根本家の正月飾り

〜秋田佐竹氏と水戸徳川家〜

 関東の清流、那珂川の下流域、水戸の台地の対岸に位置する河岸段丘の大地、茨城県那珂郡那珂町木の倉に住む根本一族が正月飾りを飾らなくなって久しい。

父からの伝聞である。

 ある年の、いや毎年のことだが、父は正月を前にしてひどく忙しかった。一夜飾りになるのを嫌って、正月の飾りを父は除夜の鐘をきき、年が改まってから飾った。
 その年は、いままで飾ったことのない門松の代わりにしゃれて松の枝に輪飾りをあしらった自製の正月飾りを玄関前に一対立てて置いた。
 元旦、昼近くなって、本家から年賀の挨拶の返礼が来た。その折、根本の家は正月飾りを飾らないものだと諭されたのである。
 父は武士から帰農したあとの貧困の所為かと感じたそうである。

 水戸佐竹氏の家臣であった根本一族は君主と共に関ケ原の合戦で徳川に敵対した。敗軍の将となった佐竹氏は、秋田に領地替えとなり代わりに一ツ橋家が水戸の領主となった。佐竹の殿様は想像されるよりはるかに小人数、つまりは家族と近習を従えただけのごくわずかの者たちと秋田の地に赴いたという。
 水戸城にあった家臣たちは、あるものは新たに仕官したが、忠臣根本一族は後台(五台)の台地、木の倉に農業をして生計を立てた。帰農したとはいえ、元武士である。江戸期には根本の集落の庄屋は麻の紋付きの着用と帯刀も許されたという。

 最近になって一つの文書が発見された。佐竹の殿様が水戸の地に送った密使、あるいは間者の報告をしるしたという古文書であった。


 慣れぬ秋田の地の殿様は、水戸に残してきた多くの家臣たちがどのような暮らしぶりをしているのか大変気にかけていた。そしてついに腹心の者に水戸の地へ赴き様子を見てまいれと下知をしたのである。

 古文書はその報告をしるしたものであった。

「家臣であったものどもは水戸の台地を見据える台地で農業を営んで生計を立てております。殿様の無念を思い、正月飾りも飾らずにひっそりと暮らしております。云々。」
 その報告を聞いた殿様は家臣の忠義を感じ、無事に暮らしていることを知ってことのほか安心なさったそうである。

 それ以来、那珂町東木の倉の根本一族の家々は正月飾りを飾っていないというわけである。


 那珂町東木の倉地区にある吉田神社には参道の入り口の御影石の鳥居とお堂がありますが、その南側に小さな小さな石の祠があります。水戸徳川家によって作られた吉田神社よりも根本家の守り神は小さな祠の方が本物であると私は伝え聞いています。吉田神社では今年もコブシの古木が毎年花をつけていました。

この話は父との雑談で出たもので、文中の「古文書」や「吉田神社」の正確なお話しを知っている方、ぜひ、お知らせください。


蛇足1

一説によると水戸・仙台・名古屋は3大ブスの産地なんだそうである。水戸の美人をのこらず佐竹の殿様が秋田に連れていってしまったので、秋田は秋田美人の産地となったというもっともらしい話だ。実際は上記のように水戸の美人を引き連れて秋田の地へ行く余裕すら無かったのわけで、秋田美人は秋田オリジナルでしょう。強いて推察すれば桜田門外の変、天狗党書生党の乱以降、水戸の知識人の受難の所為で知的な資産を失ったためかもしれません。あくまでも私個人の邪推ですが。
 申し添えれば、水戸も仙台も名古屋も美しい女性たちがたくさんいらっしゃると私は知っています。

蛇足2

 実は徳川様の末裔と私は同じ小中、大学に通っていました。一つ上の先輩で中学では同じクラブ活動をしていました。仲間内からは「とくちん」と呼ばれていたんです。話題の徳川慶喜から直系5代目でしょうか。世が世なら私は徳川様にひれ伏して主君の恨みを反芻していたかもしれません。徳川先輩にはいろいろな場面でお世話になりました。中学では「工作クラブ」で名札投げの技を教えていただいたり(なんじゃそりゃ)、大学では週末に徳川さんのCB125Tを貸していただいたり。少年期の私にとってほんとうに心の広い先輩でした。gooで検索してみたらば今は水戸の徳川慶喜記念館の理事としても名を連ねていらっしゃいました。ご活躍のご様子。どうぞますますご活躍ください。

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