「4Kテレビ」はまだ普及させてはいけない技術

あんまりdisエントリは書きたくないし、あまりに馬鹿げた話なのではあるけど、あまりに馬鹿がのさばっているので、いい加減鉄槌を下そうと思う。

教授の使命 〜東洋大山田教授がイタすぎる

4Kテレビは安くなる。そして売れる — 西 和彦

面倒臭いな、まとめがあるんでこっち。

4Kテレビを違う視点からDISってみる

それなりにわかっていそうな人達が馬鹿なことを言っているのは、どこから金でも出たのか?

まず、「売れない」に対する反論には決定的な間違いがある。それは、

テレビとディスプレイは違う

ということを忘れているということだ。テレビとディスプレイは同じ技術の上に立つものではあるけど、全く別のものである。このことは忘れてはいけない。かつてそれを無視して、盛大な失敗をしたものがある。それが

CAPTAIN

だ。テレビとディスプレイをなぜごっちゃにしてはいけないかは、そっちのエントリを見て欲しい。

4Kのディスプレイ。これは私も欲しい。今すぐでも欲しい。でも、4Kのテレビはいらない。もちろん、

テレビ自体がオワコンだから

という理由もあるのだけど、それを割り引いても、「4Kのテレビ」はいらない。なぜなら

必要性がない

からだ。

テレビとディスプレイは見るシーンが違うんだよとゆーことは既に書いたのだけど、それともう一つ大きな違いがあって、それはテレビは動画を見るものだということだ。

その前に、ディスプレイの解像度についてちょっと考えてみよう。「4K」を使うためには、どれくらいのサイズが必要かということだ。

本当ならここで「1.0の視力とは」という話になるのだけど、それではちょっとイメージがつかめないので、「Retinaディスプレイ」とゆーもので考えてみる。「Retinaディスプレイ」はAppleのマーケッティング用の言葉ではあるけれど、こういったことを考えるには便利だ。面倒臭い理屈は抜きにして、人間の視力に合わせると、必要にして十分の解像度。これが「Retinaディスプレイ」だとゆーことになっている(厳密には、もうちょっと人間の視力は高い人もいる)。つまり、これ以上の解像度は、人間の目には意味がないということだし、これくらいの解像度があれば、目が見るという前提では十分だということだ。

ところで、「4K」というのは、ざっとiPadの縦横2倍になる。となると、「Retina」であることを維持すると、大雑把に20″のサイズが必要になるということだ(正確には、ディスプレイの形状が違うし、iPadは10″ちょうどじゃないし… ってことがあるけど)。20″よりも小さいディスプレイで「4K」を表示しても、人間の目にとっては意味がない。そして、これは

タブレットを使う距離

で見た場合の話で、「テレビ」を見る時は、当然もうちょっと離れる。と言うのも、目の前30cmくらいのところに20″のディスプレイがあっても、全体が見えないからだ。見えてない画素は表示してても意味がない。ではどれくらい離れれば良いかと言えば、さっきヨドバシで見て来た感じでは、55″のテレビを2mくらい離れて見ていた。大雑把に横幅の倍離れてるわけだ。「視界いっぱい」を期待するなら、もうちょっと近くでもいいと思うんだけど、あまり近いとチラチラするから、そんなものかも。

2mくらいの距離で「Retina」な解像度にするには、どれくらいのサイズが必要かと言えば、「目の前30cmくらいで20″」を元にすれば、その6倍くらいになるから、120″くらい欲しいってことになる。2m離れたら、120″がRetinaとして意味のあるサイズだってことだ。それより画素の密度を上げても区別がつかないので、「4K」にする意味がない。つまり、2m離れて見る場合、55″では、「4K」にする意味はないのだ。1mくらいなら意味があるけど。

2mはテレビを見るにしては相当に近い。一人で見るならいいけど、家族ではそれ難しいとか考えると、解像度的に意味のあるサイズのディスプレイは、かなりのサイズになるし、それは普通の日本家屋では厳しい。そりゃ120″くらいのテレビがあれば嬉しいとは思うけど、置き場がある人は少ない。

というのがディスプレイの基本の話なのだけど、これが「テレビ」となるとまた違うことになる。

テレビは基本的に「全体」を見るものだ。↑の計算でも全体を見る前提だったのだけど、「テレビ」として使うことを考えると、もうちょっといろいろ制約がある。

「テレビ」の場合、部分をクローズアップして見ることはまずない。全体として写っているもの、主役として写っているものを見るのが基本であって、隅の方で小さく写っているものを一生懸命見ることはしない。「高解像度」が嬉しいのは、「肌理」の表現が細かくなるとゆーことであって、ちっちゃく映っているものでもちゃんと見えるとかではない。これが静止画、たとえばデジカメの画像であるなら、小さく写っているものを近付いて見るということはアリなので、全部の画素を見なくても、そんなにもったいないことにはならない。でもテレビはそうじゃないし、仮にそういった人がいても、レアでニッチだということになる。

さらに「テレビ」は基本的に動画を映す。そして、一般に人の目は「動くもの」は「止まっているもの」よりも、解像度が低くなる。「30cmで20″」とかって言っているのは止まっているものであって、動くとそこまでの解像度は出ない。iPad2とRetinaのiPadの区別がつく人であっても(これすら気がつかない人は少なくない)、1080Pのテレビと4Kの区別をつけるのは、実は容易ではない。4Kのデモを見たことのある人は、動きの少ない静止画(をパンしてるだけ)みたいなものばかり見せられたと思うのだけど、これはそのためだ。動きが激しい映像は、人間の方の解像度が下がってしまって、ディスプレイの差がわからなくなってしまう。

そんなわけで、「4K」とゆー解像度は、特に動画を見る場合には意味がないのだ。

もちろん技術がどんどん進んで、そういった高解像度の使いこなす必要がなくなった時、表示する解像度が高いことは邪魔になるわけじゃない。解像度が高いからと言って材料を大量に使うようになるわけじゃないので、技術が進めば単純に大きさだけが価格決定のファクタになる。だから、「4Kの液晶板が当たり前」になってしまえば、売れないわけじゃない。でも、そこに映しているソースは、既存のテレビのアップコンバージョンだったりする。それが別に「もったいない」って時代でなかったら、「4Kのテレビ」だって売れるだろう。でも逆にそれは4Kである必要もない。また、それくらいカジュアルになれば、案外アップコンバージョンでなくても見れるソースも増えたりするだろう。そうすれば、全く無意味になるとゆーわけでもない。

しかし、今の時点、あるいは近い未来、つまり「4K」であることに対して、追加の金を払う必要がある時代に、その「追加の金」を払う意義があるものになるとかと言えば、仮にコンテンツがあったにしても厳しい。50″くらいであれば、1080Pでも4Kでも、人間にとっては同じなのだ。そこに追加の金を払う価値はないし、仮にそこに価値を見い出す人がいたにしても、レアでニッチなものでしかない。そうなると、「市場」はないに等しいので、一般的になるわけはない。これが、「4Kのテレビ」が少なくとも近い将来に商業的に出て来ることは無理だと言う理由だ。

他にも、この「高過ぎる解像度」に起因する問題はいっぱいある。でも、そうやっていっぱい理由を並べるよりも、まずは「人間の目にとって無理」ということを認識して欲しい。

1000歩譲って、「4K放送」が始まっても、これくらい設置自体が厳しいもので、ビジネスが成立する放送が出来るのかどうなのか。全体の視聴率が下がっているとは言え、それでも視聴率が10%を切ってしまえば「不振」とゆーことで、番組打ち切りが検討されてしまうのだ。つまり、世帯普及率が10%を越える見通しが立たない限り「テレビ」としてのビジネスは成立しないし、それが複数存在しなければ「競争」もない。「有料放送」をやるにしたって、放送側がペイするだけの加入者を集めるとゆーことが出来なかったら、成立はしないのだ。

もちろん、家電業界はそんなに誠実な業界じゃない。消費者センターから「有意な効果なし」と烙印を押されてしまった「プラズマクラスタ」はいまだに販売されているし、ちょっと前は結局放送なんて全くされなかった

ワイドテレビ

なんぞを売っていた。ソースがロクにない3Dテレビとかも売ってた。そーゆー不誠実な業界だから、案外無理やり売るかも知れない。

「やっぱり4Kは迫力が違いますよ」

とか言って、50″くらいのテレビを売っちゃうかも知れない。や、実際そう言ってアキヨドでデモしてたし。でも、そうやって半ば詐欺のようなことをして売って良いかと言えば、私はそれは不誠実な行為だと思うし、ますます業界の信用をなくして行くことになって、自滅への道だろう。

最後に、元役人の馬鹿のために、蛇足をつけ加えておく。

実態は逆で放送局側の希望を飲んでなんとか放送帯域の枠を作ろうと総務省が努力しているって状況なんだよね。考えてみれば当たり前の話で、ながらく世界に先駆けて4Kの開発をしてきた人達に取っては、悲願の実用化ですからね。

役人のこういった発想こそが、「日本の家電メーカー」をダメにして来たのだ。どんなに「技術者の悲願」であっても、需要のない(作れない)商品を作るのは馬鹿げている。それを忘れて、「レベル高いけど使い道のない技術を磨く」ことにエネルギーを費して傾いてしまったのが、日本の家電メーカーの失敗の一因ではなかったか。そんな「悲願」に付き合う必要はないのだ。

国益を考える役人であるなら、そういった行為は全力で止めるべきだし、自由競争に任せるのであれば、電波を使った放送のための電波を用意しないで、せいぜいネットでやらせておけば、当事者以外は損をしない。

あと、そういった技術の波及効果がどーたらこーたらとか、それは「役人の作文」の常套句であって、良識ある一般市民が耳を貸す必要があるような言葉ではない。「ビッグデータ」が「4Kテレビ」に関係があるとか、昔は役所向けにそーゆー感じの作文したなぁ(遠い目)。

医療がどーたらこーたらってのも、それは「4Kディスプレイ」の話であって、「4Kテレビ」の話とは関係がない。だいたい医療用なら既にあるよ。最初に書いたように、「ディスプレイ」と「テレビ」をごっちゃにして考えてはいけない。ごっちゃにして成功した例は、日本に限らず世界中探してもない。「俺達は今までと違うからうまく行く」ってのは、まーたいていは死亡フラグだ。

PS.

あらためて考えてみたら、「視界での大きさ」は目からの距離に依らず一定だ。だから、20″で30cmで見ても、120″で2mで見ても、「視界全部に余るくらい」ってことに変わりはない。そのサイズでテレビ見るのが、どれくらい楽しいだろうか? タレントの毛穴とか、あまり見たくないんだが。

PS2.

「可能性」の話をするなら、4Kデバイスが十分安くなれば、いろんな可能性が出て来ることは否定しない。

たとえば、レンチキュラー方式の3Dであれば、

本来必要な画素数 x 視点数 x 2

の画素が必要になるので、いくらでも画素は使える。どうやってその映像作るんだよって話は、「技術が解決してくれるさ」なんだけど。

あるいは、解像度を上げるのは倍くらいしといて、残り半分は視野を拡げるのに使うみたいなアプローチもある。風景とかスポーツとかだと、トリミングで消えていた部分が見えると嬉しい人は多いだろう。逆に映像作品だと、今まで見切れていたものが見えてしまうとか、表現方法が変わるということで困る人もいるかも知れない。21世紀の今日でさえ、映画とテレビでは画の作り方は違うわけで、そこにさらに違うものとなると、大変かも知れないけど。

だから、そういった画素数が完全に不要であるかと言われれば、「そんなことはないよ」と言えるのであるけど、今の延長であれば解像度が上がるだけだし、そうなると↑に書いたようなことになってしまって、意味がなくなる。また、「今の延長」でなければ、コンテンツを作るコストは上がってしまうし(あるいは見積不可能になってしまう)、それが成功するかどうかを判断するのも、もっと難しくなってしまう。

だから、「人類にはこの解像度は高過ぎる」という問題の次には、「制作技術をどうするか」という問題が横たわり、さらに「ビジネス足りうるか?」という問題が横たわる。だから、いくら「4Kのディスプレイ」が大きな可能性があり、技術的にもそう難しいものでなくなったからと言って、すぐ「次世代テレビ」として担いでも良いかと言えば、それはそれで別の話だ。技術屋でもわかるように言えば、

良いアプリが良いビジネスになるとは限らない

という問題に近いくらい、「ディスプレイ」と「テレビ」は違うものなのだ。