頼む側の論理頼まれる側の論理

伊東せんせの一連の話。

「本当に大切な相手にまじめに何かを頼みたいのなら、必ず万年筆全文自筆の手紙を記念切手でお送り等するのが人間として当たり前」

まー、読むまでもなく、想像に難くなく、ネガティブな反応が多いわけだが。

同じような経験を持っていれば、「ちょっと大袈裟だなぁ」と思いつつ、趣旨には非常にうなづくものがある。この辺の話は、昔も書いてる

出版社

実は以下の文章を書いてから↑のエントリを読んで「なんだ、同じこと書いてんじゃん」って自分で思ってしまったわけだが。

「万年筆全文自筆の手紙を記念切手で」と言うのは、確かに大袈裟なのではあるのだけど、依頼する側はそれなりの敬意とゆーか、配慮を持って欲しいと思う。こういったある意味

不遜

なことを思ったり言ったりするのは、言ってる本人としてもとても心苦しい。難しいことを言わずに、はいはいといい顔をして引き受けているのは、とても気が楽だ。実際、「依頼」が少ない時には自分でもそう思っていたし、そうしていた。

ところが、これも「依頼」がある程度までの話だ。自分の余暇の範囲で、あるいは自分の勉強の範囲で許容出来る範囲の「依頼」であれば、何の問題もない。喜んで引き受けていればいい。暇潰しでもあろうし、自己研鑽の機会でもあるし、顔を売る機会でもある。

ところが、ある閾値を越えてしまって、自分の本来業務を食うとか、自分が本来取るべき休息の時間まで使うとか、あるいは「持ち出し」が出て来ると、話は違って来る。非常に心苦しいが、

お断わり

をしなきゃけなくなる。そして、それでもさらに「依頼」が増えた時には「フィルタ」をかけてしまうことになる。伊東せんせの場合はそれが「万年筆全文自筆の手紙を記念切手で」になるということだろう。

こういった「依頼」というのは、たいていは自分の本来の業務の外だ。自分の自由時間の範囲であれば、それは何に使おうと自由なのだけど、それを越えて自分の自由時間の範囲を越えてしまった場合、いきなり

損得

を考えなければいけなくなる。

サラリーマンでもわかる範囲で言えば、「依頼」が「有給休暇」の範囲であれば、多少多くても我慢の範囲だ。アシさえ出なければ、まぁいくらでも引き受けていい。でも、その「有給休暇」を越えてしまったらどうなるだろう。もらえるギャラとか謝礼が、欠勤で給料カットされる部分を越えていれば、まぁ引き受けてもいい。でも、ノーギャラとかボランティアの類になってしまったらどうなるか。

あるいはそれが、「自己投資」と思えるようなこと、あるいは「自分で金出しても」と思えるようなことであれば、「欠勤」でもいいかも知れない。でも、そういった「依頼」が増えて来ると、そういった納得の仕方が出来ない種類の「依頼」も増えて来る。つまり、

気乗りがしない上に得にならない

ことまでしなければいけなくなるのだ。

こう言った、一種「キレた」ようなフィルタと言うのは、実は「依頼」を誠実に引き受けている人程なりやすいのではないかと思う(実際伊東せんせは@には誠実に返事をする人だ)。自分の経験でも、「依頼」があったので一生懸命準備したり対応してたりしたら、

「やっぱりいいです」

とか軽く言って来る人は少なくなかった。引き受けている方は誠実に対応しているのに、依頼する方の気持ちの軽いこと。そういったのは、何回かに一回というくらいの高頻度で起きる。そういったのを何度か受けていると、

「頼む方も覚悟して来いや」

と言いたくなってもおかしくない。

断わる方は「どうせあちこちで同じ話してるんだろ」とか思ってるフシがあるのだけど(実際、他と同じ話でいいんで安くとか言って来る依頼者もあった)、「誠実」に対応すればそういうわけには行かない。「依頼」の度に準備をする。「もしかして前と同じ人が来ているかも知れない(たまにある)」とか思うと、同じ話なんて出来るわけがない。となると、そういった「やっぱりいいです」の準備は、たいていムダになる。

ギャラや謝礼の類もそうで、自分のいろんな単価と比べて安くなって来ると、元々の自分の顧客に対して申し訳なくなって来る。たとえば、「1人月100万円」の人を1日拘束すれば、5万円だ。ところが、高々1時間程度の講演会とかで5万円は「破格」なのだ。1時間の講演会であっても、準備や移動とか考えれば、1日やそこらはかかるわけだけど、講演者としては素人の隣りの人に、そんなに高いギャラや謝礼は払えない。つまり、「正価」を払ってる客から見ると、

「なんでよそで安く働いてるの?」

ってことになるのだ。

まぁそういった「細かい」ことはどうでもいい。ただ、「依頼」はある程度を越えると突然引き受けることが難しいことになってしまい、「原価」とかを計算しなきゃいけないものになってしまう。そして、誠実に対応すればする程、そのストレスは大きくなるということは、「頼む側」の人は理解しておいていい。

逆にまぁ、ある程度暇になって来ると(つまり閾値よりも頻度が下がると)、「たまにはそんな話来ないかな」とか思ってしまうワガママもあったりするのだけど、それについてはまた別の機会に覚えていたら。ただ、

「偉い俺様に依頼するんだったら、それくらいしろよ」

という意味で言っているわけではないこと、またそういったことを言う人は往々にして対応が誠実で、過剰なくらい手間をかけているんだということは、わかって欲しいなと思う。特に「講演」の類が本業でない人は、時間や手間のやりくり上、ある閾値を越えてしまうとこういったことを言わなければならなくなってしまうものなのだ。

PS.

意地悪なことをつけ加えると、こういったことを言いたくなるような不誠実な依頼者は、

いいことしてる系団体

に多かった。簡単に言えば、「我々はいいことをしているのだから、お前も協力させてやる。協力しろ」という感じなのだ。市民運動とか学会、あるいはFLOSSの勉強会。そういったところに多い。

個人的にそういったもの自体、そうそう嫌いではなかったのだけど、全てに賛同出来るわけでもないし、全てに協力出来るわけでもない。私には私の活動や仕事や考えがあるわけで、優先度としては本来そっちの方が高いはずなのだ。また、動けばコストがかかるのだ。ある閾値を越えると、勘弁して欲しくなるのだ。

と言えば、私がLinux協会の会長やってた時、こういったことを減らすために、講師として派遣した時には、ギャラや謝礼を補填する制度があった。それが十分であったか知らないが、いくらかはマシであっただろう。

割と他人事チックに言っているのは、私はその制度は使わなかったから。それでなくても金を集めていることにgdgd言う奴が多かったんで、「俺の懐には1円も入れてない」と言えるようにしておくためだ。