行かない

八田さめがFacebookで書いてて、風穴君からメッセージ来たんだが、

第1回:オープンソース歴史研究会──ビジネスとコミュニティの視点から

行かない。まぁこんなことは返事書けばいいんだが、話せば長いし、「オープンソース」について私がどう思っているかは興味ある人もいるだろうから、公開の場に書いておく。

行かないのはいくつもの理由がある。順不同で挙げてみると、

  1. 私にとって「オープンソース」は過去に過ぎない。私は自分の「過去」にそれ程興味も撞着もない
  2. その「過去」にそれ程いい思い出がない。むしろ黒歴史
  3. 呼ばれてないイベント、観客でしかないイベントには行かないことにしてる
  4. そもそも「オープンソース」にあまり興味がない。「フリーソフトウェア」には興味あるけど

個人的に「過去の栄光」とか「業績」ということには、あまり興味がない。もちろん自己紹介や「来歴」の類の時、あるいはネタとして昔の話もするのだけど、それ以上でもそれ以下でもない。昔話をネタにして文章を書くことが多いから興味あるかと思ってる人もいるだろうけど、あくまでも話のネタとして使っているだけだ。

誰かに何かをしてあげた時、その場で感謝されたら、たいていすぐ忘れてしまう。手間かけて何かした時に何の感謝もなければ忘れないし、恨み事はなかなか忘れられないけど。

世の中に「過去」を自慢したがる人は多くいるし、それを前提でいろいろ見る人が少なくないことは知っている。「だからお前もそうだろう」とか言いたがる人も少なくない。でも、私は割とその辺どうでもいい。最近、

電子カルテ普及へ新会社、日本医師会と政府系ファンド

とかあって、まさに某O絡みなのだけど、「ふーん」ってだけ。言って来た人がいたから知ってるけど、それがなかったら知ることもなかっただろう。

私は「蓄積」とか「貯金」の類にあまり価値を感じていない。と言うか、「素敵だと思われている過去」が今のプラスになったというような「成功体験」を持っていないので、価値があるような気がしない。自慢話とかすれば楽しいのかも知れないが、今までそれをして来た人達が格好いいと思ったことがないので、

そんなダサいことしたくない

としか思えない。

だから、今とか未来とかの方がずっと関心がある。暇だったり未来が暗いと思っていれば、今とか未来のことより過去に価値があるのだろうけど、実際あるかどうかは別にして、少なくとも私は自分の今や未来の方が、自分の過去よりも価値があると思ってる。つまりまぁ、「歴史」なんてものに関わってる暇があったら、目の前の仕事や遊びの方が優先度は高い。

「話してくれ」と頼まれたのなら、それは「今」になるし、「未来」につながるかも知れないのだけど、高々「観客」でしかないのであれば、

行かなくても誤差だろ

としか思えないし、「誤差」でしかなかったら自分の関心のあることの方が優先する。

同じような理由で、私は「同窓会」があまり好きではない。「なつかしい」しか話題がないイベントに「今」も「未来」もないからね。

2については、今はあまり具体的に書きたくないし書く機会もないだろう。しかし、

出来ればもう二度とオープンソースコミュニティとは関わりたくない

と思う程度には、嫌な思いをして来た。まぁそれは以前に、

「行かない理由」

としてちょっと書いているのだけど、その他に書いてないこともいっぱいある。クリスチャンなので当事者が謝りに来れば赦すけど、今の時点では謝罪もないし、そもそも悪いことをしたとも思ってないだろうから、永遠にそのままだろう。まぁ、逆のことを思ってる奴もいるだろうから、

お互い様

だとは思うが。

世間的に意味があるのは4だと思う。

実はもはやオープンソースには1ミリの興味もない。今まで度々他で書いていたように、

「オープンソース」はビジネスターム

である。ところが、もはや「オープンソース」は珍しくもなければ、特別なものでもない。ごく普通のライセンス形態の一つとなった。今やマイクロソフトまでがオープンソースだと言っている時代だ。そうなってしまうと、私のような者が「ビジネス」として関わる余地なぞ、ほとんどない。

大規模なものや金の関わるものであれば大企業が、小規模なもの高度なものであればもっと技術力のある人達がいる。つまり、オープンソースで何かやることは、今や

物量勝負

でしかない。金なり人なり技術なりを「いっぱい持っている人達」が有利だという、単純なルールになってしまった。かつてオープンソースでやったような、「プロプライエタリの隙を突く」みたいなゲームは、もやは存在しない。単に弱肉強食の序列が存在するだけ。「蟻が象を倒す」みたいなことはおよそ存在しない。もちろん0ではないと思うが、宝くじを買う気はない。

「フリーソフトウェア」はもっと純粋で単純だ。特に難しい戦略もなく、自分の作ったもので公開して良いものがあったら、その辺に放っておけばいい。これはかけるコストも少ないし、見返りを期待する必要もない。だから、

単なるライフスタイルの一つ

である。まぁ、久しくこれと言って公開したくなるものを作ってないのが残念なのだけど、出来たらそのうちやるだろう。

ついでだから書いとくと、このことは実は「1」と関係がある。私は「作ってしまったソフトウェア」には、それ程興味がないのだ。ソフトウェアが完成してしまうと、もはや私にとって「過去」に過ぎないからだ。オナニーのあとのティッシュに興味がないのと同じ。それでも、そのソフトウェアに価値があると思っている人にとっては価値があるのだろうから、「フリーソフトウェア」にして

差し上げて(copy left)しまう

わけだ。「オープンソースにして金にする」とは対極にある。

まぁそんなわけで、「生越さん、あの時はお世話になりました」と褒め称えられるか、「お礼に○○円あげます」みたいな会でない限り行こうとは思わないし、そんなものはどうせ葬式の時だろう。

PS.

八田さめが「それでも歴史はまとめておきたい」的なことを言ってたのだけど、そうなるとどうしても「2」に触れなければならなくなる。この「2」には個人的な不愉快だけではないことがいっぱいあるし、その「個人的な不愉快」のエビデンスとして当時のメールとか晒すことになるかも知れない。そうなると、

困ったことになる人

が大勢出て来てしまう。だからこそ、「俺にとっては黒歴史」ってことで黙ってしまいたいわけだ。

「歴史」と言うのは、視点の数だけ存在する。ある視点を肯定することで、他の視点を否定することもあるだろうし、否定された側は面白くないだろう。「公平に」と言うことであれば、その視点のものも併記することになるだろうが、それぞれがエビデンス出して来ると、傷つかなくても良い人達まで傷つくことになりかねない。そういったことを今さらやったところで、腹が膨れるわけでもない。

私がそういった活動をしていた間、JLAからはいかなる名目でも金は受け取ってない(交通費であっても)し、「みかじめ料」の類をもらったこともなく、給料と講演謝礼だけで活動していたことは、何度でも言っておく。「他の奴等」に来た「オイシイ話」とかも、無縁に過ごしていた。

g新部さんもごちゃごちゃ言ってたんだけど、g新部さんには申し訳ないのだが、「フリーソフトウェア運動」にも、今はそれ程興味がない。かつてと違って、世の中の諸々は

自分にとっては十分自由

で、それ程困ってるわけでもないので、「自分自身のやりたいこと」を優先しても困らないだろうと思っているから。私が求めているのは、あくまでも自分にとっての、

自由なhack

であって、それ以上でもそれ以下でもない。かつては、自分の求める自由が世間の提供している自由よりも大きかったので「戦う」必要があったのだが、今は戦う必要性をそれ程感じることもなくなった。もちろん時々イラっとすることがないわけでなく、近頃はハードウェアで感じることが増えて来てはいるのだけど(たとえばFPGA関係の主要なツールはプロプラばかりだし、ライセンス料も安くない)、避けて通っても困らない程度には、シェアがバラけている。かつての「MS vs Linux」みたいな問題はなさそうに見える。携帯用のSoCとか、確かに問題ないわけじゃないけど(RaspberryPiはその点で問題がある)、自分のドメインじゃない。Coretex Mシリーズあたりが今の私の主戦場なんで「他人のため」に戦うことになるし、そんなことには興味はない。

かつて、フリーソフトウェアでもオープンソースでも

貢献のハードル

は十分低かった。使うことそれ自体が特殊だったから、「使ってるんだ」と言うだけでも貢献だった。しかし、今はそんなことはない。「うちでは○○と言うフリーソフトウェアを使ってる」と言っても、「ふーん」でしかない。てか、今時そういったものと無縁の人っているんだろうか。

そんな中で、気楽に「貢献」するには、

ライフスタイルとしてのフリーソフトウェア

くらいだろうなと思ってるわけだ。誰も傷つけないし苦労もしない、良い「貢献」だと思う。

PS2.

結構重要なことを明示的に書くのを忘れていたのだけど、私がオープンソースに興味を感じないのは、もはやオープンソースであることそれ自体は

hackもイノベーションもない

からと言うのが一番大きい。

もちろんオープンソースになったソフトウェアには、hackもあればイノベーションもある。でも、それはプロプラにだってある。つまり、オープンソースであるという特殊性はなくなってしまったのだ。

そして残念なことに、オープンソースには「市場原理」が働く。hackやイノベーションがあっても、それだけでは価値がない。広く使われなければ、嬉しくないし、出来れば金になった方が続きやすい。

私が一種道楽のように「ライフスタイルとしてのフリーソフトウェア」と言っているのは、そういったオープンソースにありがちの市場原理に基く

不自由さ

から解放されることが出来るのが、「ライフスタイルとしてのフリーソフトウェア」だからだ。他人が使うかどうか、普及するかどうか、そんなこととは無関係に、自分の興味とモチベーションあるいは必要性のみでプログラムを書き散らす。そういう一種の

馬鹿げた行為

にhackやイノベーションの萌芽を感じるのだ。