーネルらしきものが出来た
7/3 comp.os.minix に posix の規格について投稿("Gcc-1.40 and a posix-question)
ユーザーレベルのことを考えはじめた。
8/25 comp.os.minix に新しい OS に欲しい機能を問う投稿
("What would you like to see most in minix?")
8/26 上の記事の反応への返答("yes - it's nonportable")
9月中旬 version 0.01 リリースソースのみ、参考程度
10/5 comp.os.minix に linux version 0.02 のリリースをアナウンス
10月下旬 version 0.03 リリースgcc のセルフコンパイル可
11月ごろ version 0.10 リリース
12/25 0.11+VM バージョン2M で GCC を動かす人用に仮想記憶をサポート
1992年
1/5 comp.os.minux に version 0.12 リリースをアナウンス
1/12 comp.os.minux に AST(Minix の作者のタンネンバウム教授)が"Linux is obsolete" を投稿
Minix 対 Linux の flame war が始まる
2/10 flame war 終息。関係投稿数 101
2月 comp.os.linux ニュースグループが設立
3月 version 0.95 リリース
このころから interim, SLS 等のディストリビューションが現れはじめる
4月 version 0.96 リリース
8月 version 0.97 リリース
9月 version 0.98 リリース
10/13 KONが公開される
12/03 日本のLinux-ML が立ちあがる
12月 version 0.99 リリース
comp.os.linux.announce が設立
このころ Yggdrasil CD-ROM がリリースされる
この頃生越がInternetにつながる
1993年
5/1 JE が Linux-ML に公開される
6月 Slackware ディストリビューションがリリースされる
7月 comp.os.linux が分割される
7/9 SLS+JE 導入ガイド(後のカモメ本)が Linux-ML にて公開される
8/4 JF の呼びかけ開始
8/25 fj.os.linuxのCFA成立、発足へ
9/16 JF ML が正式に発足
11月下旬 Laser5 から「日本語 Linux + JE」 CD-ROM 発売
1994年
3月 Linux 専門の月刊誌、「Linux Journal」が創刊される。
3/14 linux-1.0 リリース
4月 スーパーアスキー誌で Linux の連載開始
6月 Unix user誌で Linux の連載開始
7月 Software Design 誌で Linux の連載開始
12月 comp.os.linux ニュースグループが再分割される


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