そろそろ「一つになる」ことは悪習ってことにしないか?

拾って来た画像。

文章を読むといろいろ酷い。まぁまずはリンク先を読んで欲しい。

これを読んで「酷い」と思わなかった人は、このエントリは用がないので、ここでお帰りになることをお勧めする。

どうも、「出席率100%」を目指して、クラスが「一つに」なったらしい。こう書くと、いかにも美談に思えるのだが、ここに書かれていることを読めば、

恐しい程の同調圧力

を感じないではいられない。

個人的に「皆勤賞」の類を目指すことは、そんなに悪いことではないと思う。自分で健康を管理し、スケジュールを管理して皆勤を目指す。これは別に誰も困らない。途中で「何もそこまでして」と思えば、自分の意思でやめることが出来る。

しかし、「クラス全員」にそれを求めるのは無理だ。

いくら健康管理に気をつけたところで、病気や事故の類を0にすることは不可能だと言っていい。いや、それが不可能だという前提に立ってリスク管理をするべきだ。どうせ人間なんて不完全なもの。件の「通信」にも、病気になった人のこととか出て来ている。

ところが、「病気になった人」にも出席を求めている。それも、1円の足しにもならない、個人的な研鑽にもならない、「出席率100%」のために、40度の熱があって点滴受けてるような奴まで出席させている。

これを同調圧力の暴力と言わずして、何と呼べばいい?

個人的に「皆勤賞」を目指すのは、1円の足しにもならないかも知れないけれど、個人的な研鑽になる。それは評価されてもいい。しかし、「クラスの誰かが病気になる」というのは、別の人から見れば単なる他人事に過ぎない。「出席率100%」を目指すことそれ自体、何のプラスにもならない。

たとえば結果的に「そう言えば、出席率100%だったんだよ」ということがあれば、それはみんなで「良くやったね」と喜べばいいと思う。みんな元気で毎日学校に来れるとか、それはそれでいいことには違いはない。しかし、それが

自己目的化

するところに問題がある。

特定の目的を持って集まった集団でない限り、そこにいる人々のスペックや価値観はまちまちだ。体力のある人もいれば、ない人もいる。学校に毎日行くことに価値があると思ってる人もいれば、そうでない人もいる。そういった多様性を無視して、「一つになる」ことを求めるのは

社畜予備校

的なものを感じてしまうのは、「汚れた大人」になってしまったからだろうか。

もちろんこれは「協力する」ことを否定しているわけではない。でも、「協力する」ことが目的化して、単なる同調圧力になってしまうのではないかということに、危険なものを感じる。

価値観の極端な多様化が良いかどうかは疑問ではあるが、だからと言って「一つになる」ことが目的化したり、過度な同調圧力になってしまったりするのは、日本の悪習ではないかと思うのだけど。