だから、「COBOL」の問題じゃないってば

日経コンピュータの馬鹿がまた俺に喧嘩を売る気らしい。

[3]COBOL資産を守って、若者の可能性をつぶす愚

この手の話は既に何度も言ってるので、繰り返しにしかならないのだが、別に「COBOL」が悪いわけじゃない。

それはCOBOLのせいじゃない

COBOLは「負の遺産」なんかじゃない

言いたいことはこれらのエントリで言い尽しているのだが、問題は「COBOL」という言語にはない。ある程度歴史を持ってしまった汎用言語は全て同じ危険を持っている。

件のエントリでは「COBOL資産」はあたかも「負債」であるかのようなことを言われているのだが、それ自体は特に負債ではない。そもそも私は、

技術的負債

とかって言葉は嫌いだ。技術者の血と汗の塊を「負債」呼ばわりするなぞ、失礼の極みだ。

件のエントリで問題視するべきなのは、そこじゃない。てか、実のところ件のエントリはそこに触れているのに、力が足りない。

「COBOL資産」を「負債」化させる一番の原因、いや「COBOL」に限らず「COBOLer」の作品を負債にさせる原因は、

現に動いていることの過信

にある。現に問題なく動いているからそのままに放置され、リファクタリングも行なわれず、「棚卸し」もされない。その結果、いろんなことから取り残されて扱えないものになってしまう。実にそこである。

くどい繰り返しになるが、これは「実用になったコード」が常に孕んでいる問題だ。

「よくわからないけど動いているからそっとしておこう」

とかってのは、山盛りある経験だと思う。そして、胸に手を当てれば、いわゆる「レガシーコード」を作ってしまった根本の原因がそこだったよなぁ… とか思い起こす技術者は少なくないだろうし、「いや、違う」とか言う奴は自覚が足りない。

「志ある若者」は新しいものを好む。技術者であれば新しい技術を学びたがる。それは一種の本能みたいなものであって、あえて止めない限りはそうなるものだ。

ところが、「現に問題なく動いているからそっとしておけ」と言って、既存コードを単に補修するだけにしていたら、新しい技術もクソもない。「新しい技術」を学んだら使いたくなるのは、これも一種の本能みたいなものなのだが、それを止められてしまったら「可能性」が潰れてしまう。

「COBOL資産」を守ってしまうというのは、実にそこに問題があるわけで、「COBOL」が問題なわけでも、「COBOL資産」が問題なわけでもない。他の業界の人でもわかるように言ってしまえば、

新しい風

を入れないものは、いつの間にか「資産」も「人」も腐ってしまう。それだけのことである。

大事なことなので何度でも言っておく。問題の本質は「COBOL」にも「COBOL資産」にも「COBOL資産を守る」ことにもない。

技術的風通し

の問題である。まぁ、「COBOLを長く使わせて来た世界」は往々にして、そうなりやすい傾向にあることは否定しないが。

PS.

「引っ越し」ってのは、資産棚卸しのいい機会だ。この機会にいらないものを捨てるというのは、引っ越しを経験した人は誰でもそうだろう。ところが、「全部おまかせの引っ越し」をすると、何でもかんでもまるっと運ばれてしまう。楽だし、間違いもないし、今までと同じ生活が出来るのだけど、「いらないもの」を捨てる機会を失なってしまう。システムの単純移行って、往々にして「全部おまかせの引っ越し」になってしまう。