98年2月3日執筆

何に使うのか


前口上

JLUGのホームページ(http://www.linux.or.jp)を見てる人は知っていると 思うが、このページの先頭には「禁福岡県宣言」がされている。このことを細 かく説明するだけの紙面がないので簡単に書いておくと、福岡県の青少年健全 育成条例の中に、「WWWページの作成者は、そのリンク先にも責任を持て」と 解釈出来る個所があり、我々としてはそんなところまで責任は持てないので、 「福岡県人が見ることを禁じる」ということにしてあるのである。まぁ、これ は一つのシャレのようなもので、実際にlinux.or.jpのadminの中には数人の福 岡県人もいるし、そもそもそーゆー条例の有効性なんてものは0であると思っ ている。とは言え、ボランティアどころか経費持ち出しでやっている linux.or.jpで、手が後に回るような目にもあいたくないので、excuseとして 書いているのである。

ところが、このようなことを書いていると、時々愚にもつかないメールを戴く ことになる。いわく「公正であるべきLinuxのサイトとしてふさわしくない」 だの、このような警告があるのが恥ずかしいだのという内容である。中にはこっ ちが福岡県民を逆恨みしていると勘違いして、「文句を言うべき先は行政であっ て」的なことを言う人もいる。あまり他人のメールを公開するのもどうかとは 思うが、最近来た典型的なメールを○に挙げておく。このメールはいわゆる勘 違いであると共に「御意見書き逃げ」スタイルであり、それについても色々言 いたいところであるが、本稿の趣旨とは離れてしまうので、「書き逃げするく らいだったら黙ってろ!」とだけ書くに留めておく。

禁福岡に関して来たメール
ホームページの内容について、意見があります。

福岡県内の全ての方々はアクセスをご遠慮下さいとありますが、
これはこの条例を作った行政の関係者、が正しいのではないしょうか?
=福岡県民と結びつけるのは、あまりにも幼稚です。
私は、表現の変更を希望します。(もしくはリンクの削除を)

私は福岡県民でもありませんし、福岡県とは一切関係ありませんが、このよう なLinuxの公式なサイトらしからぬ表現に、Linuxユーザーとして残念であり、 また恥ずかしく思います。今一度、人の心を考え、納得がいかないことがある なら、当事者に対して物を言うべきでしょう。

いかがしょうか?

なお、私は議論をするつもりはありませんので、長文の反論文を頂いてもそれ に対しての返事はいたしかねます。一意見としてお聞き頂ければと思いメール を差し上げました。

と言う前フリではあるが、別にこの手のメール自体がどうこうではなく、「な ぜこのような警告を書いているか」あたりから話を始める。

政治的警告の意味

linux.or.jpのホームページには、禁福岡県宣言と並んで、禁朝日新聞と禁神 戸市関係者というのも書かれている。いずれも詳しい理由をここに書くだけの スペースはないので、詳しい事情を知りたい人は、直接該当するページを読ん でもらいたい。ここで重要なことは、この警告は政治的なことに足を踏み入れ ているということである。また、そうであるが故に「LinuxというfreeなOSの ホームページにふさわしくない」と反発する人がいることは、想像に難くない。 また、そうであるが故に我々はわざわざwww.linux.or.jpのトップページで宣 言しているのである。

朝日新聞を始めとするマスコミや、「お上」に言わせると、「インターネット は無法地帯」であり、「何らかの規制が望まれている」ものらしい。まぁ確か にnewsを見ていれば、「法律で取り締まって欲しい」と思うようなSPAMの山が あるので、何らかの規制を望む連中の気持ちはわからんでもない。

しかし、私はこれはそうするべきではないと思っている。今のインターネット の規制論を見ていると、「猥褻文書を取り締まるために原料の紙を取り締まる」 ような行為を要求しているようにしか見えない。インターネットは電話や紙と 同じように、メディアであって、実体そのものではないから、本質は「無」な のである。

それゆえインターネットは「無法」というのは正しい。それは白紙や電話が 「無法」であるのと同じことなのである。この上に載せる情報も「無体物」で あるので、本質的に「無法」である。問題となるべきは、その先でどのような 「行為」がされるかであり、媒体の上のことでなくなった時点で法の支配下に 行くのが本来の日本の法律の精神である(その意味では、先日の岡山FLMASK裁 判は間違った判決である)。

「不快な用途」はそれ自体は確かに色々議論反論あるとは思うが、それは「使 う者の責任」の範囲のことである。つまりInternetは「電波」などと同じよう に「メディア」であり、本質は「白紙」なのである。だから、猥褻画像の提供 にInternetが使われるから規制しようという行為は、公然猥褻物陳列幇助とし て製紙会社をお縄にするようなものである。

さて、以上は私の考えである。これが是であるか非であるかは、それぞれの人 が判断すれば良い。重要なのは、このようなことに無関心ではなく考えてみる ことである。もちろんLinuxは「誰もがhackerである必要はない」というのと 同じように、「誰もが社会的活動家である必要はない」とは考える。しかし、 それは黙って家で(会社や学校であっても同じ)Linuxを使っている場合の話で あり、一度Internetという「社会」に出てしまえば、そーゆー「社会の掟」と いうことに無関心でいるというのは、あまりに寂しい。Linuxについて技術的 貢献の必要を考えるなら、それと同じ流れてもってLinuxの社会的存在につい て考えるのも必要であると考えている。

そういう意味も込めて、www.linux.or.jpにはインターネットを規制しようと いう勢力に対して反対の声を書いているのである。これは去年あたりに一部で 流行った「ブルーリボンバナー」なんかの流れと関係がある。WWWページを持 つ者としては、この手の規制というものは、いつ自分たちに鉾先が向けられる かということを考えておかなくてはならない。何しろ「リンク先まで責任を持 て」と言われてしまうと、純粋に技術情報のサイトであるlinux.or.jpであっ たにしても、どうなるかわからないからだ。当の福岡県のページにしても、ほ んの数ホップでアダルトページに行ってしまうのだ。

だから、我々はこのような「政治的」なことに対しても無関心でいるわけには 行かない。また、私は法律については「悪法は法なり」という立場を取るべき だと思う。だから、法律が作られてしまえば、それを遵守するのが「日本国民」 としての義務であると思う。それ故、おかしな法律が作られようとする動きに 対しては、出来る限りの抵抗をするべきだと思っているのだ。

Linuxの用途

今日Linuxは様々なところで使われている。これはこのページで一々挙げなく ても、そのような事例満載の雑誌が当誌なのであるから、他のページを見てみ ればわかるだろう。「へー」と思うような応用がたくさんあるので、今や Linuxは「何にでも使える便利なOS」の地位をものにするに至っている。今さ ら「何に使えるか」という議論はナンセンスであるとさえ言える。

ところが、これらの事例にあまり挙がることのない用途もたくさんある。たと えば、私の会社の場合、表向きは「インターネット用サーバ」としてLinuxを 動かしたシステムを販売しているが、一番多い用途は実は「ダイヤルQ2でア ダルト画像をサービスするサーバ」である。いわゆる「良識的」な人が見れば、 「うへぇ」であり、冒頭で挙げたようなメールを書く人にしてみれば、 「Linuxの冒涜」かも知れない。

しかし、よく考えてみて欲しい。システムダウンが即損失になるようなシビア な条件で、かつ何10回線ものpppを受けながら、かつその数に見合った数の httpdを動かしながら、ローコストで安定に動かすということが出来るOSがいっ たいどれくらいあるのだろうか? 同業他社ではWindowsNTを使ってシステム構 築をしているところが多数あるが、それらの多くは「不安定さとの戦い」をし ているようである。だからこのような、「ダイヤルQ2でアダルト画像をサー ビスするサーバ」は「Linuxだからこそ出来た」と言っても過言ではない。わ かる人が見れば、「素晴しい技術」だということがわかると思う。普通の企業 のWWWサーバ程度であれば、LinuxどころかWin95のサーバであっても運用出来 るだろう。しかし、このような過酷な条件の元で安心して使えるとなると、 UNIX系のしっかりしたOS、私の会社の立場で言えばLinux以外に選択出来るも のはないように思う(FreeBSDあたりでも可能かも知れないが、その辺のことは 「FreeBSD Japan」でも刊行された時にFreeBSDで商売している会社が書けばい いだろう)。

蛇足ながら言っておくと、以前にも書いたように、linux.or.jpの回線費用は 全額当社の払いであるという事情は変わっていない。そして当社の売り上げの 9割以上がこの「ダイヤルQ2でアダルト画像をサービスするサーバ」の販売 から得たものである。つまり、linux.or.jpは間接的には「アダルト業界の金」 で維持されているのである。「だからアダルトは偉い」などと思う必要は全く ないが、そのような現実があることは忘れないで欲しい。それが「世の中」と いうものだ。

アダルト以外の例を挙げると、いわゆる「アングラ情報」のサーバとして Linuxが活躍しているそうである。不法コピーの交換とか、クラック情報の交 換とか、そういったいわゆる「有害サイト」がLinuxを使って構築されている らしいのである。アダルトが嫌いじゃない人であっても、この手のサイトで使 われていることに嫌悪感を持つ人は少なくないだろう。

しかし、これはこれで結構シビアな使われ方である。そのサイトの利用者の多 くはクラッカであるので、常にクラックの危険にさらされているはずである。 その上、サイト自体がアングラに作られたりするので、リモートメンテがしっ かり出来ることが要求される。などと言うことを考えれば、Linuxを技術的に 見る限りでは、決っして不名誉なことではなく、むしろ誇るべきことなのであ る。一部には、「あまり不名誉な使われ方は...」と難色を示す向きもある が、どのような用途に使われようとLinuxはLinuxであるし、そのようなことで Linuxの評判が落ちるとすれば、それはLinuxが「まだまだ」だったということ でしかない。

Linuxのライセンス規定には、これらのような用途については何ら言及してい ない。つまり、「使っていけないということはない」のである。

ここに挙げた例を見ても、この手の「特殊な用途」は結構シビアな動作条件だっ たりする。だから、このような使われ方は純技術的に見れば非常に興味深いし、 克服するべき技術的課題があったりして、技術的進歩の観点からは、「普通の 用途」よりも意味があることである。そう考えると、むしろこのような使われ 方は推奨されても良いくらいだ。仮にそれでLinuxの評判が落ちるようなこと があれば、そのようなことを言う奴を「ばーか」と軽蔑するのも良いだろうし、 「こーゆー深い意味があるのだ」と説明するのも良いだろう。重要なのは「無 意味な倫理観」でもって大切な発展の機会を捨ててしまわないことである。悪 い行為は確かに悪い。しかし、「それとこれと違う」のである。

「Linuxは何に使えますか」というFAQ

fj.os.linuxでもlinux user MLでも、初心者によくあるのが「Linuxをインス トールしてみましたが、何に使えるかわかりません」という質問である。

私なんぞは「とにかくGnuのソフトがサクサク使いたい」とか「UNIXは永遠の 憧れ」ということで、とにかく「自分の机の上で動くUNIXがある」というその ことだけが嬉しくて使っていたものである。また、「実用」を考えても、原稿 書きだとか年賀状印刷と言った、「文書処理」という明確な用途があったので、 とにかくそのための環境を作ることが興味の対象であった。

何しろ当時主力で使っていたMS-DOSの環境にしても、標準のコマンドなぞはほ とんど使わず、UNIXにカブれたコマンドに入れ換え、文書を書く時にはDemacs、 印刷にはTeXということで、早い話が「UNIXもがき」状態であったため、Linux に移ったとしても、「もがきが本物になった」だけで、単なるユーザとしての 立場では、特別大きな環境の変化はなかった。また、DOS上で当時多く使われ ていたアプリケーションソフトとは無縁であったので、特別にMS-DOSに未練が あったわけでもない。だから素直に「MS-DOS環境から移行」出来たわけで、 「何に使えるか」と悩む必要はなかった。さらに当時もWindos 3.1があったの であるが、それは買って来ないと使えないものだったし、何やら不安定らしい ことも聞いていたし、使うのも技が必要ということもあって、「何も買わなく てもタダでXというウィンドウシステムが使える」というLinuxは、それだけで も魅力的な存在であった。つまり、私としては「MSな環境よりも快適な環境が ロハで手に入る」というメリットだけでも非常に大きかったのである。

ところが今日を見るなら、Windows95はプリインストールのために事実上free software化してしまっているし、その上で使う「便利なアプリケーション」も プリインストールされてしまっている。特別に何の苦労をしなくても Windows95は動くし、必要なものは最初から揃っている。そうなると1台しか パソコンを持っている人がWindowsからLinuxに移行するということは、それら の「一見便利そうな諸々」を捨ててしまうことになる。そして残念ながら、こ の連載で何度も言っているように、これらの「一見便利そうな諸々」はLinux にはない。つまり、私がLinuxを使う時に必要がなかった、「一見便利そうな 諸々」を捨てるかどうかという決断を迫ることになる。serverのような 「Linuxの方が断然有利」と言えるような用途に使う時には悩みなどないかも 知れないが、いわゆる「普通に使いたい人」にとっては、かなり深刻な悩みで はないかと思う。そうなると、単に入れてみた人にとっては、「何に使えます か」という質問が出ても、何ら不思議ではない。

この「FAQ」の答というのはたいてい決まっている。それは「あなたはいった い何がしたいですか?」という問い返しである。その辺がはっきりしてないこ とには答えようがないというのは、どうしようもない事実である。

もちろん「あれも出来ます、これも出来ます」的回答をしてあげるのも悪くは ないとは思う。「自分のやりたいことくらい自分で探せ!」と言うのも確かに 真理ではあるが、Linuxの現状を見ればまだまだ「何でも出来るのだから、選 択は君がしなさい」と言い切れる程物事は整理されていない。プログラムレベ ルで「あれはある。これはない」的なことは、ちょっと調べればわかることな のであるが、もうちょっとメタな部分での疑問に答えるのは難しい。だから、 「本人の本当の要求を引き出せる何か」が作れるようにするということも、必 要と言えば必要だろう。「過保護」という声もあるだろうが、人間の欲求とい うのは漠然としたものであることも多いので、その辺のまとめを助けてやるの も悪くない。

Linuxは何のために作られたか

ところで、Linuxが作られた目的は何であろうか。つまり、本来何をするため に作られたOSなのだろうか。

オリジナルのUNIXは「文書作成」が目的だったり、WSの場合は「プログラム開 発環境を作ること」が目的だったり、あるいは「CADや技術計算」といったこ とが目的だったりと、わりと明確な目的を持っている。またUNIXを離れると、 いわゆるメインフレームの場合は「事務計算」が目的だったり「科学計算」が 目的だったりと、これもわりとはっきりとした目的を持って作られている。中 身を見てもハードウェアレベルからそれらの目的をまっとうするような構造に なっているし、OSもそれをベースにチューニングされていたりする。だから 「何に使えますか」と問われた時でも、「一応汎用ということになっています が、○○という用途が想定されて作られています」と言うことが出来る。

Macintoshの場合、何だかんだ言っても当初の目的は「電子文房具」を作るこ とであったし、それは広い意味での「文書作成機」を作るという目的があった。 また今日であっても、その延長上にあるデザインだとかに使わることが多い。 OSにしても、かなりの部分がそのためにチューニングされていると言っても良 いくらいだ。だから「何に使えますか」と問われれば、「いろいろ使えますが、 主にデザイン関係に使われることが多いですね」と言うことが出来る。

Windowsの場合はより汎用色を強めてはいるが、MSの商品戦略も合わせて考え ると、どうも「事務処理的文書作成」が目的として作られているように感じら れる。OSを作っている方としてはそういった目的は持っていないのかも知れな いが、アプリケーションの話題性とかを考えれば、「事務所の机の上で使う」 雰囲気がある。そう考えると色々わかりやすい。

Linuxの場合、Linusの色々な発言を聞いていると、どうやら「作りたかったか ら作った」とかしか言いようがないようである。つまり、特別に何らかの用途 を想定して作ったというものではないようである。またLinuxはとりまとめは Linus自身が行ってはいるが、開発はモジュール毎に主担当が決められていて、 それぞれが開発しているので、「Linusは○○が得意で××は苦手」というよ うなことは、あまりLinuxには反映されない。それぞれの開発者は自分の得意 分野で力を発揮しているが、どの開発者もそうなのだから長い目で見れば「何 でもOS」であるはずである。

Linuxが現状何に多く使われているかと問われれば、いわゆるサーバであった り、技術計算分野であることが多い。事実、Linux Japanの記事も「何となく そっち系」的なものが多いという印象はある。だから、イメージ的にはそういっ た用途が目的で作られているような印象を受けるかも知れないが、Linux自体 はあまりそういう色を持っていないものである。昔は「パーソナル用途のUNIX」 的な言われ方もしたし、そういった感じのsystem callがあったりするので、 いかにもそれが目的のような感じもあるが、それにしても「〜も、ある」に過 ぎないのである。実際、ftpサイトにあるLinux上のソフトを見れば、ありとあ らゆる分野のものが発見出来るだろう。一部苦手そうな分野(つまりソフトの 少ない分野)もないではないが、たいていのものが揃っている。また、「苦手 そう」と感じるものも、実はあまり有名でないサイトに集まっていたりするの で、全てを把握するのは困難である。

となると、ますます「何に使えますか」と言われた時の答えに困ってしまうの である。ちょうど大きな画用紙を与えられて、「何でも好きなようにして遊び なさい」と言われてとまどう幼稚園児のようなものである。画用紙だからたい ていの人は絵を描くことを考えるだろうが、切ってみることも出来れば文章を 書くことも出来る。あまりに使い道が多過ぎて困ってしまう。そうなると、 「何に使えますか」とか「何に使うといいですか」という問いが出ても何の不 思議もない。

と、ここまで書けば前半にメディア論的な話を書いた意味がわかるだろう。 Linuxを何に使うかということは、完全に利用者に任されてしまっている。だ から社会的な分類での「目的」も、良い目的に使おうが悪い目的に使おうが、 Linusはその能力を発揮するし、技術的な分類での「目的」も何にでも使える のである。どのような軸上でも「白紙」であり「無」なのである。そしてそれ を維持するための開発体制が取られ、そうあり続けるであろうものである。ど うやらそれがLinuxの本質のようである。

TODO

例によって最後にTODOでまとめよう。

Linuxの本質を一言で言えば、「白紙」なのである。多くのLinuxの開発者達が そうあるように勤めているのである。だから、「何に使えるか」「何に使って 良いか」ということの一切は、ユーザ自身に任されているのである。

また、本質が「白紙」なのであるから、「こんなのLinux向きじゃないよ」と いうものは存在しないはずである。だから新たな用途はどんどん開拓して行く べきである。

Linuxの用途を考えるのは、あなた自身なのだ。


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