99年5月6日執筆

モチベーションの維持


資金

今回もちょっと挑戦的な前口上である。

無事協会も形だけは出来たので、今は中身のことについて検討中である。メーカ や一般誌に言わせれば「遅々として進んでない」ということになるのだろうが、 本来今の動きの激しさの方が異常なのだ。ちゃんと環境が整うまで、待っていて 欲しい。

さて協会絡みで打ち合わせている時に、よく金の話になる。人が動けば経費がか かるわけで、そうなると活動資金という話になると共に、雑談として「どこそこ の株価が」みたいな話も出る。何でも「Linux関連株」というものがあるらしく、 上場企業になるとLinuxに対応とかと書いてもらうだけで株価が上がるそうであ る。現実に対応してなくても、古くからUNIXをやっている会社はLinuxを材料に 株価が上がるそうである。まぁこれが他人事のレベルだと「良かったですね」で 済むことなのだが(あまり他人の財布の中身に興味はないのだ)、自分もいくらか 絡んでいることとなるとムムっという気になって来る。とは言え、他人のふとこ ろについて喜んでいたり嘆いていたりしてもしょうがない。

さて、うちもそうお金があるわけではないので、資金繰りのために銀行に借金を する。例によって貸し渋りとは言え、信用あるところに対する売掛金を担保にで あれば、ある程度は貸してくれる。単純に自転車操業するくらいなら何とかなる。

ところがこれがもう一段の成長のためとなると、なかなか金は貸してくれない。 その辺をあれこれ銀行の担当に聞くと、どうも関連のVCが「今Linuxが流行って いるが、Linuxと言えどもUNIXであるからLinuxをやっているベンチャーがいくら 頑張っても、今までUNIXをやって来たメーカにはかなわない。よってLinuxをやっ ている会社には出資する価値はない」と判断したというのだ。つまり、早くから Linuxをやっているからと言っても、そのこと自体に価値はないということらし い。

この意見は領域を限定すれば、全く正しい。あまりOSの深部に触れない限り Linuxは従来のUNIXと何ら変わるところがない(うちの会社はその「深部」まで手 を入れているのが技術的ウリであるが)。多少非互換があったりするのだが、そ れは従来からあるUNIXでもあったことなので、「Linuxだから」というようなこ とは特にない。だから「今までUNIXをやっていたメーカ」くらいであれば、 LinuxであろうとUNIXであろうと同じである。だからまだ参入していない会社で UNIXの老舗なところは、どんどん参入して来て欲しい。普通にソフトウェアやシ ステムを開発する分には、技術的なリスクも少ないので、やる価値はあるだろう。 ただ、うちのメインバンク(山陰合同銀行という地銀)のようなところは金を貸し てはくれないので、資金繰りの足しにはならないかも知れない。

というように、こっちは資金繰りにもきゅーきゅー言っている。 そんなところにあまり株価が上がった話をされると、「苦労して 普及して土台を作ったのは、テメーらの会社の株価を上げるため じゃねーぞ」な気分になって脱力する。

さて今回はこの辺から話を始めよう。

なぜ我々は普及に精を出したか

Linuxを見る時に、いきなりお金のことを絡ませると、話がややこしくなる。特 に今時となると、Linuxは金だの株だのと絡んだ話が多くて、いささか本質が見 えにくい。そこで原点に帰って、我々のそもそもの動機から考え直してみよう。

私がLinuxに初めて触れた約7年前。Linuxは非常に単純なものであったし、もち ろん今のように普及はしていなかった。日本で使っている人はごくわずかであっ たし、世界的にもそう多くはなかった。それでもかなりのプログラムがLinuxの 上で動き始めていて、それなりに楽しかったものである。

ほぼ完全な形のUNIXが手許で使えるということ、今までMS-DOS環境では不完全に しか動いていなかったUNIX上のアプリケーションがちゃんと使えること、それら のソースコードが全て手の中にあること。どれをとっても当時の我々を興奮させ た。また、動いていなかったデバイスや機能が、いつの間にか動くようになって いることや、いろいろな人とLinuxという共通の土台で会話をし、協力しあえる ということも、何となく興奮をさせた。いろいろな点でいじりがいのあるシステ ムであったし、不完全なものであったがゆえに、いろいろな形で貢献することも 出来た。

その後、386BSDとの絡みとかいろいろあるわけだが、今回は歴史について深く論 じる予定ではないので、割愛する。

この頃から我々はかなりのエネルギーを「普及」ということに向けて来た。個人 的には私はプログラマであったし、Linuxは楽しいおもちゃであったから、いろ いろいじりたおして遊びたいと思っていた。何しろ今まで憧れであったUNIX環境 が手に入ったのである。今まで夢や不完全な移植した使えかなかったX Window Systeや、Emacsやgccが完全な形で触れるのである。hackerの魂をゆさぶらない わけがない。今でこそプログラマ人口の少なさを嘆いてはいるが、当時Linuxを いじっていた人々はまぎれもないhackerであった。みなでhackの対象として Linuxを見ていたのである。

そのようにしてhacker魂をゆさぶる環境を目の前にして、そのhackをしたいとい う欲求を抑えてまで、普及をさせるべく働いて来たのである。いや自分たちの得 意とする「プログラミング」というhackではなく、どちらかと言えばあまりやっ たことのない「普及」というhackをしたのである。これは私に限らず、多くの人 がそうであった。これはなぜであろうか。

簡単に言えば、「普及をさせることによって、より使い易い環境を作ろうとした」 からである。普及すればプログラムを書く人も増えるだろうし、また教科書を書 いてくれる人も来るだろう。もちろん単に使う人であっても、単純に仲間も増え る。一人の開発力は知れたものであるが、力を合わせれば大きな開発力が得られ る。一人の理解出来ることには限界があるが、多く集まれば分担することも可能 である。利用者が増えれば商用のリソースも期待出来ると思っていたのだが、こ れは最近になって花開いた。

今の私は「Linuxは金儲けの材料」な面があるわけだから、それもモチベーショ ンの一部ではあるし、LinuxがUNIXであるということにより、あるいはhackの対 象になりうるという技術的な興味も、モチベーションの一部ではある。しかし、 この当時としては、「とにかく普及させれば何か良いことがある」と思っていた のである。漠然とした夢みたいなものはあったが、これと言って難しい理由はな く、「何か良いこと」への期待が当時のモチベーションであったのである。

この普及することによって「何か良いこと」が起きるという期待によりモチベー ションは、今日も一番大きなことではないかと思う。この「何かよいことへの期 待によるモチベーション」というのは、言い換えれば「LinuxがLinuxであること によるモチベーション」であると言っても良い。Linuxそれ自身の求心力がモチ ベーションの源なのである。

プログラマはなぜプログラムを書くか

話は変わるが、プログラマはなぜプログラムを書くのであろうか。

Gnu manifesto中には、「プログラマは音楽家が報酬がなくてもその喜びのため に音楽をする時と同じで、自分の喜びのためにもプログラムを書く」と書いてあ る。自分のことをふりかえると、この意見は確かに嘘ではなく、どう考えても 「自分の快感」のためにやっているとしか思えないようなプログラムもあるのは 事実である。

もちろん仕事でプログラムを書く時は、金銭的報酬のために書いているのは事実 なのであるが、その中でも様々なロジック上の工夫や表現上の工夫などのように、 本来やらなくても良い工夫をしている。もちろんこれは金銭的報酬とは無関係で あるし、時としては金銭的報酬に対しては有害(工夫にはリスクがつきもの)であ ることさえもあるのだが、やはりついやってしまう。それはそのことによって現 実的なメリットがあるかどうかとは実は関係なく、面白いからとか興味をそそる からとか、あるいは「とにかくやってみたいから」といったような、どちらかと 言えば生理的欲求に近い理由でやっていたりする。

これが仕事で書いているプログラムだからその程度であるが、自分が書きたくて 書くプログラムにいたっては、あれこれもっともらしい理由は付くが、「とにか く書きたいから書いている」というのが本当の理由だというプログラムは少なく ない。今時なら何もわざわざ自分で書かなくても、たいていのプログラムは実際 に存在していて、買って来るなりftpしてmakeするなりすれば、たいていのこと が出来るようになる。そこをあえて書くのは、やはり「書きたいから」なのだ。 登山家が山があれば登りたがるのと同じように、hackerはhackの対象があれば hackする。つまりはそーゆーことなのである。

ではプログラムを書く動機はそれだけかと言われると、どうもそれだけではなさ そうだ。いかに「自分が書きたいから」と言っても、全く必要のないプログラム を書くことはないし、仮に自分が必要であっても、一回、せいぜい数回しか使わ ない程度の使い方であれば、ちゃんとプログラムを書くよりは、いわゆる quick hackで間に合わせることが多い。だから、当然のことながら、何らかの必 要性なくしてプログラムを書くことは少ない。いくら「書きたいから書く」といっ ても、それだけでは動機たりえないのである。やはり何らかの「必要性」という ことは重要なのである。

「必要だから」「書きたいから」だけでプログラムを書く動機になりうる人も確 かに存在する。私もそれだけが動機でプログラムを書くことは少なくないが、そ れだけではなくて他の要素もある。それは「マーケット」である。

「マーケット」とは言っても、何も売ることを考えているわけではない。まぁ売 ることを考えているプログラムは皆無ではないが、たいていのプログラムはいわ ゆるフリーソフトウェアとして作ることが多いので、マーケット=商売という意 味ではない。ここでの「マーケット」とは「利用する可能性のある人々」という 意味である。やはり使ってくれる人は多い方が嬉しい。もちろんそれは人に喜ば れたいとか、誉められたいとかという心理が背景にあると思う。

「必要だから」「書きたいから」「喜ばれたい」「誉められたい」という動機、 これらは突き詰めれば結局のところ「快感」のためというのが動機だということ である。

以上は主にいわゆるフリーソフトウェアの場合である。この上で商用のソフトウェ アのことを考えると、そこには当然のことながら「金銭的報酬」ということが加 わる。しかし、この「金銭的報酬」にしても、つまるところ「快感」の一種なの であるから、結局のところ「快感」が動機だということは同じではないかと思う。

これはプログラミングのことだけに限らず、Linuxによって起きる様々な社会現 象を説明するには、この「快感」という尺度でないと考えられない思われるのだ。

よく「プログラマはなぜLinuxの諸々に参加するのか」と質問され、多くの人が それぞれに説明を加えようとしている。いろいろな立場の人がいろいろな関わり 方をしているので、簡単に説明が出来ないと思い込んでの質問である。しかし、 私はここで述べたように、「快感が得られる」ということで説明出来るのではな いかと思う。形はどうあれ、Linuxがその人に「快感」をもたらす。だから Linuxに参加するのだと。

webmasters

www.linux.or.jpのコンテンツを維持運用するグループとして、webmastersとい うグループがある。通常webを管理する人は個人であるからwebmasterなのである が、www.linux.or.jpはかなり大勢で管理されているため、webmastersというこ とでsが付く。

去年の10月頃に発足したグループであるから、当時はJLUGとしてのグループであっ た。linux.or.jpの運用主体がJLUGからJLAになるに伴い、webmastersも移行した。

前にも書いたと思うが、JLUGは全くお金がない「団体」であるから、全ての活動 は予算がないことを前提として行っている。つまり基本的には手弁当での活動参 加なのである。しかし、www.linux.or.jpのコンテンツを見るとわかると思うが、 非常に手間のかかっている部分も少なくない。しかも、基本的に毎日のように更 新されている。コスト計算すると大変なものだということもさることながら、コ ンテンツの中には「よくそんな退屈なことが出来るな」と思うようなものまで、 ちゃんと継続性を持って作られている。ウェブページを作ること自体は「好きだ から」という動機でも出来る。この辺はプログラマの動機と同じようなことが適 用出来る。しかし、個人的に見ると非常に退屈そうな「その他のnews」の更新な ぞも、きちんと行われている。

そのような状態を見ていると、つい「何か報酬をあげたいな」という気になって 来る。作ること自体が楽しいコンテンツであれば、「楽しい」ということ、ある いはそれによって「貢献している」という快感でもって十分報酬となりうる。元々 フリーの世界というのはそうしたものである。とは言え、退屈そうな単純労働に 近い部分でのページ更新となると、そのような「報酬」を得ることは出来ないの で、「ちったぁお金にしてあげたいな」という気になるのである。何らかの「餌」 がないことには、継続性に問題をきたす危険性もある。今やっている人が嫌になっ てその人がページ更新やらなくなっても、それがページ更新の停止となってもらっ ては困るのである。個人が停止しても全体としては停止させてはいけない。その ためには何らかの「共通の報酬」がないといけないのである。

JLUGは元々会員とか組織というものとは遠いものであったからお金がなかったが、 JLAは組織としてちゃんと構成するので、活動のための予算を組むことが出来る。 またwww.linux.or.jpにちょっと広告を載せるだけでも結構お金になるという可 能性もある。そうすればいくらかでも給料的なものが出せるので、お金という 「共通の報酬」を出すことが可能である。そうすれば継続性についても不安がな くなる。

その辺をチラと打診してみたこともあるのだが、これが逆であった。 webmastersも人数が多いので全員の統一した見解というわけではないが、主だっ た意見は「お金じゃないということがモチベーションである」ということであっ た。つまり逆の言い方をすれば「金もらったらやってらんない」ということであ る。

確かにそのような経験は私もあって、私は学生時代よく福祉関係のボランティア 活動をしていた。手話通訳はいわゆる「特殊技能」であったので、無償でやる他 にアルバイトとしても頼まれることが多く、結構金になったものである。他のこ と、例えば車椅子押しのようなこと「福祉サービス」としてやる分には、当然無 償でもやったしお金が出てもやった。無償であろうと有償であろうと、やってる ことは大差ないし、何らかの形で他人の命をあずかっているので、やっているこ との品質も同じである。強いて違いがあるとすれば、有償の時はタクシー使うこ とが出来て多少楽が出来たという程度である。

それはそれなのであるが、もうちょっとコミュニティ活動に近い部分、例えば福 祉地図を作るだとか、イベントをやるだとかという部分については、完全に無償 どころか手弁当でやったものである。やっていることは行政の肩代わり的な部分 であったし、行政から来てる人達は給料になっていた。腹の中では「なんでおめー らだけ金になるんだよ。こっちの方がいっぱい働いてるんだぜ」と思ったりもし たものであるが、「これで金もらったらやる気なくなるよなぁ」とも思ったもの である。その当時の心理分析がちゃんと出来るとは思えないので、あまり深入り するつもりはないが、何か「お金をもらうと馬鹿馬鹿しくなって来る」という事 実はあったようである。

とは言え、手弁当はさすがに学生の身には辛かったので、本当にお金のないプロ ジェクトで、しかも自分にお金がない時は「ごめん金がないんで出来んわ」と言 うしかなかった。逆に言えば手弁当をしなくて済むのであれば、喜んで出掛けて 行ったものである。

いくら「お金をもらうと馬鹿馬鹿しくなって来る」とは言っても、自分がお金に 困るようになれば、さすがに別の意味でモチベーション下がったり「俺何してる のかなぁ」的な疑問を持ったりする。その辺の上手にやって行くことが、この 「お金じゃないということがモチベーションである」ということを維持する元で はないかと思われる。

luadmin

www.linux.or.jp同様、多くの人々に身近な「情報サービス」が、Linux users MLであろう。これも単一のサーバや単一の管理者によって運用されているのでは なく、複数の配信サーバを複数の管理者が管理しているため、luadminというグ ループが存在している。

これも完全に無償で行っているので、モチベーションの存在については webmastersと同じで、「金じゃないぜ」な部分も多くある。ただ、 www.linux.or.jpはあまり大きなトラブルもないし、あれこれ脱力するような事 件も起きないのであるが、MLは双方向だけあっていろいろな事件が起きる。

技術的なことで言えば、MLの配送システムを破綻させるような「事故」である。 vacationの設定を誤ってMLから来るメールも一々処理するようにしていたり、フォ ルダーを移行しようとしてフォルダのメールを全部またMLに投げてしまったり、 あるいはmail2newsの設定を間違えていたり。まぁいろいろな原因で配送システ ムを破綻させるような事故が起きる。当然システム的にはrobustにしておくのが 正しいのであるが、フィルタの設定を厳しくするのも難しいし、こちら側の逆流 を止めても他のことまで面倒見れなくなったりとか、いろいろな事情で完璧なも のには出来ない。いつまでたっても事故の種は尽きなさそうである。

事故が起きれば当然対処が必要になる。何しろちょっとした町や村よりも参加者 の多いMLであるから、影響範囲は非常に大きい。だから対処は緊急性を要する。 luadminだけではなく、ricciaのrootになれる人、それぞれの配送サーバの rootになれる人は総出で対応である。対応は大変なのであるが、原因はささいな ことが多いので、終わった後は大いに脱力する。それでも原因者は今までは逆ギ レしたり開き直ったりはしなかったので、その点では救われている。

しかし、もっとタチが悪いのは技術的破綻を起こす事件ではなく、脱力を起こさ せる発言をする「困ったちゃん」の存在である。もちろんこの存在はLinux users ML固有のものではない。Vineのような初心者の多いML、JLA-commentのよ うに「御意見」用のアドレスによく出て来る。具体的な内容はいろいろであるの で、一々挙げないが、そのメールを読めば「おめーのためにやっちゃいねーよ」 的な毒づき方をしたくなるものばかりである。たいていは自分の立場を勘違いし たり、基本的な部分を勘違いしたような「勘違い」である。正しい批判であれば いくら厳しくて、まだ我慢が出来るし意味もあるが、「勘違い」となると脱力す るしかない。最近は「baka-watch」などというMLを秘かに作り、笑いものにして ガス抜きをしているのであるが、そういうことをしなくてはならない現実にまた 脱力してしまう。

TODO

Linuxはかなり普及し商業リソースが参入したとは言え、いまだにボランティア ベースの部分は多い。ボランティア的なものといかに共存して行くかということ は、商業リソースの人々にとっても重要なことである。また、それのように「金 が全て」な世界ではない世界が存在しているのがLinuxの楽しいところであると も言える。このボランティアベースのものの「通貨」は「金」ではなくモチベー ションなのである。

ところが難しいのはこのボランティアのモチベーションの維持である。ここに挙 げたように金があればやるというような単純なものではないからである。最初は 何もなくても「Linuxである」ということだけで保てたモチベーションも、いろ いろな事情で下がってしまうことは少なくない。だから周囲はいかにして維持さ せ続けるかを考えてやらなくてはならない。

かつてはLinuxは金にはならなかった。だから古くからLinuxを使っている人は金 は動機ではなかったのである。企業はそのことを肝に命じておいて欲しい。そし てそれらとの共存共栄がポイントなのである。


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