99年3月4日執筆

共存のモデル


陰口

今回はちょっと挑戦的な前口上である。

今、日本Linux協会を設立ということで、いろいろ動いている。その過程でい ろいろ話を聞いて回っていると、あちこちで陰口のようなものが聞こえて来る。 極端な人になると、「生越が旗を振るような団体には協力したくない」という のまである。まぁ人間のことであるから、好き嫌いは当然あるだろう。「俺の 何が悪いんだ?」と言ったところで、「生理的に嫌い」とか言われてしまえば、 もうそれ以上何も言えるものはない。「あ、そうですか」としか言いようがな いのである。とは言え、「Linuxの未来」を云々しようという時に、私個人に 対する好き嫌いで判断してもらっても、どうしようもない。結局、「あなたの 前ではLinuxそのものよりも、私に対する好き嫌いが優先事項なのね」としか 言いようがない。早い話が「あんた料簡狭いね」である。

まぁ単に好き嫌いだけの次元で言っているのだったら、まぁ「それはそれ」で わかりやすくていいし、「料簡狭いね」でいいのだが、そこに一見マトモそう な理屈をつけて来る人がいるのが厄介である。これについての具体的なことは、 本文で詳しく書こうと思う。

いろいろな意味で批判されることは、当然のことである。私は全知全能ではな いのだし、もちろん完全でもない。いろいろな抜けもあるだろうし、公平平等 とか思っていても、しょせん私利私欲を持った人間である。そのような時に批 判をされることは、有益である。そーゆーものに耳を貸すのは、非常に意味を 持つ。しかし陰口は何の意味も持たない。陰口に参加しているものは溜咽は下 がるかも知れないが、それ以上の価値はない。仮にそれが本人の耳に入れば、 モチベーション低下の原因にるるし(事実随分脱力した)、言ってる人に対して は、「くだらない奴等だ」とゆー評価になったりする。つまり単なる「ガキの 喧嘩」レベルになってしまって、お互いに何の益にもならない。「文句があっ たら堂々と言え」である。

まぁ自己弁護をしておくと、私は無用に誰かの悪口を言った覚えはない。「悪 いものは悪い」と言って来たし、間違っているものに対しては間違っていると 言って来たが、誰かをおとしめようとして言ったつもりはない。独善的と非難 する人もいるが、別にそれを自分のためにやった覚えはないし、少なくとも今 のところミスリードはしてはいないと思う。利益誘導をしているのではないか という偏見もあるようだが、ビジネスの時の顔とコミュニティ活動の時とは厳 密に分けているから、私が会社の名刺を渡すと「へっ?」って顔をされること は多々ある。それくらい私はきっちり分けている。どこかの社長のように、 「セミナー」の時に自社の宣伝をすることは、間違ってもありえないし、それ を批判している立場でありながら同じことをやれば、「言ってることとやって ることが違う」ことになる。あちこちでの陰口はこの辺に集中しているので、 多くは「思い込みや勘違い」だと思うのであるが。

さて、この辺を糸口にして今回は話を始めよう。

○日本Linuxユーザ会とはどんな組織か

私への批判と共によく出て来るのが、「日本Linuxユーザ会は実体がないでは ないか」というものである。私が「理事長」などと名乗るその組織は、組織と して存在していないではないかということである。

この批判、確かに3年前なら全く正しい。元々、まだJPNICのドメイン発行に 「ドメインの第3レベルの単一性」とゆー規則があり(つまりlinux.co.jpを取 得されたら、linux.*.jpは取得出来ないということ)、それで困らないために、 まずlinux.or.jpというドメインを取得してしまえと言うのが、「日本Linuxユー ザ会」の始まりである(現在はこの制約はない)。当時は「実体なんぞ後でどう とでもなる」とばかりに、とにかくドメインを取るために団体をでっち上げた のである。だから、その当時は実体はなかった。私の「理事長」にしても、ド メイン取るためには代表者が必要だということで、「理事は後でどうとでもな るから、とにかく代表がいる」ということで作った肩書である。だから、「日 本Linuxユーザ会」も「理事長」も、実体なぞないものだったのである。「実 体は後でゆっくり考えようね」ということだったのである。

しかし、時代は進む。「男児三日合わずんば括目して相まみゆべし」である。 メーリングリストやいろいろな新しいプロジェクト、www.linux.or.jpを維持 するwebmastersなど、確実に活動実体は出来て行ったのである。これは別に私 や他の誰かがビジョンを立ててプロジェクトを興したりしたわけではなく何と なく「Linux」というものへの求心力が元となって行われたものである。「日 本Linuxユーザ会」なんてものの存在があるとかないとか、どうするべきかと いう議論も必要であったし、そのための呼びかけもしていたのではあるが、い つの間にかみんな多忙ということもあり、「理事長」とゆー役職と、いろいろ なプロジェクトが存在するという、不思議な形態になったのである。「組織」 としては未熟であっても、実体は出来上がって行ったのである。だから私への 非難のついでにJLUG自体にあれこれ言うのは、そのような活動をしている人々 に対して失礼である。

マスコミはLinux流行りであるから、この辺の事情をよく知らないところから も、最近よく取材を受けるのだが、その時に「何人くらい会員がいますか?」 とよく聞かれる。一応「入会フォーム」とか作ってみたり、組織化の方法とか を検討してみたのであるが、「会費」を取るシステムにはなっていないので、 「会員」の数を数えるのは不可能である。そもそも「会員」という概念がある のかないのかすらよくわからない。昔は「どうしたものか」と思っていたので あるが、「何となく集まり、何となくプロジェクトを始め、何となく成果が上 がる」とゆー形態こそが、Linuxの動きに追従する秘訣なのではないかと思う ようになって来た。確かに普通の団体ならはっきり目標や目的を定めて、ちゃ んとプロジェクト計画を立ててやるのがスジであろう。しかし、動くの早い Linux界において、それでは「隙」が出来るのではないかと思う。やる必要が あると感じたり、やりたいと感じたら即実行というのが、一番うまく行くので はないかと思う。

linux-users-ml等を見ている人はよくわかると思うが、いまだにこの世界には 「言い出しっぺの法則」というものがあり、何かが欲しいとか必要とかという 論陣を張った人には、「じゃああなたがやりなさい。直接やるかどうかは別だ が、旗くらいは振りなさい」という暗黙の掟がある(そのような掟があるがゆ えに、意見を出しにくというのもあるが、無責任な意見も出ない)。ここには 「合議」というものはなく、個人的な要求から物事が始まるのである。ところ が「組織を組織としてちゃんとする」「公益を旨とする」ということは、合議 制によって事を行うということである。もちろん「言い出しっぺの法則」であっ ても、多くの人に支持されないことには物事は始まらないので、全く独断だけ で事が行えるわけではない。しかし、事を始めるのは「独断」であり、その場 の「勢い」だったりする。またLinuxの歴史を考えれば、そのような「独断」 や「勢い」で物事を始めて、評価はそれらの成果に対して行うということは自 然な行動であり、それがLinuxを育てた原動力であったと言っても過言ではな い。だから、「組織としてちゃんとする」ということは、ある意味Linuxの文 化に背反する部分でもある。

とは言え、何も方向性や計画性がないのも、いろいろ困りものであるし、徒党 を組んで事を行うということも重要なことである。そのために「何となく集ま り、何となくプロジェクトを始め、何となく成果が上がる」という組織が重要 だったのである。

ユーザの論理

さて、このようにしてLinuxはユーザ自らの手で発展して来た。そのため、 Linuxは非常にユーザの方を向いて発展して来たのである。たとえば、

というように、「とにかくやる気さえあれば、快適な環境をいつまでも使い続 けることが出来る」ものとなっている。これはユーザの立場としては非常に都 合が良い。

個人的にもあちこちでよく引き合いに出すのだが、「メーカにとっての旬とユー ザにとっての旬は違う」という問題がある。メーカはその業界の黎明期にはど んどん物が売れるので喜んでサポートも開発もするが、安定期になるとそれ程 でもないので、力を抜き始める。つまりメーカにとっての「旬」はそ業界の黎 明期なのである。ところがユーザにとっては安定期こそが「旬」である。残念 なことに安定期はメーカにとっては「旬」ではないので、あまり相手にしても らえなくなってしまっている。もちろん一般のソフトウェアもハードウェアも、 メーカが技術情報を握っているから、ユーザにとってはメーカがサポートしな くなった時には、もはや泣くしかないのである。つまり、メーカの都合によっ てその事業を継続するかどうかを決定されてしまうようなことだってありうる のだ。かつて私がいた「キャプテン業界」というのは、全くそのようにしてメー カ(と無責任な経営者達)によって潰されてしまったのである。ここまで大袈裟 な例を持ち出さなくても、「自分のやりたいことには高々MS-DOSで十分なのに」 と思うような人でも、MS-DOSのサポートがなくなってしまったり、その上で動 くアプリケーションのサポートや開発がなくなってしまったという理由で、渋々 Windowsに換えてしまったという人は少なくないはずである。つまり、本来使 い続けるかどうかは自分で判断したいにも関わらず、どこか知らないところに いるメーカあたりの都合によって決定されてしまうのである。

ところが、ユーザが自身が技術情報にアクセス出来れば、この状況は一転する。 やる気さえあれば、自分自身の手によっていくらでもサポートも開発も続けら れる。だから使い続けるかどうかの意思決定は、ユーザ自らの手にゆだねられ る。つまり、使い続ける気と、それを支える技術さえあれば、いつまでも使い 続けられるのである。メーカのサポートがなくなっても、あまり深刻な問題に しないで済む。だから、ユーザにとっての「旬」を本当の「旬」として使うこ とが可能になって来る。

このことはハードウェアに対しても言える。

今時はPCのハードウェアは半年くらいで買い換えとか言われている。使えるか 使えないかという議論では、何年も使えるはずであるが、「陳腐化」という言 葉で「使えない」と言われてしまう。冷静に考えてみれば、今のPCの速度は一 昔前のスーパーコンピュータ並であるし、グラフィック性能もちょっと前のグ ラフィックワークステーション並である。そのコンピュータを持ってして、 「遅い」などと言いながらリプレースをして行く。これが今のPCの現状である。

しかし、かつてのミッションクリティカルな基幹系システムでは、あまり新し いハードウェアは今一つ信用されてなかった。しばらく動かして安定性が確認 されてから初めて、安心して本番業務に登番させるということが行われていた。 このような世界では1年動かしたハードウェアは「1年落ちの中古マシン」で はなく、「1年の稼働実績のあるマシン」なのである。そのような世界から見 ると「半年単位で陳腐化」とか「新アーキテクチャをどんどん採用」という世 界は正気の沙汰とは思えないのである。もちろんハードウェアも進化し続ける 必要があるものであるから、新しい技術が採用されたり、より高性能のハード ウェアが出来ることには問題はない。問題となるとのはそのようなものが「評 価」という過程を経ることなく使われて行くことである。また、「安定性」と いう観点で見ると、ハードの故障は最初の数ヶ月と寿命が来る直前とに集中す る。だから安定して使えるまでには、ソフト的環境設定も含めれば、数ヶ月間 は不安定なものであり、それからがハードウェアの「旬」と言える。もちろん 普通のPCはそんな難しいことは言わないのではあるが、それでも「初期不良」 のようなことはあるし、ドライバの設定だのボードの入れ換えだのということ を考えれば、「安定するまでに数ヶ月」という事情はやはり存在する。

ところがそこに「遅い」などと言いながらのリプレースがある。その中には 「単なる贅沢」で遅いと思うということもあるだろうが、アプリやOSが重くて 遅いと思うことも多々ある。そのような時は安定する間もなく次のものに手を 出してしまうことになる。「旬」の時期を待たずして、次になってしまうので ある。

その点ではLinuxは、元々OSが軽い。また今のところアプリもそう重いものは ない。特に2.2系カーネルになってから、メモリの使い方やスケジューリング が上手になったらしく、今までちょっと重いと思っていたものが、軽く感じら れるようになった。

私の普段使っているPCはPentiumPRO 200MHz dual メモリ96MBというもので、 今となってはPentium II 450MHz singleよりも遅いし、メモリも普通程度の容 量でしかないマシンである。カーネルがVer 2.0系の時には「もう遅さを感じ ることあるし、メモリ増設も難しいからリプレースしようか」と思っていた。 ところが2.2系カーネルにしたら、メモリ不足感はなくなったし、CPUもdualを ちゃんと機能させてくれるものだから、「まぁ当分新しくしなくて良いか」と 思うようになった。結果的にハードウェアの寿命が伸びたのである。新しい玩 具で遊ぶ口実を失なってしまったが、お金のない時期でもあるので、ラッキー であった。

というような例は、ある程度のパワーユーザなら、経験があることだと思う。 このように「ユーザの論理」に立った時のLinuxは非常に良いものである。

メーカの論理との対立

話はちょっと逸れるが、冒頭にも書いたように「日本Linux協会」というもの を設立するために走りまわっている。これは従来の「日本Linuxユーザ会」が 単なるユーザの集まりだったのに対し、メーカやベンダーも積極的に参加して もらい、共通の活動の場を作ろうとしているのである。だからメーカにも積極 的に働きかけている。

そうなると困ってしまうのが、この「ユーザの論理のLinux」との折り合いの つけ方である。特にハードウェアに対する要求の低さは、日本のコンピュータ メーカにしてみれば致命的でさえある。Windowsの時にはすぐ陳腐化していた ハードウェアが、Linuxの場合は下手すると壊れるまで使えてしまう。ユーザ にとっては出費が少なくて済むのは良いことなのであるが、メーカは「箱」を 売らなくてはならないので、それでは困る。偏見を混ぜた言い方をさせてもら うと、メーカは「いかに高い機械を、いかに沢山売りつけるか」が商売であり、 それを前提にビジネスを構築している。そうなると、いつまでも使えてしまう Linuxは非常に厄介なものだということになってしまう。

実は今は松江の会社の他に、東京の会社でも仕事をしているのだが(その会社 については、表2見開きの広告参照のこと)、そこでいろいろなLinuxを使った ビジネス展開のことを打ち合わせている。その中の一人が無邪気に「我々のビ ジネスがどんどん大きくなったらどうなるんでしょうね」という問いをした。 私はそれに「何も考えないでやったら、経済を冷やして終わりでしょうね」と 答えておいた。Linuxを使うことによって、ハードウェアへの要求はあまり増 えない。あるいは下がってしまうことすらある。そのようなものがどんどん普 及すれば、ハードウェアの買い換え需要が衰えるわけだから、買い換えを前提 としていたマーケットは崩壊する。

実際、今のPCのハードウェアはWindowsの重さのお陰で高性能化したのである。 やたらにディスクを必要とするということから、ディスクは安く大容量になっ たし、OSの重さを解消するためにCPUは高速化しメモリは大容量化した。ちょっ と前の感覚だと、今の「普通のPC」はどう見てもオーバースペックに見えるの であるが、Windowsで使ってみるとちょうどいいかなと感じたりするので、やっ とハードウェアがソフトウェアの要求に追いて来れたという気がしないでもな い。もっとも、ここに来るまでに中途半端なPCを使い捨てして来たわけである から、それまでのハードウェアの投資はそのまま「コンピュータにまつわる経 済」を暖めて来たのである。ユーザにとっては面白いことではないのだが、 「経済はそうして成り立っている」という「大人の解釈」をしてやると、「まぁ しかたないか」という気がしないでもない。「俺はLinuxユーザだから関係な い」と言っても、じゃあLinuxが386PCでも動くからそれを使うかと言われれば 今や誰も使わないし、LinuxとてHDDは大量に使いたいという潜在的な欲求がな いわけではないので、そのような世界の動きと全く無関係とは言えない。言い 換えれば、「WindowsのおこぼれをLinuxが使って来た」と言えないこともない のである。

これが本当に「おこぼれ」レベルのシェアであるのなら、それで何の問題もな い。多数のWindowsユーザの涙でLinuxが潤うという構図であっても、メーカは Windowsのことだけ考えていれば良いのだから、Linuxがどんな構造を持ってい ても「誤差の範囲」に過ぎないのである。しかし、今やLinuxは無視できるよ うなシェアではなくなりつつある。また「情報インフラ」の一部となろうとし ているし、メーカもビジネスの対象だと考えるようになって来ている。そうな るともはや「LinuxはWindowsのおこぼれで生きて行く」ということは出来なく なってしまうのである。Linuxの存在が前提となったハードウェア設計が必要 となるし、それにも増してビジネスモデルの設計が必要となって来る。

という原稿を書きながら、正直なところ「実はこの辺は絶望的なのではないか」 と思っていた。ところが実は日本のメーカは既にそれを一度経験しているので ある。それはいわゆる「DOS/Vショック」である。これ以前の日本のパソコン は「高いし性能がイマイチ」であった。PC互換機を輸入すると、安くて高性能 ではあったのだが、日本語の問題があったので、「日本は日本」で済んでいた。 ところがDOS/Vなどという手法やWindowsの普及によって、「特別に日本語向き のハードウェアでなくても日本語がバリバリ使える」という状態になってしまっ た。そうなると、どんどん台湾あたりからPCを輸入して... という状況が記憶 に新しい人も大勢いるだろう。これはある意味、Linuxの登場と似たような 「外圧」ではないかと思うのである。国産メーカは「DOS/Vではビジネスが成 り立たない」とあわてていたのであるが、今やちゃんとビジネスにしてしまっ ている。同じようなことが可能だと期待している。

TODO

例によってTODOで締めよう。

今までLinuxは純粋にユーザの論理だけで成長を続けて来た。Linuxが純粋にユー ザのものであった時代にはそれで十分であったし、「エントロピーの低い解」 でもあった。ところがこれだけLinuxがシェアを伸ばし、いろいろなところか ら注目されると、無邪気にユーザの論理だけで考えることは出来なくなって来 る。情報インフラとしての責任も発生するし、ハードウェアマーケットに与え る影響も無視出来なくなる。「軽くて廉価で高性能」だけでは、その「存在の 責任」が果せないのである。ハードウェアメーカは何か新しいビジネスモデル を構築して、今までのWindowsを使ったビジネスとは別の方向のことを考えな くてはならない。もはやメーカは無意味に高性能なマシンを売りつけるような ビジネスは成立しなくなってしまっている。

他方、今までは狭い意味での「ユーザコミュニティ」が中心に発展して来たの であるが、これからはもっと視点を拡げる必要がある。元々Linuxの「ユーザ」 は単なるエンドユーザだけではなく、ベンダ的な人、メーカ的な人もいたわけ で、それが今は個人から法人になり大規模化しただけとも言える。だからむし ろ「ユーザ」と言うよりは、「当事者」という観点で捉えた方が良いように思 われる。そのようなことを考えた時に、いろいろな立場の者が「当事者」とし て共栄し、Linuxを共に育てるということを考えることが必要になる。

Linuxを育てるのは、この「当事者」である。そして、この「当事者」の共存 共栄のモデルを考えることが、今後のLinuxの成長のカギと言える。多くの人 の英知を集めてLinuxは成長して行く。それは特定の人ではなく、全ての「当 事者」の力によるのだ。


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