「ボランティア」の実用性

私のタダ働き業界歴は長い。

ボランティアが被災者の自立を阻害する?!~震災5ヵ月後のボランティアのあり方を問う

こんなネタもかれこれもう30年以上前からある。当時、自分なりに出した答えは、

ボランティアはすぐ実用になることはするな

だった。

人には「善行欲」「行動欲」があるものらしい。誰か困っている人がいると助けたくなるし、何かしなきゃいけないと思ったら行動したくなるし、正しいと思ったことには貢献したくなる。災害があれば何かしたくなるのも、フジテレビが妙なことをやったと言って凸したくなるのも、実は同根だ。人間は、

良いと思うことを行い貢献したい

というのは、かなり優先度の高い欲求のようだ。どうやらそれは、金銭とか名誉とかの欲よりも本能的な欲でもある。それは自分の状況が悪くて、人助けどころじゃない状態であってもそうだし、世間でどう思われていようと、自分が正しいと思ったら何かしたいと思う。そういったものだ。前はこれは日本人独特のものかと思っていたら、震災の時にその日の飯も満足に食えない人達までもが、「日本に貢献出来ないか」って話をしてたってことを聞いてから、どうも人類共通のものなんだなと感じた。

金銭とか名誉とかの欲は、もうちょっと理性的というか計算の上だ。しばらく考えてから、「欲しい」と思うもののようだ。多分それは「貢献欲」の類はすぐに「(心理学的)報酬」が得られるのに、金銭欲や名誉欲はなかなか「報酬」が得られないということと関係があるのかも知れない。その辺のメカニズムは識者に。まぁ事実として、普通は

貢献欲 >> 金銭欲

なもののようだ。世の中、いかにも我欲の強い人が多いように見えるけれど、彼等はうまく貢献欲をコントロールしていると思った方がいい。

若者は欲のコントロールが下手くそだ。だから、早く「報酬」が得られる欲を優先する。「ボランティア」はその点は実にうまく出来ている。「感謝の言葉」なんてゆー金銭的な価値はほぼ0に近い「報酬」であっても満足出来る。

そんなわけで、目の前に何かあると、つい「ボランティア」をしたくなるのが人間の性なのだ。理性的な人は「そんなことしてる場合じゃないし」「そんなことしてたら俺の生活が」とか計算するから抑えられるというだけだ。災害時に直接あわなかった人が「何も貢献出来なかったことによる精神障害」になってしまうとか、この辺のことと表裏を成している。だから、実は「ボランティア」というのは、「崇高な精神」と言うよりは、

欲求に正直

だと思って見ておいた方がいくらいだ。もちろん、「ボランティア」にも「技能」があって、それらを習得するのは容易ではないし、「ボランティア団体」は組織だから政治や経済が存在するから、ある程度専門性のある「ボランティア」を続けるのは大変なのだけど、「夏休み暇だしバイトもないんで、瓦礫の片付けに行きまーす」程度なものは、

ヤリたいからヤってる

のと本質的に変わりはない。なお、この文脈の「ヤル」は、もちろん「セックス」のそれにかけてある。「その程度のものだから価値がない」というのではなくて、それを価値転換するのがリーダーになる人の働きなのだけど。

まぁそんなわけで、件のエントリみたいなことになる。

この問題は私が学生の頃に既に言い古されていた話だから、私が把握してるだけでも40年くらい歴史のあるネタなんだろう。私は学生時代に手話通訳やったり、車椅子介助やったりしてたのだけど、施設関係者や福祉関係者からは「ボランティアさんが頑張ってくれるのは助かるんだけど、そのせいで必要な常勤者の予算が出ないんだよねー」という恨み節はよく聞いたものだ。逆に、ボランティアやってる奴等からすれば、「俺達手弁当で来てるのに、職員は休日出勤の手当出てるんだぜ」的なものもあった。つまり、

本来有償労働が必要なところにボランティアが来ると、
双方に不都合が生じる

ものなのだ。現場よりも高いレベルから見ると、「ボランティアがタダ働きしてくれるお陰で安くついていいわー」ってことになるのだけど、それはやっぱり何か違う。実際「ボランティア使えばいい」とか言って予算を削られている現場を見ると、

ボランティア有害説

が出て来るのも何ら不思議じゃないし、実際にあった。

まぁ、「ボランティア」の問題ってのは、昔も今もだいたい似たようなものが続いてて、私のように今はほとんど活動停止してる者の常識がいまだに通用してしまったりして、なかなか困ったものだと思うのだけど、その辺は追い追い機会があれば書くことにする。

で、最初の話に戻るのだけど、これはまさしく「ボランティア」による労働不当廉売の問題だ。

無償の善意(ボランティア)に支配されて、私たち(被災者)の出る幕がありません。
復興作業ならボランティアではなく、
時給600円でもいいから地元の失業者を使ってほしい。

ってのは、本当に心の声だろう。そして、その「時給600円」を潰しているのは他ならぬ「善意のボランティア」のせいだってのは、揺らぎない事実だ。この話の範囲では、まさしく

ボランティアは有害

なのだ。誰かを助けているようで、単に自分の貢献欲を満たしているだけに過ぎず、金を出す側はいい具合に節約出来ている。現場は環境改善されないどころか、「節約」されてしまっている。絵に描いたような「有害ボランティア」なのだ。

現地で動ける人がいない時、外から労働力を提供することは良いことだ。それが有償労働であれ無償労働であれ、それが労働力であることに変わりはないし、その労働力は価値がある。しかし、現地で動ける人がいるなら、外から提供するべき労働力はあくまでも「不足分」だけでなければ、現地の

労働市場

を破壊する。外部から注入される労働力が増えれば、それが有償のものであれ無償のものであれ、労働人口が過剰になり、労働市場が破壊される。それは「災害」とか「ボランティア」というデリケートな問題を抜きにしても明白なことだ。

だから、「外からの援助」は有償でも無償でも、必要最低限とゆーか不足分だけに留められるべきであり、労働力は「地産地消」を旨とするのが、「被災地の自立」には必要のことだ。

もちろん「専門家」は常に不足気味になる傾向にあるので、そういったものは外部から注入されていい。「ボランティア」だって専門性のある人はいまだ需要があるだろう。でも、「単純労働」はもはやいらない。

同じようなことに気がついた30年前、私(達)は何をすることを選んだか。それは、自分達の「貢献欲」を抑えることじゃない。何をしたかと言えば、

直接役に立たないこと

をすることにした。「福祉業界」の人達がやりたくても出来ないこと、立場上出来ないことをすることにしたのだ。簡単に言えば、

遊ぶ

だけのことで、「職員」の類の労働を代替するものをしなくなった。

当時は婦人会とか(女子)高校生とかが「施設でタオルを畳む」みたいな「ボランティア」をやっていたのだけど、それらには反対をしていた。「施設でタオルを畳む」ことは、本来職員がするべき労働で、それで職員の手が取られて大変であれば、増員圧力にすればいい。「ボランティア」が補完してしまっては、「労働現場」としての改善はなくなる。

我々が「やる」ことにしていたのは、「みんなと遊ぶ」とか「外に連れ出す」とか、あるいは

エロ映画を見せる

といったようなことだ。これらはみな「人間」としては必要でありながら、なかなか予算化されない。あるいは職員の立場上難しい。また、「福祉行政」や「福祉施設」が提供するべきものとはちょっと違う。でも、やっぱり人間が人間らしく生きて行くには不可欠なものだ。

もちろんそんなことばかりをやってるわけにも行かず、いわゆる「代替労働力」としての「ボランティア」を求められることも少なからずあった。でもそこは

バイト代

を要求した。セコいようだが、それを求めることが、長期的に見れば「現場」のためであるし、自分達の活動(何せ手弁当だ)を継続させる元だからだ。

そーいやー、広島で外出介助で「バイト代」を少なからずらったんだけど、そいつがトロい(松葉杖だからしょうがない)もんだから新幹線に遅れてしまって、タクシー使ったんで「バイト代」が全部消えたとかあったなぁ。それだって「バイト代」をもらってたから出来たことで、妙に「崇高なボランティア様」をやってたら、どうやって帰ったものやら。

そういったことから考えれば、「被災地」に行く「ボランティア」がして良いことと悪いことはわかって来ると思う。個々の「ボランティア」は素人だから、何をやって良いかわからない。でも、「リーダー」はそういったことをよく考えて、

労働力の不当廉売

ではない「貢献」をするように指導するべきだ。なーに、「人間が生きる上で必要で、かつ有償労働ではカバー出来ないこと」なんてのは、いくらでもある。