セットトップボックス?

セットトップ・ボックス(前編)

NGNはセットトップボックスが重要らしい。

NGN時代のセットトップ・ボックスは,デジタル放送並みのIPTVサービスを視聴するだけでなく,NGNとホーム・ネットワーク連携による多様なサービスにアクセスするための家庭内端末に進化する。ホーム・ゲートウエイとの連携による品質制御もネットワークのシームレス化にとって重要である。

もしこれが本当なら、NGNは

始まる前に終わっている

と断言できる。

だいたい、現在稼働しているセットトップボックスって見たことがありますか? それ以前に、今まで世の中に出て来たセットトップボックスの「Ver 2.0」の話を聞いたことがありますか? 過去、20年以上の業界の常識から言えば、

セットトップボックスは死亡フラグ

である。

ネットワークサービスをやろうとする大きな会社–たとえばメガキャリア–は、セットトップボックスを作ろうとする。古くは「キャプテン端末」がそうであるし、それ以外にもたくさんの「テレビ(セット)の上に載せる情報端末」が提案され作られて来たのだが、どれ一つとして成功した例がない。100%皆無なのだ。世界中探して、だたの1例の成功もないという、驚威のシステムだ。ここまで見事に失敗しかないというシステムも珍しい。

ところがなぜだか、ネットワークサービスをやろうとする会社、あるいは情報系から情報家電に手を出そうとする会社が、つい作ってしまうのもセットトップボックスだ。100戦100敗のシステムであることは、ちょっと業界を調べればわかりそうなものなのに、なぜか他人の失敗から学習しようとしない。「他人は失敗したけど、自分はうまくやれる」と勘違いして、ついやってしまう。そして失敗する。まるで学習能力がない。

これは、「セットトップボックス」というものについての考察の不足と、失敗例への考察の不足から来るものだ。

一番の勘違いは、「テレビはディスプレイになる」ということ。これは、「雪が解けると水になる」と思っている人達にとっては真実であろうが、実はそれが全ての真実ではない。「雪が解けると春になる」的な真実にも目を向けなければわからないことだ。

確かに電子機器としてのテレビは、ディスプレイになりうる。しかし、家電としてのテレビはディスプレイにはならない。それはなぜかと言えば、

ディスプレイは個人ユーズであるが、
テレビは家族で見るもの

だからだ。どれだけパーソナルテレビが普及しようと、テレビが「お茶の間の王様」であることには変わりはない。パーソナルテレビは「お茶の間のテレビの他」にあるものであって、やっぱりお茶の間にはテレビはある。お茶の間のテレビを使って外の人とコミュニケーションを取りたいかと言えば、ほとんどの人が否であろう。なぜなら、「コミュニケーション」とは個人的なものであるにも関わらず、「お茶の間のテレビ」は「家族の共有物」であるからだ。

わかりやすい例を挙げるなら、「恋人へのメール」を家族が見ている場で書きたいと思うかどうかだ。どれだけオープンな人であっても、それはちょっと躊躇するはずだ。「恋人へのメール」は、自分の部屋に帰ってパソコンで書くか、こっそり携帯で書くものだ。「パーソナルテレビにセットトップボックス」という構成は、まずありえない。

「テレビ」というのは、「みんなで盛り上がる」ための機器だ。コミュニケーションのような個人的なものには使い辛い。これを忘れてしまって、「ついうっかり」作ってしまうのがセットトップボックスだ。

今時、インターネットの動画はたくさんある。あるいは増井さんのFeedTVみたいな情報の見方もある。そんなものがあるから、つい「テレビにインターネットを」とか考えてしまって、「パソコンじゃあナニだからセットトップボックスが必要」なんて結論を出してしまう。これは非常に陥りやすい罠だ。パソコンを使って「テレビ」を見ることが可能だからと言って、逆が成り立つと思うのは間違いなのだ。

テレビが進化して多機能化することは、ある種の必然だ。しかし、テレビにテレビ以外の働きをさせてしまった時点で、そのプランは失敗する。テレビにさせて良いのは、(広い意味での)テレビを見ることだけなのだ。ビデオの録画予約や、EPGを見るのは良い、またテレビのソースをテレビ放送だけではなく、インターネットに拡げるというのも問題はない。しかし、テレビに関係のない情報端末にしてはならない。それが必ず失敗するということは、既に歴史が証明している。

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