97年10月14日執筆

我々は十分か?


前口上

本誌とは直接関係ない話であるが、Super ASCIIでの「ある騒動」をきっかけ に、私はある決心をした。それは「もう二度と直接はタコの相手をしない」と いうことである。これだけを聞けば、「いわゆる方針転換か?」と思われるだ ろうが、タコ相手をすることの重要性については変わるところはないし、それ についてはずっと説いて回ろうと思うが、もはや直接相手をすることはやめよ うと思っているのである。

これは「まぁ私ごときがわーわー言う時代は終わったんじゃないか」という意 味もあるし、「タコの相手は疲れてやってらんないぜ」という意味でもある。 特に後者は最近とみに感じるころである。もはや私が何で偉そうにこんなとこ ろで高説を述べているのか、その必然性を知っている人はもはや少ないのでは ないかと思う。また、私が今原稿を書いているこのマシンは、実は www.linux.or.jpとして知られているマシンであるということを知っている人 も、この本の読者の中では少数派ではないだろうか? その事実を皆さんが知っ ていること自体は直接私の益にはならないので、知られていないからどうとい うことはないし、また知っている人に対しても「だから俺は偉いんだ」という 気は毛頭ない。まぁそれによってメリットがあるのなら、偉ぶっても良いかも 知れないが、メリットはないので、無駄なエネルギーを使おうとは思わない。 だったら、なぜこんな話を持ち出しているかと言えば、「タコども! お前ら が今いるのは誰のお陰だと思ってるんだ!」と言いたいからである。

この話は「偉ぶる気はないよ」ということと一見矛盾しているようにも見える。 しかしそうではない。それは、ここでの対象となっている「タコども」が、あ まりに「お客さん」であり「感謝を知らない」ために、文句を言っているので ある。簡単に言えば「キレ」たのだ。

さて、今回はこの辺から本題に入ろう。

「タコ」は言い訳になるか?

netnewsやMLを見ていると、「○○のタコですが」と言う言葉を最初に言って、 それこそ「タコ!」と罵倒したくなるような質問をする人がいる。どうもこの 人は「Linuxはタコを大切にする」ということを誤解しているようである。ま た、タコを自称することにより、多少のこと(多少にはもちろん「多」も含ま れている)も許容される言い訳(なぜかexcuseと英語で言われることが多いのは なぜだろう)になると思っているらしいし、それで非難をかわせるとさえ思っ ているようである。

しかし、最近あちことで言うようにしているが、「Linuxがタコを大切にする」 ということと、「タコが許容される」ということは同じではないのである。タ コはしょせんタコに過ぎない。みんなの足手まといであり、面倒なものなので ある。百歩くらい譲ったところで、自ら進んで自称出来るようなものではない。 では、このような人々がなぜ「タコ」であることを自称するかと言えば、「タ コ」だと自称していれば多少タコなことを言っても許容されると誤解している からに過ぎない。これは単なる「甘え」に過ぎないのである。

といったようなタコの罵倒ばかりしていてもしょうがないので、最近Linuxを 入門した人々のために、「なぜタコは大切にされたか」という話をしておこう と思う。

簡単に言ってしまうと、「タコはタコなことをするから価値があった」のであ る。つまり、物事のよくわかってない人は無茶なことをする。それがソフトウェ アの信頼性を上げたり、サポートの重要性を認識させたりする元となったので ある。仮にLinuxがhackerだけのものだったとすれば、「タコなことをする方 が悪い」で済まされてしまったことも多くあるのではないかと思う。ちょっと わけのわかった人なら、多少のbugは自分でfixしてしまうか、そこを避けるよ うにするかどちらかであるからだ。ところがタコはそんなことは知らない。 bugがあれば騒ぎ立てるだけである。わけのわかった連中にしてみれば、これ は単にうっとおしいことに過ぎない。しかし、原因はそういったタコな行為で あっても、bugはbugである、結局は直すべきことなのである。つまり、そのよ うにして「品質検査」をされていると考えられないこともない。

かつてfree softwareとメーカ製softwareとの違いは、「品質」にあるとされ ていた。もちろんメーカ製であってもクズは存在したし、free softwareでも 品質の良いものはあった。しかし、ごく大雑破に言えば、free softwareは品 質が低いし、メーカ製softwareは品質が高い。いや、そうでなくてはメーカ製 softwareに高い金を払う意味はないではないか。まぁこれがかつての常識であっ た。しかし、タコはしょせんタコである。タダで使わせてもらっているはずの free softwareの品質にケチをつけるような行為に出たのだ。わけのわかった 連中にしてみれば「あああああ」としか言いようがないのであるが、それでも 指摘は嘘ではない。それを直すことにより、結局はソフトの信頼性は上がる。 このようなことがあって、Linuxはkernelを始め、諸々のsoftwareの信頼性が 上がったのである。

ここで重要なのは、「タダで使わせてもらっているfree softwareにケチをつ けた」ということではない。もちろん、そういった「火中の栗」を拾うような 行為を平気でしてくれるのも「タコ様」であるが、それよりも、「無茶な使い 方でbugを露顕させた」ということとか「ドキュメントの常識がタコ頭の知識 を越えているということの発見」が重要なのである。つまり、「タコがタコ行 為を行った」ことが重要なのである。「タコが我身をわきまえずに使う」ここ がタコの存在意義である。使わずしてタコな質問をする奴も確かにタコには違 いないが、そのようなタコはいくら存在しても「時間と空間のムダ」でしかな い。実際にやって失敗すれば、本人も周囲も何か得るものがあるはずである。 そこにタコの意味があるのだ。

ついでだからLinuxとあまり関係のないことを書いてしまうが、よく若い女の 子が「私馬鹿だから」と言い訳することがよくある。まぁそんなことを言う奴 は確かに馬鹿だ。あまり賢そうには見えない。しかし、同じ馬鹿でも「私は未 熟者だから」と言っているなら、まだ成長する余地がある。未熟の「未」とは 「いまだに」という意味である。つまり、これから熟すという可能性を秘めた 言葉である。だから、同じ馬鹿を自称するのでも、「馬鹿」と自称するか「未 熟者」と自称するかは、ちょっとした違いではあるが、その心がまえは随分と 違うものだ。「Linuxで愛されるタコ」とは、もちろん「未熟者」の方である。 「私馬鹿だから」と思ってるような奴は、そのまま腐ってしまえばいい。

環境は整った?

最近Linux本は多い。また、雑誌でも結構取り上げられていて、近所の役に立 たない家電屋でさえも、名前だけは知っているようになった。かなり認知度が 上がっているようであるのは、非常に嬉しいことである。

ここで「果してそれで十分か?」と問うなら、90%以上の人が「いや。まだま だ」と答えるであろう。しかし、突きつめて行くと「いや。まだまだ」という のが実は口だけだったりしているような気がする。現実に目を向けるなら、今 の状況が十分であるという前提に立ってあれこれ考えているように思えるのだ。

たとえば、どこかの本でLinuxを間違った解説を行っているとしよう。その時 の批判のしかたは、「Linuxのことを理解してない」といった批判であること が多い。つまり、その根底には「知らない奴が悪い」という考えがあるように 思われる。これはつまり「十分認知度が上がっている」という前提の批判では なかろうか?

かつての我々は、無理解に基づく解説を見た時には、「ああ、まだ認知度が低 いのだなぁ。我々は力が足りないなぁ」と思ったものである。つまり、「知ら ない奴が悪い」のではなく、「知らせてない我々が悪い」と思ったものである。 つまり、かなり謙虚だったのである。

もちろん、ある意味では「これだけLinuxの情報が氾濫しているのだから、そ れでも知らないのは知らない奴が悪い」というのも、確かにそうである。だか ら、間違った解説を行った奴を弁護しようとは思わない。そうかと言って、正 しい情報が十分誰にでも与えられているかと言えば、必ずしもそうではないと も思われる。

もちろんJFやjmanのような地道な努力の成果を否定するわけではない。しかし、 「それで満足して良いか」と問われるなら、やはり「まだまだ」と言うしかな いだろう。だから、Linuxに対して理解の低い解説を行っているのを見たら、 その解説の間違いを指摘することはもちろんではあるが、「まだ我々の力は足 りない」とも思うべきである。残念ながら、Linuxはいまだにマイナーな存在 でしかないのである。そのことはしっかりわきまえるべきである。だから、 「啓蒙活動」はいまだに重要なことであることに変わりはないのだ。

ついでに余分なことを書いてしまうと、Internet界に素人がどんどん入門して しまった関係で、マスコミや素人が「crackerのことをhacerと呼んでしまう」 とか「mailやnewsに半角カナを流してしまう」とかの問題が起きている。いわ ゆるこれに「反対する会」なんてものが存在している。確かに「いけない」と 言い続けることも重要であるが、しかし積極的な啓蒙活動に出ないでいて、 「非難」するだけでは何にもならないだろう。「それ用のウェブページもある し、事あるごとに声を上げているぞ」という反論もあろうが、「啓蒙活動」な んてものは、「一人で街に立ってビラを配る」ような地道な活動をベースとす るものである。いわゆる「マス」に頼っても、あまり人には伝わらないもので ある。

これは我々の活動も同じで、JFやlinux.or.jpが存在していても、それが全て ではない。いくらかの「広報的活動」が楽になるだけで、やはり基本は「一人 で街に立ってビラを配る」ような地道な活動がベースになるのだ。「そんなの 一々やってらんない」と言う声もあるだろう。しかし、いかなる啓蒙活動でも 一番効果があるのは「個から個へ」なのである。WWWのようなものは、その補 助でしかないのだ。

お客は誰だ?

Linuxが普及し、LinuxもLinux界も複雑になってしまうと、どうも「お客さん」 という人種が出来て来る。つまり「一方的な情報の受け手」になりたがる人が 出て来るのである。これはいわゆる「タコ」よりもずっとタチが悪い。なぜな らこの「お客さん」は、自分たちでは何もしようとしない上に、「自分たちは サポートを受ける立場だ」と思い込んでいるのだ。はっきり言って、この人種 の存在は脱力する。

webmaster@www.linux.or.jpというアドレスにメールを出すと、特定の個人で はなくて管理者MLにメールが届くようになっている。ここに「お前何か勘違い してないか?」と言いたくなるようなメールが流れて来るのだ。これらのメー ルは一見正しそうな論理で書かれているのであるが、その実「で、お前の立場 な何様なんだ?」と言いたくなるようなことの主張に終始している。何かメー カのサポート窓口だと勘違いしているようなメールが来るのである。後に出て 来るはね氏の「ハードウェア実績リスト」でも、一方的に情報の提供を求めて 来る上に、質問の内容がよくわからないから「もっとわかるように質問してく れ」という意味のメールを出すと「不愉快だ」的反論を返す馬鹿野郎とかがい て、大いに脱力するそうである。冒頭に書いている私の「キレた」というのも、 実にその辺に関係のあることである。

このような善意で情報提供をしているような人を脱力させるような人は、はっ きり言えばLinuxを使う資格なぞない。Linuxは誰に対しても平等に与えられて いる存在である。また、いわゆる「Linuxでメシを食ってる」類のサーバ屋等 がその顧客に対している時を別にすれば、誰かが誰かに対して何らかの義務を 負うようなものではない。つまり「お客さん」というものは存在していないの だ。

確かに情報を提供したり、ソフトを作ったりしている者と、それを使う人との 間には、ある種の「立場の違い」は存在している。しかし、そうであればなお のこと、「利用者」は「提供者」に対して気を使うべきではないか? これが 一般の製品なら、「利用者」は一定の対価を払って使っているわけであるから、 「利用者=お客さん」である。しかし、Linux界ではそのようなことに対価を 払っている人はいない。仮に「CD-ROMを購入」していたにしても、それは「対 価を払った」ということにはならない。そうであるなら、「利用者」は単に 「提供者」の善意にすがっているだけの存在に過ぎない。つまり、「お客さん」 なんかではなく、「乞食」も同然の立場であるとわきまえるべきである。その 「乞食」が「提供者」に対して「お客さん」のような気分になっているのを見 ると、「お前は何様のつもりだ?」と言いたくなって来る。

これは別に「提供者は偉いんだ」ということを言っているのではない。あくま でも「お客さんなどという立場は存在しないのだ」ということを言っているに 過ぎない。また、仮に「提供者は偉い」ということを言うにしても、Linuxは いつでも誰でも「提供者」になることが可能な世界である。そう誰もが当事者 なのである。誰もが当事者であるが故に、「お客さん」という立場が存在して ないとも言える。「単なる利用者は乞食のようなもの」と言われて悔しければ、 それについて文句を言うのはなく、「提供者」になりさえすれば良いのだ。そ して、その「提供者」には誰でもなれるのがLinuxである。

それでもまだ「お客さん」になりたい奴に言っておく。はね氏が「ハードウェ ア実績リスト」を作っても、私や私の会社やadmin達がwww.linux.or.jpを運用 しても、あるいは他の多くの「提供者」達も、それによって何かを得ていると いうことは何もない。もうちょっとわかりやすく言ってみよう。私の会社は主 にlinux.or.jpを維持するために毎月30万近い回線費用を出している。もちろ ん自分たちの使う回線にぶら下げているわけだから、その回線は自分たちも使っ ている。しかし、その回線上のトラフィックの大部分がlinux.or.jpのものな のである。そのようなものを会社の費用で持っていて何か良いことがあるかと 言えば何もない。会社のウリに出来るかと言えば、そのようなこともまるでな い。経済的なメリットなど何もない。しかし、それでも毎月30万近い金を出し てlinux.or.jpを維持しているのである。他の人にしても、その「提供」につ いて経済的なメリットなどまるでなくてやっているのだ。「それはなぜか」と いうことを考えてみれば、「私は客だ」などという腐れた態度はとれないはず である。

designed for Linux

私も時々主に家族の都合でWin95を設定することがある。自慢ではないがWin95 の全くわからない私でも、とりあえずハードウェアの増設や新規ソフトのイン ストールくらいは出来る。「Win95はあまり知識を必要としない」というのは、 まんざら嘘ではない。少なくとも自分の使っているマシンのなんどかボードが 何であるとかということは、あまり深く知る必要はない。もちろんちょっと複 雑なことをしようと思うと挫けてしまうのもまたWin95なのであるが、「とり あえず使えます」というレベルにはすぐなれるところは、なかなか凄いものだ と感じている。これはWin95の優秀(^_^)なハードウェア認識能力と、 `designed for Windows'の威力であろう。

ところが同じマシンにLinuxを入れようとするとどうなるか。これはメーカ製、 特に元々コンピュータメーカみたいなところが作ったWin95マシンとなると、 中身のことはまるでわからない。Linuxをちゃんとインストールしようと思う と、やはりkernelの再makeは基本だと思うので、とりあえずのインストールの 後はkernelをconfigしたいと思うのは、少なくともわりと古くからLinuxを使っ ている者にとっては常識である(RHSは極力kernelの再makeを避けるようになっ ているようだが)。そこでconfigしようとするのだが、大メーカ製のハードは 中身がよくわからない。マーザーボードに使われているチップセットもよくわ からなければ、OEMで入れているであろう各種ボードのこともよくわからない し、おそらくはATAPIであろうと思われるCD-ROMもよくわからない。わからな いとなると、kernelのconfigはお手上げ状態になってしまう。もちろんケース を開けて見れば、わかるものはわかるが、それを素人に要求するのは無理と言 うものである。ところが、そういったマシンにLinuxを入れようとするのは、 素人であることが多いのである。そうなると、いきおい「Linuxは素人には無 理だ」ということになってしまうのである。

実はそういったマシンにLinuxを入れるのは、私でも困難だったりするのであ る。実は先日富士通のDESK POWERに色々ハード増設してLinuxで使おうとして いたのである。増設したハードのことは素状もよくわかっているので、何の問 題もないのであるが、困ったのは一番基本となるCD-ROMドライブがどのインス トール用kernelでも認識してくれないということである。会社の連中(やまだ あきら君も含む。だいたいうちはLinuxでメシを食う会社だ)に聞いてもよくわ からないし、他のマシンのクロスでkernelを作って色々試してみたのだが、そ れでもうまく行かない。ところが、この辺は実はFAQの類だったらしく、MLで 聞いたら「ちょっとしたケーブルの繋ぎ換え」をしてやれば、ちゃんとCD-ROM が使えるようになったのである。まぁこれはわかっている人、それまで興味を 持っていた人にとっては、「そんなのFAQだよ」なんだろうが、それを知らな い素人(私を含む)にとっては、一種の「魔術」のようなものである。

実は私は今までこのような問題で悩んだことはなかった。それもそのはずで、 それまでは全部「組み立てPC」でやっていたのである。自分で素状のわかった、 動作実績のあるハードウェアでやって来たので、それでトラブルがなかったの である。わかる人はわかると思うが、素状のわかったハードウェアなら、 Linuxは何も悩むことはないのである。

別の話をしよう。よくMLでもnewsでも、いわゆる情報交換の場では、「○○は Linuxでも動きますか」という質問が良く出る。この手の質問については、 はね氏のホームページ (http://www.hh.iij4u.or.jp/~wing/Linux/Hardware/Hardware.html) を見れば、たいていのことはわかる。このページを作っているはね氏の努力は 素晴しいのであるが、どこまで行ってもこれは個人の仕事である。組織的にやっ ているものでもなければ、何らかの保証のあるものでもないし、集積している 人の目から落ちてしまえばそれまでである。だから、このようなリストをもっ と組織的に作成出来ると良いだろう。この章の冒頭でdegined for Windowsの 話をしたが、同じようにdesigned for Linuxと言ったものが出来ると嬉しいだ ろう。

「当然」と言ってしまうと悔しいのであるが、普通のメーカはあまりLinuxの ことを意識していない。だから、この辺のことちゃんとしようと思うと、結局 個人の結果を集積するしかないように思われる。もちろんメーカがパーツを寄 付してくれて、それをテストするということで結果が出せれば、それに越した ことはないだろう。しかし、そのことをメーカに期待するのは無理ではないか と思う。逆に個人の結果を集積するしかないとなると、誰でも情報をまとめる ことが出来れば、このような情報を扱うことが出来るようになる。あまり個人 の能力を頼りにしてしまうと、はね氏のページをあてにするのと同じことになっ てしまうが、やろうと思えば誰でも出来るのは、好都合である。

このような活動をすれば、その次は「designed for Linuxシール」とかを作っ て、ちゃんと対応しているハードウェアについては、メーカに表示をしてもら う... とすれば、納得する人も多いだろう。もちろんそのためには「正確な 情報の集積」ももちろんであるが、「そのような表示をすれば売れる」とメー カに思わせることも必要となる。

特に昨今は「degigned for Windowsさえやっておけばメーカは安泰」みたいな ことをよく見るのであるが、何とかしてLinuxをはじめとするfree OSの世界に も目を向けさせたいと思う。そのためには、とにかくマーケットの形成が重要 である。もっと簡単に言えば、メーカに「Linuxのことを考慮すれば儲かる」 と思わせることが重要である。

TODO

色々な観点から我々やその周辺を見るにつけ、「これで十分」と言えるものは 何もないことがわかったと思う。ところが現実に目を向ければ、「程々の幸せ に満足している」ように見えないこともない。そういった意味で我々が何をす るべきか考えるなら、「もっとハングリーになる」「全員が当事者の自覚を持 つ」というのが、今回のTODOというところになるだろうか。


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