もっともだと思うんだがね、
でも、それは@dankogaiが「賢者」だってだけだ。
昔から、
愚者は聖人の言葉にも学ばず
賢者は風の音にも悟る
ということを思ってる(もしかしたら誰かの言葉かも知れないけど、オリジナルは知らない)。だから最初から罵倒しに来るような奴であっても、「ああ、何か罵倒したくなるものがあるのだろう」ということに思いを巡らせるし自分の意見に合わない奴の言うことであっても、
少なくともそれは1つの意見
として聞くことにしている。それが「賢者」になる道だと。
でも、「昔から」と言いつつ、そんなことがわかったのは比較的最近だ。少なくとも学生の頃じゃない。社会に出て、自分より若い奴からも学ばなきゃいけなくなった時、自分が「それは自分の専門ではない」と思っていることまで、必要なスキルになった時。そういったことの繰り返しの結果、
今の自分以外は全てが師
と思えるようになったのだ。自分の「専門性」で勝負がつかない、単純な年齢の序列で勝負がつかなくなるまで、多分なかなかそれには気がつかないし、痛感することもない。ましてや「愚者」ともなれば永遠にわからんかも知れん。
だから、内田せんせの「第二」
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
の前半は、「森羅万象、過去の自分も含めて全て」がそうだと言わなきゃいけなかっただろうし、「教えてくれる」は受動的な意味ではなくて、
学び取る
ことでなければいけないわけだ。
だいたい、社会に出たらタダで何かを教えてもらうなんてチャンスはなかなかなくって、それをして来る人はたいてい詐欺師だ。でも、「学び取る」ことは勝手にやることなんだから、うまくやれば
タダ
なんだよ。「中学二年生」に教えてやるべきはまさにそこで、
タダでいろいろ教えてもらえるのは今のうちだけ
だと思えば、「学び取る」能力の大切さ、今嫌々でも「教えてもらえる」ということのありがたさってのが、わかる子はわかるし、わからない子には「教えてやる」べきだ。
と、34回目の中学二年生が言ってみる。