未成年の禁酒・禁煙法の父、根本正の生涯

お酒は20歳になってからはいかにして成立したのか

by Tadashi Nemoto
based on the story by Dr. Jyneji Khato
Ver. 2001.04.03


根本正(ねもとしょう:1851-1933)ってだれ?

〜前書きに代えて〜

 根本正(ねもとしょう)と聞いてもまず誰も知らないでしょう。根本正その人は、近代日本の歴史のなかで奮闘した実在の代議士です。それも終生一人の選挙違反者も出さず、晩年に金権候補に破れ落選をすると、「落選を感謝す」というリーフレットを有権者に配ってその政治家としての歴史を自ら潔く閉じた硬骨漢です。

 政治家が目先の権益ではなく、真の日本の未来を考えていたころの根本正という人物は、今日すでに誰からも忘れ去られているものとばかり思っていました。しかし、最近になって彼を再評価する動きがあることを知りました。  筆者も那珂町木倉集落の根本の一員、根本正の縁者ですので、幼時より正にまつわる話をお伽話のように聞いて育ちました。

 さて、根本正と言う人物にもどりましょう。彼は江戸から昭和のまさに激動の時代を生きました。どんなことを成し遂げた人かというと...


 それぞれおもしろいエピソードです。まるで大河ドラマを見るような波乱に満ちた根本正の人生を紹介したくてこれを書きました。

 正の常日頃のせりふが 「この世からガンとボットルをなくさなければいけない...」  つまり、世のなかかから拳銃と酒ビンをなくさなければいけない、というものでした。飲酒癖のある筆者には辛いことですが、現代ほど麻薬や覚醒剤の氾濫する時代ではなかった当時、銃と酒が世界的な悪の根源と思えたのでしょう。彼は日本のことだけでなく世界のことを考えていたのです。敬虔なクリスチャンとしても知られていました。そのためにヘボン式ローマ字を考案した宣教医ヘップバーンとも交流があったのですね。


加藤純二版「根本正伝」について


 仙台市にお住まいの内科医でアルコール依存症の診療を行っていらっしゃる加藤純二先生(医学博士)はふと考えたそうです。未成年の禁酒を定めた法律はどうやってできたのだろうか。先生は行動を開始しました。そこで出会ったのが国会の黎明期の衆議院議員根本正の人生だったのです。

 診療の合間を縫って地道な取材を続け、根本正伝を出版されました。真の労作、現在もっともまとまった根本正の伝記といえます。また、この電子版正伝作成に際しましては先生のご好意により、加藤版根本正伝おおいに参考にさせていただき、一部利用させていただきました。

加藤純二先生連絡先:加藤内科医院 
 983 仙台市宮城野区宮千代1-2-9
(こちらで加藤純二版根本正伝が手に入ります。)


ジャイアントケルプ版「根本正」伝


誕生


 根本正は、五台村東木倉(ごだいむらひがしきのくら)の農民の子として生まれた。現在の茨城県那珂郡那珂町東木倉(なかぐんなかまちひがしきのくら)である。今でも東木倉集落の多くは根本姓であり、同姓24軒のコミュニティを形成している。木倉の根本集落は本坪と向こう坪と呼ばれる2つの台地にまたがり、江戸時代より続く農業地域になっている。この台地の歴史は古く、縄文期から続く豊穰な土地で畑地からは縄文土器が出土し、台地の森には古墳を見ることができることから人の営みの歴史の永さを知ることが出来る。

 那珂町は現在では水戸市のベッドタウンとして開発が進み、根本一族ほか一徹な一族によって守られている木倉地域だけがかろうじて美しい緑を残しているにすぎない。

 根本正(ねもとしょう)を語る前に、この根本一族について簡単に記しておこう。
 木倉の根本家は、奈良時代、曽我入鹿を討ったことで有名な藤原氏に源を発し、現在の当主は藤原鎌足より三十六代目にあたる根本喜代寿(ねもときよじゅ)氏である。  実を申せば、本編の主人公、根本正は筆者の父の大伯父にあたる。しがたって甚だややこしいのだが、筆者も藤原鎌足公から三十六代目であることになる。
 過去帳によれば喜代寿氏より正確に十六世代を遡ることができる。根本家直接の始祖となるは藤原栄基(ふじわらのえいき)、またの名を根本市衛門(ねもといちえもん)といった。この根本氏、もともとは水戸を治めた佐竹氏の家臣を代々勤めていたのだったが、佐竹氏が関ケ原の合戦で豊臣方に加勢した為、秋田に移封の沙汰となったのを期に武士をやめ、帰農して現在に至っている。実際、家臣であった地侍の多くは帰農したのだという。主人の無念を思い、今でも華やかに正月の飾りを飾らないのが根本家のしきたりとなっている。今の世、佐竹の殿様の直系の方はこの律儀な一族をどう思われるだろう。

 話を根本正にもどそう。江戸終期、正の父になる男、徳孝(とくこう)はその木倉で庄屋をしていた。今や一介の農民ではあったが、もともとは佐竹氏の家臣の家柄、加えて温厚篤実な人柄、公明正大なる態度と裁き、後ろめたいことをするのが大嫌いという傑物であったため、水戸徳川家には大変信用されていたという。将軍が上洛のおりには必ずお共を仰せ付かり、水戸徳川家から苗字帯刀、麻裃(あさかみしも)の着用を許されるほどであった。その家に長男東之助に続く次男坊として、嘉永四年(1851年)10月9日に正は生まれた。

 幼いころの正は、近隣では中々の学者であったといわれる祖父、半次衛門(はんじえもん)に読み書きを習った。この老人、背が低くて近所では「三尺じいさん」と呼ばれていた。三尺じいさんの娘、つまり正の母は「はや」の娘婿である徳孝、さらにその徳孝の母は久慈郡坂野上村(くじぐんさかのうえむら)の農家豊田家から嫁した女性であった。豊田家は後に武士として任用され彰考館総裁となる豊田天功(とよだてんこう)を輩出して正の人生にからんで来る。

 万延元年(1860年)、9才で正は近くの神主の佐川伊予之介(さがわいよのすけ)の主催する塾に入った。水戸の地とは切っても切れない桜田門外の変の年である。3月に江戸で水戸藩士浪士が起こした大老、井伊直弼殺害事件その知らせを幼い正は遠いものとして聞いたとは思えない。村内では水戸藩浪士の凶行の話題で騒然としたはずである。

 当時は時計など無いから佐川塾では線香を一本たてて、それが燃え尽きるまでが一コマであった。
「四書・五経などを何だかわけのわからんものを読むんであります」
と、後年正は語った。

 神主のもとでひととおり学ぶと、正はもっと進んだ学問を広く勉強したくなった。このころまでに正の内面には江戸の名君、二代水戸藩主、水戸光圀公(義公、水戸黄門)と九代斉昭(なりあき)公(烈公)の考え方が染み込んでいった。斉昭は安政の大獄により水戸で蟄居していたが、この年の8月に没した。
 水戸の義公と徳川斉昭公は水戸徳川の傑出した名君であったことは読者も異論がなかろう。水戸藩九代藩主、徳川斉昭は尊皇攘夷を強く掲げて藩政改革と軍備の増強を強力にすすめた「烈しい」藩主だったので烈公と呼ばれているのだが、藩内にハイテク製鉄炉である反射炉を設け、戦車を開発、配備し、太平洋を監視する組織をつくり、即時応戦できるよう農民、漁民を軍事訓練した。また農民教育のために郷校(ごうこう)を設け、勉学の志あるものはだれでも出席を許した。このように文武両道を強く進めた名君であったが、天狗党、書(諸)生党の戦いのように期せずして血で血をあらう抗争の下地を作ってしまったとも言える。その烈公の子が江戸幕府最後の将軍、慶喜である。

 「こんな田舎にばかりくすぶっていては...」
 強く願うようになった正は家督を継げぬ二男でもあった。


文教の地、水戸へ


天功と東湖

 正は13才で佐川塾を離れ、父のいとこであった彰考館の総裁豊田天功を頼って水戸に出た。豊田天功は農民の出であったがその高い能力と人望から水戸徳川家から武士として取り立てられていたのである。
 水戸は文字通り水戸学の中心地であり、当時の日本で最も進んだ英知を終結していた文教の地の一つであった。少年、正は水戸学の学府、彰考館の総裁の家である豊田家に下僕として住み込んだのであった。正の労働と勉学の日々の始まりだった。

 当時の水戸藩では、藤田東湖(ふじたとうこ)が水戸の名君、藩主斉昭の参謀総長だとすれば、豊田天功は対外政策担当参謀といった感があった。二人とも藤田幽谷(ふじたゆうこく)を祖とする水戸学の俊英であった。正は終生、この藤田東湖を尊敬していたと言われる。
 彰校館では2代藩主光圀公が始めた大事業、「大日本史」の編纂を進めていた。桜田門の一件以来、天狗党と書生党(水戸藩軍)の反目が顕著になっていた時期である。日本全体が揺れる、開国と明治維新の胎動の時代であった。

 伝え聞くところによると住み込みの下僕であるはずの正は弘道館(水戸藩の藩校)での聴講すら許されたようである。その場に飛び込めばチャンスはある、正はあくまで行動的であった。正は天功が亡くなり、その息子、小太郎が暗殺されて没するまでの4年間を豊田家での勉学と労働で過ごした。

    
(註)藤田東湖は大酒飲みの大男で藤田幽谷の息子である。さっぱりとした明るい性格でよく人を笑わせ、妙手を打ち、駆け引きがうまかっただけでなく、剣術の腕前もすばらしかった。戸田蓬軒(とだほうけん)とともに水戸の両田と呼ばれた。東湖の弟子でよく蟄居中の東湖に酒を差し入れた、これまた負けずの大酒呑みの男、桜任蔵(さくらにんぞう)は後に根本正のかけがえの無い伴侶となる徳子(とくこ)の祖父であった。

 正は書き残している。

 当時私は拾三歳でしたが、向こうは士族、私は百姓で下僕、即ちいわば家来で、家来というものは下駄をはくことが出来ない。雨が降ってもお共をするときは草鞋で歩かなくてはならん。また向こうから士族が来れば、こっちは草履を脱いでお辞儀をしなければならん、というように、非常に上下の違った時代で、今考えると、中々苦しいことは多かったのであります。

 粛正により天狗党が水戸藩内の要職から一掃され、天狗党派閥であった正の主、豊田小太郎は京都日蓮宗本國寺にて暗殺されてしまった。やむなく正は豊田家を離れることになる。それでも正の学んだ水戸学が後にキリスト教徒となってからも脈々と息づき、彼の行動規範となっていたことは、終生、弘道館記の拓本を掲げていたことからも伺い知れる。このころの正の望みは多くを学んで立派な人となり、豊田天功のように武士として取り立てられたいということであった。しかし、時の社会は維新への大変動を迎えていたのである。かくありたいと願うその姿は社会体制ごと無くなってしまったのだ。頼りを失った正は水戸藩南御郡方(ごこおりがた)へ勤めその糊口を養った。それでも17才の彼の旺盛な向学心は健在だった。

   
(註)弘道館記は水戸の弘道館の八卦堂に納められています。徳川斉昭作。草案は藤田東湖。

 明治元年(1868年)正は、当時の水戸藩主であった徳川昭武(あきたけ)が前年に行った欧州巡歴に同行していた東御郡奉行所の役人、服部潤次郎に洋行土産の懐中時計とマッチを見せられる。
 なにやら精密な機械が時を刻む。また、木切れをすると瞬時に火がつく。これはテクノショックであった。いったいだれがこういう物を作るのかと訊ねた彼は、それが西洋人であると知らされる。若い正は直観的に将来は機械文明となろう、そのためには進んだ科学文明をもつ西洋を知らねばならない、と悟った。そしてそれにはまず横文字を習わねばならない、と。

   
(註)筆者が茨城大学附属小の生徒だった時、ある日の朝礼で、当時の校長先生が正を「時計とマッチを見て偉くなった人」として全校生徒の前で紹介されていたことを覚えています。子供心に嬉しかったことが思いだされます。また、徳川慶喜直系の現、水戸徳川家ご当主は小学、中学、大学の一つ先輩でしたので同じ日に同じ訓話を聞いたわけですね。

 正は幸いにも水戸の大工町に住んでいた西宮という医師が英語を知っているというので英語を習い始めた。当時は大政奉還を迎え、天狗党と会津藩の残党狩りが熾烈をきわめていた。刎首(打ち首)、さらし首、逆さ磔などの残虐な刑が連日執行されていた。

 親幕派の水戸藩家老市川三左衛門(いちかわさんざえもん)は尊皇攘夷派に逆さ磔にされたが、彼は尊攘派武田耕雲斎(たけだこううんさい)のたった2歳の息子の首を刎ねた首謀者であった。その耕雲斎の孫で天狗党の中心人物のひとりであった武田金次郎は復讐を誓って書生党の暗殺を繰り返した。殺人鬼金次郎は穏健派の有能な人材まで斬り殺して回ったのだ。こうして、水戸藩は明治維新の原動力となりながらも、明治で活躍すべき人材をほとんど失ってしまった。名君烈公斉昭最大の失策であった。

吉田神社

 木倉の根本一党の氏神様、現存する吉田神社は木造、瓦ぶきの小振りで質素な社殿の境内である。木倉の民家の中心部からやや東、畑地に面したところに建っている。正の生家から歩いて3分程の距離であろうか。
 境内には樹齢200年のコブシと300年は有ると言われているツバキの古木がいまも生き延びている。根本一族の氏神様ではあるが、徳川幕府が押し付けた社殿であるとも伝えられている。その南に御影石製の小さな祠がある。この吉田神社には根本一族でももう一部の人間しか知らない秘密があるのだが、それをここで公開してしまうことは避けることをお許し願いたい。歴史を大切に伝える者達の心に免じて。

 正は嘆息した。
 「天狗党だ、諸生党だといって、国の未来を考える人が次々と死んでいく。これが政治対立の結末だというのか...」
 慄然とした思いを感ずる正は20歳の青年となっていた。水戸ではもはや学ぶべき人はいなくなってしまった。正は職と故郷を捨てる決心をし、独り密かに氏神様に詣でて決意の報告と両親へのわびとをしたのだった。

 心は決まった、もう迷うことはない。

 吉田神社を背にした正の目ははればれと輝いていた。


人力車夫で学費をかせぐ

出奔

 明治4年、二十歳になった正は職と故郷を捨て東京へと向かった。家出である。彼は陸前浜街道の途中で髷を切り捨て自らの過去と決別した。東京でも少ないつてをたよって貧しい暮しをしながら勉学にはげみ始めた正であった。殊に語学に力を注いだことは言うまでもない。

 大坂の緒方洪庵(おがたこうあん)の適々斎塾出身の俊英、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の塾では、数語の英単語の意味を教わるのに一日がかりであった。箕作秋坪とは黒船来航以来、幕府の外交交渉に手腕を発揮し、欧州、ロシアの訪問経験を持っていた当時貴重な人物であった。維新後も後身の指導、育成のため英学塾三叉学舎を開設していたのである。
 その後、正は同人社(の開設直前)に中村正直(なかむらまさなお)に学ぶ機会を得て薫陶を得る。中村正直は幕府の留学生として欧州を見聞した一人で西国立志編を著したことで知られる。また熱心なキリスト教の信者でもあった。正のキリスト教との出会いもそこにあった。

ヘボンと耶蘇

 明治9年、正ははるばる神戸にアメリカン・ボードの宣教師ギューリック(Luther Halsey Gulick)を訪ね、教えを乞う。ギューリックはその年の1月に来日し、日本の地における聖書の普及活動を開始していたのである。
 翌年正は横浜に戻るとヘボン塾のバラ宣教師(ジョン・クレイグ・バラー)に師事して学んだ。バラー宣教師は当時ヘボン塾の運営を任されていた人物である。米国で中学校の教師として15年のキャリアを持っており、正のよき教師であったと思われる。

 ヘボンにすこし触れておこう。ヘボン博士は医師でありキリスト教の布教家であった。今流に書けばヘップバーン(James Curtis Hepburn)である。宣教医として中国、シンガポールなどに滞在し、そして米国ニューヨークで開業した時は名医と謳われた。安政6年(1959年)来日し、おもしろいことにキリスト教の宣教医でありながら、成仏寺という寺に住んでいた。別の寺を利用して療養所を開設したが当局による強制的閉鎖の憂き目を見る。その後、日本語と日本文化の研究に傾倒し、英和辞典の編集を行い、日本語のアルファベット表記法であるヘボン式表記を提案したのである。このヘボン式は現在も日本人の旅券の正式な表記法とされている。
 ヘボン塾はヘップバーンの妻のリートが開いていた英学塾がその興りであるという。後に登場する高橋是清や三井物産の祖、益田孝など俊英を世に送り出している。また、ヘップバーンが完成させた和英語林集成第3版の版権を丸善に売却し、その収益を明治学院に寄付した。明治学院はその寄付金をもとにヘボン館を建設した。ただし、このヘボン館、ヘップバーンの死去のまさにその日に焼失してしまい、その奇縁が永く人々に語られたという。現在は同大の白金キャンパスの研究棟にその名が継がれ、ヘップバーン博士の胸像が正面玄関脇に建てられている。

 同時に在籍して居た中村正直の同人社でも正は正直におおいにかわいがられた様で、塾に住み込みの塾僕を2年続け、そののち通学しながら西欧を学ぶようになった。

 こんなエピソードがある。昼間は塾がある彼は夜に働く。きついがお金になるというので人力車夫として働いた。背は低かったが力の強かった彼である。あるとき支度をして仕事に出ようとすると脚半が片方ない、探しても探してもみつからない。これでは仕事にならない、と彼は片足の膝から下にえいやっとばかり墨をぬり、遠目には両の足に脚半をはいているかのようにつくろって仕事に出かけたのであった。年齢からいけば正は大学生ぐらいのことであり、人力車夫といえば荒くれたちである。その荒くれたちの世界を始めとしてさまざまな社会に飛び込み、勉強をし、さまざまな価値観を学んだことであろう。当世の学生諸君、がんばりたまえよ。
 当時、塾に通う正は布団すら持っていなかったという。仕事から帰ると勉強をし、眠くなるとそのまま机によりかかって寝たのだという。なんという生活ぶりであろうか。そのあとしばらくは下級の巡査の様な仕事をしながら塾へ通った。

 ついで正は英語への熱意から横浜で駅逓寮という郵便の仕事につく。そこでなら英語と接するチャンスもあろうかと考えたのである。読者は郵便局で英語が上達するのかと奇異に思われるかもしれない。郵便制度は明治7年開始である。正は郵便という新しい制度が出来ると聞いて外国郵便を扱う部署に狙いを定めたのだ。それは間違いではなかった。当時のハイテクシステム、郵便事業を立ち上げるために来日中の外国人技師、そして外国郵便に接し、横文字を吸収していくことができたのである。

 正は明治11年(1878年)横浜住吉町教会(横浜指路教会)にて洗礼を受け、キリスト教に入信した。バラー宣教師との口頭試問は正の人生感の正しさを自分に認識させたに違いない。必死に答える彼は直感で語った自分の言葉の中に彼の心の根底に流れる水戸学からキリスト教への矛盾のない解釈を見い出したのであった。心の震える体験であったことであろう。

    
(註)水戸学は徳川斉昭や藤田幽谷、東湖などにより体系づけられた内憂外患の国難を打破するための論理体系をもった学問で、文武両道をすすめるものである。忠愛の誠や厳格な身分制度の堅持などが、キリスト教の愛、神の恵みやキリスト教的運命論に合致した、ということだろうか。

 そして水戸学とキリスト教と英語を財産に彼は時計やマッチや郵便システムを発明する西洋への留学の夢を実現していくのである。


貨物船で単身渡米す

 正の洋行への思いは日増しに強くなっていった。かれの目標はすべて自分自身でやり抜くことであった。自分でやり抜くこと、それはいまだに根本家に強く残っている。頑固さ、或いは血と言ってもよいかもしれない。  同じ部署に勤めるファーというアメリカ人に、正は自分はアメリカに渡り勉強がしたいのだと切々と話した。彼の心に動かされたミスター・ファーがその友人の弁護士に手紙を書いてくれた。熱心に働き、熱っぽく語る小柄な27歳の日本人青年であった正の熱意は国をこえて伝わってゆく。

 いわく、横浜郵便事業所のアメリカン・メイルルームで働くクリスチャンの熱心な若い日本人がいるのだが面倒をみてもらえまいか?

 カリフォルニア・オークランドのバラストー(バーストウ:Alfred Barstow)弁護士の返信。

 こちらにくるのなら、面倒をみてもよい。

 正は心から喜んだに違いない。今これを書いている現代の東木倉の根本の一人である筆者は奇しくも留学中でカナダの大きな都市にいる(註:当時トロントに在住、現在は帰国)。正の気持ちが痛いほどよくわかる。正はそれを恩師中村正直にいよいよ留学が叶うと報告した。中村正直は漢詩を彼に送ってはなむけとした。良き師に恵まれることはまさに人生の宝である。

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 はるばる太平洋をこえて船出してゆく青年の心意気、心から祝って送り出してあげよう、しっかり勉強して無事元気で戻ってくるのを待っているから...

 8年かけてこつこつとためた渡米資金50円を手に、明治12年の春に北京号(シティオブペキン)という貨物船に乗り込み横浜を発ったのであった。

 当時の航海は非衛生的で大変に危険なものであった。伝染病はしばしば乗り組む人の命を脅かし、嵐はつねに難破の危険性をはらんでいた。頑強な身体と屈強な意志をもつ正はその航海に無事耐え、みごと米国の地を見ることが出来たのだ。

 正の到着地であるサンフランシスコの起源は1848年の金鉱脈の発見による。翌年にはわずかな人の住む土地に何万人もが金目当てに押し寄せた。彼らは49ers(フォーティナイナーズ)と呼ばれ、ゴールドラッシュ時代のサンフランシスコは無法の地と化していた。
 正の上陸した1879年という時期は、1853年の銀鉱脈の発見によるいわば第二期のゴールドラッシュの余波が消えて都市自体は緩やかに衰退している時期であった。大陸横断鉄道の開通後すでに10年を経過している。このころの初期の日本からの米国留学者は東部希望であってもサンフランシスコに上陸することが多かった。旅費が足りなかったのである。あるいは意識的に倹約したのだ。また、20年ほど前に咸臨丸が入港し、日米交流の起点となったのもサンフランシスコ港であることから、当時米国留学を志す若者にとって上陸先の第一目標とされていたのであろう。

 筆者の見たサンフランシスコ湾は海独特のわずかなもやをたたえた静かな水面の広大な湾であった。だいたい一年の4分の3は春か秋かといった温暖な気候である。この地域は現在シリコンバレーとして知られるスタンフォード大学をその源流とするクリティカル・マス効果ジャンプ・アップしたハイテク産業地域を従えている。人口75万人を擁するサンフランシスコ市のダウンタウンにはジャパンタウンと呼ばれる一角があり、その向こう側は現在でもあまり治安の良くない地域とされている。ゴールドラッシュの荒くれたち、49ersはサンフランシスコのフットボールチームとしてその名をとどめている。

 ついにやってきたのだ。すべての始まりの地に!!


28才の小学生

 かねてよりの予定通り、カリフォルニア州オークランド市で正はメソジスト教会員であるバーストウ弁護士と会う。英語をずいぶん勉強して来たつもりなのにさっぱり通じないのに正は愕然とした。バーストウ弁護士はとにかく私のところで住み込みで働きながら小学校へ行ってはどうかと提案する。28歳の小学校1年生だ。バーストウ氏は正に邸宅の住み込みの召使としての給料を払うことを約束した。

 このころ、正は彼の生涯の師であり同志である美山貫一(みやまかんいち)と出会っている。当時美山貫一はサンフランシスコに滞在し、メソジスト教会牧師として伝道に従事していたのである。のちに正は禁酒運動と教育という2つの柱をこの美山とともに推し進めて行くことになる。

 バーストウ邸での正は、朝はぎりぎりまで召使いとして掃除や馬の世話などして働き、毎日走って市立小学校へ向かった。学校へ着いたときに飲む水の美味しさは自分にとって生涯忘れ難いものとなったと、後年正は幾度となく述懐している。小さい子供たちに混じって勉強をする正は必死だった。

 学校から帰るとまた仕事であった。夜が更けて皆が寝静まったころからが正の勉強の時間がはじまる。温暖な気候でワイン用ブドウの産地にもなっているカリフォルニアだが、天空は高く夜は冷える。特に冬は勉強で夜遅くなると手足が凍えて眠れないので、正は庭を走り回って身体を暖めてから床につくという習慣を身に付けたと伝えられている。

 30歳となった正はやっと市立ホプキンス中学校へと進んだ。読者の諸君、笑ってはいけない。万歳三唱で華々しく送りだされた当時の日本のご洋行、ご留学とはアメリカで小学校を出る、語学校へ通うという程度だったのである。それを帰国後にごたいそうなキャリアにして鼻にかけたのだ。とはいえ非衛生的な船による危険な当時の洋行はそれだけでたいしたものであったとも言える点は譲歩しておくべきであろう。現代のように飛行機であっという間、というわけには行かない。

 正は寄宿生活に入ったが、そこでも給仕という仕事を得た。部屋代と食費ががタダになる条件である。寄宿舎生活が始まっても週末はバーストウ氏の家へ赴き、恩義に報いるために掃除などをして働いた。勉強と労働と倹約、アメリカでもそれが正の生活であった。

 夏休みは正にとって学費の稼ぎ時である。毎日の食事はパンと水で倹約し、時々野菜と果物を買った。倹約のために正は部屋のガス灯の上に自製の鉄の輪の治具(じぐ)を据え、その上にブリキの鍋を置いて食べ物を煮炊きしながら、本を読んだという。こうした工夫による倹約で学費をまかなっていった。

 こんな逸話が残っている。
 ある時、夏のアルバイトで正はリゾートの氷屋で働いた。氷水を客に所望された正は何気なく水に氷をほうり込んで出した。それを見た氷屋の主の妻は正を強く叱責した。外気に触れぬるくなった水ではなく汲みたての冷たい水に氷をいれるほうが経済的だというのである。メイク ア センス。その考え方はのちのちまで正の良い教訓になったという。

 中学を4年で終えさらにホプキンス高校を出ると正はなんとかして大学に進みたいと考えたが、やはり問題は彼の経済力だった。オークランド市に大学はない。さりとて大学のある遠方に知人も居ない。そこでバーストウ氏に相談すると、あるいは古くからの友人の大富豪である鉄道王フレデリック・ビリングス氏ならば、と紹介の手紙を書いてくれた。正の真面目に学び一心に働く姿を見てのことであった。ビリングス氏の「大学の4年間月50ドルの奨学金を出しましょう」との返事をうけ、正はバーモント大学に進むことができたのである。明治18年となっていた。
 オークランド市を離れるとき、サンフランシスコメソジスト福音会が母体となり、正のために盛大な壮行会が行われた。正が地域社会に受け入れられていたことの証しである。正はおおいに勇気づけられたに違いない。


バーモント大学入学とビリングス氏

 アメリカ西海岸から東海岸へとやって来た 正は、ボストンへ寄り道をして独立戦争の記念碑と史跡を見て回り、アメリカ国民の独立と不屈の精神を心に焼き付けたと伝えられている。その後、バーモント州へと向かった。バーモント州は昔からリンゴの木が多かったので、日本の即席カレーの商品名はそれに因んだものであるという。
 正は緊張した面持ちで大富豪ビリングスのもとへと向かった。勿論、ビリングス邸を訪れるようになった正がその人柄をビリングス一家に認められるのにはそれほど時間がかからなかった。ファミリーの中でも、ことにビリングス氏の父母はまるで実の息子の様に正をかわいがったと伝えられている。ビリングス一家の信頼と支援、あるいは愛情と言っても良い、のもとに、バーモント大学での4年間を安心して過ごせたのである。

 しかし、安穏と過ごしていたのではなかった。政治学を学ぶ正は、ビリングス氏と学長による紹介状を手にして米国上院議員、下院議員、国務大臣、時のハリソン大統領にまで機会を作っては面会をしているのだ。正は勉学や政治家との面会の他に、バプテスト教会や長老派教会でレクチャーをこなし、アメリカの本の翻訳にいそしんだ。ビリングスはそんな彼を夏休みに自宅に招待し、ビリングス家の一員の様にしてウッドストックの豪邸で過させること楽しみにしていた。
 正は大学の卒業式の日、10人の代表のうちの一人に選ばれ、スピーチを行った(1889年6月)。さらにスピーチの中での彼の一言「貧は富を作る」は翌朝の新聞に載って評判になったという。当時としては大変に珍しかった日本人留学生であった彼は、マイノリティ(少数民族)の代表として選出されたのである。堂々としたスピーチで喝さいを浴びた彼はその時既に政治家への道を心に決めていたのであろう。

 ここでバーモント州随一の富豪と呼ばれたフレデリック・ビリングス氏(Frederick Billings 1823-1890)について記しておこう。
 氏は少年時代に家の破産という経験をし、働きながらバーモント大学を卒業して弁護士になった。そこに旧友バーストウ氏との接点を、そして苦学している正の姿との類似性を容易に想像することが出来る。

 西海岸での若きフレデリックはどのようだったのだろう。

 25才の才気あふれる青年、ビリングスがゴールドラッシュのサンフランシスコに乗り込むと、聡明な彼はその日のうちにすぐさま3つの重要なことに気がついたという。

 まず第一に、ここでは金を掘るのに特別な技術はいらない。黄金のフレークは川床や、砂利の中から容易に採ることができる。普通に考えても一日にリスクなしで15ドルは稼げるだろう。しかし、金堀りは場所取り合戦だ。争いごとは多いに違いない。(そして、自分は法律家であり、自らが金の採掘に携わるのは得策ではない。)
 また第二に、この町の不動産市場にはインフレが生じている。
 そして最後、第三には、この町に今一番必要なものは建物を建てるための資材である。

 このような発想で、ビリングスはまず、運河用の廃船を200ドルで買い取り木材として売ることでひともうけした。当時のサンフランシスコ湾にはゴールドラッシュで押し寄せた船がひしめき合い、その多くは片道切符であったのであろう、沈みかけたり(あるいはすでに沈んでしまったり)、陸にあげて放置されたりするものも多かった。湾内はひしめき合う船のマストがそれこそブラシの毛のごとく生えていたのであった。

 そのころのインフレはひどいものであったらしく、ホテルの朝食が2人分で27ドル50セントもした。日本円で現在のホテル並の3000円ほどである。もちろん日本の水準は高すぎだが、彼がリスクなしに稼げる一日の稼ぎが15ドルと見積もっていることから、ホテルの朝食だけでその日の稼ぎが飛んでしまうことになる。

 また、あるとき彼の地の法律家として彼は証明書類をある男のために書いたことがあった。ビリングスはこの簡単な証明書作成に(たぶん吹っかけて)10ドルを請求した。これはバーモントのなんと5倍の価格であった。

 男は、
「おい若けぇの、この町で金持ちになろうと思ったら、それ以下の金でやっちゃぁいけねぇ」
 と50ドル分のメキシコ銀貨を彼の目前にザラリと出して去ったという。

 こうしてビリングスの西海岸におけるビジネスはスタートした。

 西海岸の事業で財をなした彼は北太平洋大陸横断鉄道事業を成功せしめ、そして故郷ウッドストックに再び戻ってからは慈善家として教育・文化の助成を積極的に行った。その一つの例であり、また、最も遠い世界で、最も大きな影響を与えたのが熱血東洋人根本正に対する月50ドルの大学進学の奨学金であったのである。

 お互い、長男では無かったこと、苦学したこと、キリスト教の背景など共通点が、恵まれた状況にある東洋人が極めて少なかった当時にあって、正がビリングスの共感を得ることが出来た理由なのかもしれない。

 フレデリック・ビリングスにはエドワード(Edward Horatio)とチャールズ(Charles Jason)という2人の兄がいた。また、まるで恋人の様にみえるほど仲の良いと称された3つ年長の姉、ローラ(Laura)が居たが、エドワードとローラは若くして亡くなっている。ローラの命がまさに燃え尽きんとするとき、そのベッドの傍で彼女の手を握るフレデリックに、彼女は自らの手のかわりに聖書を手渡したという、そのローラの臨終の日は筆者の誕生日であることから、いささかの奇縁を感じるものである。

 ビリングスは法律家、社長、そして慈善家としての足跡を残した。モンタナ州ビリングスは氏に因んで名付けられたものであり、バーモント大学のビリングスの名を冠した学生会館も氏に因んだものである。バーモント大学には15万ドルもの寄付を図書館の建設のために行った。大学のフレミング博物館には後に正が贈ったビリングス氏の胸像と伝記が現在も大切に保管されている。ぜひ筆者も見て見たいものだと思う。また、筆者が北米にいるうちに、できればビリングス氏の末裔ともお会いしたいものだと感じている(註:実現しなかった)。ビリングスの深い恩義とバーモント大学の思いを込めて、正は胸像の寄贈者として「あなたのしもべ」と記している。

 
(註)そして現代になり、嬉しいことに根本正のゆかりの人々とビリングス家の交流が始まっている(1999年)。現在のビリングス家はウッドストックで農場と博物館を経営している。バーモント大学も根本正なる人物について資料をまとめてくれつつあると伝え聞いている。

 無事に卒業を果たした正に、ビリングス氏は大学を出ただけでは世界がせまくて到底役にたたないから、是非ヨーロッパへまわり見聞を広めてから帰国するようにと旅費を与えた。ビリングス氏は正の経済的支援者としてだけでなく、世界的視野をも教授したのであった。正はまさに学ぶべき時に学ぶべき人と出会っていったといえる。ビリングス氏は正との別れのその日、ひとことYou must be a usuful to Japan...

Be a useful man in Japan!
と言ったという。

 正はのちに自らの子にビリングス氏に因んで美倫と名付けたが、18才での留学の途上、船の上で病に倒れ、水葬にされてしまったのだ、と筆者の祖母は生前語っていた。このことは後にふたたび触れる。現在東木倉の根本家の墓所にあるのは美倫の碑であり正確には墓ではない。碑を建てたのは正の兄、東之介の孫に当たる、当時の根本家当主、勉(べん)である。


38才で政治を志す

 ヨーロッパを巡って日本へと戻った正は、彼女が12才の時分に会ったことのある女性、羽部徳子と結婚した。正は、結婚に際してビリングス夫妻に宛てた手紙で結婚についてのアドバイスと婚姻の許しを乞うた。恩人に自分の結婚の許可をもらうと言うことは米国人にとって甚だ日本的な慣習と映ったことであろう。
 徳子は幕末の水戸藩師士桜任蔵の孫娘で、女子学院を卒業後、当時新潟県高田市の女子学院分校で教師をしていた。正の留学中に彼女は英語を身に付けたクリスチャンの大人の女性へと成長していたのである。明治23年、正は38才、徳子24才の時のことであった。媒酌の労を取ったのは豊田小太郎の未亡人、イタリア留学の経験をもつ日本の保母第一号の豊田芙雄子(ふゆこ)で藤田東湖の姪にあたり、当時は女子高等師範学校の教師をしていた。結婚式は全員洋装、酒はでなかった。

   
(註)豊田芙雄子は11代水戸藩主徳川昭武の計らいでイタリア留学を果たし、そこで幼児教育を納めた。帰国後、女子教育に尽力し、その銅像は茨城県水戸市大町の水戸第二高等学校校門の傍らにある。蛇足だが水戸第二高等学校の制服のデザインには筆者の母親が関った。

 「随分とモダンでしたね」
 晩年「禁酒之日本」誌記者に結婚生活の事をを聞かれたとき正は、
 「その頃はモダンなんていはない、とてもハイカラと言うんだ」 と闊達に語ったと加藤純二「正伝」は伝える。

 ほどなく正のもとに板垣退助(いたがきたいすけ)から電報が届き愛国公党への参加を求められた。自由民権運動知り、板垣を尊敬していた正は党員となる。しかしながら、出馬した第一回の総選挙では準備不足から落選してしまった。
 国際派根本正の板垣を補佐する八面六臂の政治活動が始まった。

 「根本君、君に日本人の移民先がどこが適当か調べてきて欲しい...」

 外務省雇いとなっていた正は移民調査のために海外に派遣される。ブラジルやメキシコ移民の下調べである。それを命じたのはかつて幕府軍の指導者として北海道五稜郭で最後の決戦を指揮していた榎本武揚(えのもとたけあき)その人である。蝦夷地を理想国家として独立させようと奮闘したこの傑物は政府軍に破れはしたが、黒田清隆らの努力により生きながらえ、世界を眼中にとらえた政治活動を展開していたのだ。その一翼をになう人材として正の英語と行動力が買われたのであろう。

(註) 榎本武揚はハイネケンビールを初めて輸入した人物としても知られている。オランダへの留学経験から「通信こそが世界を変える」と信じて電信機を輸入した。明治18年に設置された逓信省の初代の逓信大臣でもある。1891(明治24)年、外務大臣の要職にあった彼は外務省に移民課を創設し、翌年退官してメキシコに入植を実現するため日本植民協会を組織した。ローマ字を普及させた正とともに卓越した着眼点を持っていた人物である。1997年はメキシコ移民100周年記念でもあった。

 中南米を徒歩と馬で行脚し、現地通訳と英語で話し、通訳は現地語へ訳した。一行は拳銃を携行し、それで虎を打ち倒したことも有ったという。正の勇気と行動は正確な情報に翻訳され本国にもたらされた。そして有望な移民先としてブラジルやペルー、メキシコが上がっていったのであった。
 このメキシコ、ブラジル調査旅行のわずかな時間を縫って正はウッドストックのビリングス邸を訪ね、著名な彫刻家の手による故ビリングス氏の胸像と正自身の手によるビリングス伝を贈っている。その後、1899年に亡きビリングスの妻を訪ねたのが最後と思われる。

 さらに農商務省の命により行脚は商工業視察として北米、中南米、インド・ビルマまで及んだ。彼の足跡は「根本正南米探検報告」「メキシコ、中米、南太平洋沿岸商工業視察報告」「根本正英領印度商工業視察報告」という総計800ページにおよぶ報告書となっている。

 正は侵略移民ではなく平和移民を大前提とし、貧しくても勤勉に働く日本人であればこそ、必ずや成功しその国のためになるであろう、そして日本人の活躍の場が世界へと広がっていくのだと考えていたのである。その時正は板垣退助率いる愛国公党の最高顧問となっていた。

 正の選挙戦について語ろう。
 正は茨城二区から立候補したが、その当時から茨城県は腐敗選挙の下地があったという。茨城といえば金権選挙で有名で出身者としては恥じ入るばかりなのだが、最近でも刑事罰をものともせず、居直り首長が権勢をふるうというような事があったが、そのような素地がすでにあったのである。筆者もかって大学籍を置いて働いていたころ、その人脈の広さをあてに市長選で買収の対象として話をもちかけられたことすらある。冬の選挙では対立候補の支持者が辻に立って焚き火で暖をとりながら対立候補の支持者が足を踏み入れるのを防ぐ不寝番が見られたものだ。それは正の時代ではない、まぎれもなく1990年代のことであった。

 正は運動員に「選挙運動は手弁当にて願いあげたく候」との手紙を出し、それにもとづき運動員はまったくの無報酬で近隣の町村、山奥まで支持を求めて歩いたそうである。正の選挙資金は正が中南米を調査している間の妻徳子の倹約による貯金に加え、家を抵当に入れて賄ったのであった。
 正は第五回総選挙で初当選し、以来10回27年にわたり連続当選を果たした。


未成年の禁煙法成立へ

 正がまず取り組んだのは義務教育の無料化であった。選挙といっても高額納税者だけが選挙権をもつ時代である。萬民の子弟を等しく無料にて教育すべしという正の主張は彼の目先だけではない取り組み方を感じる。明治31年、「国民教育授業料全廃の建議」すなわち義務教育無料化を衆議院に提出した。この建議により、はじめて義務教育はだれでも無料で受けられることとなって現代に続いている。時を同じくして普通選挙の建議にも名を連ねている。

 国語審をご存じだろうか?ら抜き言葉やおくりがななどの国語のあるべき姿について提言する文部省(現在は文部科学省)の諮問機関である。その源流が明治33年、私の亡き祖母が10才の年に創設された国語調査会であり、それも正の建議によるものである。これはローマ字普及の建議にもつながり、そのために子供たちはいまでもローマ字、それもヘボン式ローマ字を習うのである。正はタイプライターで打つことができ、明快な論理を有するアルファベット/英語をもって日本の進歩を信じ、漢字/平仮名/片仮名表記に挑戦したのである。難しいかな漢字交じりの日本語の読み書きを習うよりも、頭をもっと別なところに使えば日本の進歩が早かろうと考えたのだろう。結局、正の漢字撤廃論は尻すぼみに霧散したが、現在、わたしはコンピュータのキーボードの「ローマ字漢字変換」を使ってこれを書いているとは、なんとも不思議なものではある。実際、日本語の書き文字の豊かな表現力と情報伝達能力は世界的に見ても非常にすぐれた誇るべきものである。

 明治32年(1899年)12月7日付で正は賛同する4人の議員らとともに18歳未満に適用する喫煙禁止法案を共同提案した。当時といえば10歳にも満たない子供が父親と喫煙する姿があちこちでも見られ、小中学校の校内でどうどうと喫煙するものまで見られて社会問題と化していた。中学の先生がそれを憂えて禁煙したと、当時の読売新聞は伝えている。正は国会での論理の展開上、徴兵するときに強い兵隊がとれない、という富国強兵を論拠とした。しかしながら、私の幼いころのお伽話としての正伝からすると、正は皆の健康、殊に未来をになう者の強くあるべきことを心から望んでいたと考えたい。
 明けて、1900年1月25日、「未成年者喫煙禁止法案」衆議院を通過し、同2月20日には法案は貴族院でも可決となる。3月8日に未成年者喫煙禁止法は発布され4月1日から施行となった。

 この日から現在も生きている「20才未満の喫煙は法律で禁じられています」ということになったのだ。だれもが知っている法律なのになぜそれがあるのか、どうやって出来たのかは知られていない、しかし、その法律は根本正が作ったのだ。

 次の大仕事は未成年の飲酒を禁止することである。正は美山貫一、矢島楫子ほかの支持者たちを前に決意を新たにした。


未成年の禁酒法案を提出す

 「私が提出者でありますからして一応この提出の趣旨を申し上げたく思ひます。

 禁煙法を成立させた正は翌年、明治34年(1901年)2月9日、未成年の飲酒を禁ずる法案を初めて提出した。施行されるまで実に21年の歳月を要したまさに政治生命をかけた執念の法案であった。

たなしょう

 その年の年の瀬を迎えた12月10日ひとつの事件が起こった。

 「お願いっ!

 叫んで駆け出した男は国会の開院式の帰路にあった明治天皇の馬車へとしゃにむに近寄ろうとして警護の者たちに取り押さえられた。
 その男とは、衆議院の元代議士、田中正造。日本初の公害問題として知られる足尾鉱毒の問題を天皇に直訴したのであった。まかり間違えば死罪。それをも辞さぬ文字通り決死の強攻策に彼を走らせたのは、警察の尾行、監視、関係有力者の投獄、支持農民の懐柔策あるいは離反策によって、彼の孤立化という危機的状況に追い込まれていたからである。

 明治24年より10年、独り戦い続けていた田中正造は、その年の10月に「田中正造が鉱毒問題を口にするは自分の議員としての地位を保たんがため」との中傷に対して自らの潔白の証として議員の職を辞していた。そして直訴の一件で捕らえられたこちらの硬骨の士、「たなしょう」は麹町署に連行され尋問を受ける。その場に真っ先に駆け付けたのがほかならぬ「ねもしょう」であった。

 直訴が午前11時すぎ、根本正は午後3時すぎには田中正造に面会を求めている。なんという行動のすばやさ。残念ながら面会はならなかったが、「懐中より金五万円を出して、差し入れ方を依頼したるよし」と翌日の時事新報に載った、と加藤「正伝」は伝える。  二人の硬骨漢の接点を伝えるものは今のところ他にはないが、お互いに理解しあう仲だったのであろうことは想像に難くない。

   
(註)田中正造:日本初の大規模な公害、足尾銅山の鉱毒事件で天皇直訴をはじめ奔走。足尾の下流水域と煙害地域、すなわち今の、桐生、太田、足利、佐野、藤岡、館林など、の農民の支持を集めた。渡良瀬川遊水池のほとりを始め、史跡多数。

論戦

 「...諸君においてもいろいろとご意見もありませうが、どうか結局御賛成あらむことを謹んで願うのであります。」
 翌年も、その翌年も、さらにその翌年もと、信念の孤軍の奮戦は続くのであった。
 「おおうっ、ねもしょうっ!酒飲んで応援にきたぞォ。」
 泥酔議員のヤジ。
 「それなら子供が便所に行くのも危ないから法律を作らねばなるまい。あるいは衣服を着せる方法に付いての法律もつくれというのか。」
 強硬な反対派、花井卓蔵代議士の荒唐無稽な反論。
 「まぁたネモ正か、帰れ帰れ!」
「ヒヤ!ヒヤ!(hear! hear!)」
ノウ!ノウ!(No! No!)」
 拍手、罵声、野次。短駆を打ち震わし、声を枯らし弁舌を尽くしたあとの正は騒然とする議場の演壇で悔し涙をした。

 当時の日本は台湾を併合、満州、朝鮮半島へと覇権を伸ばそうとしていた時期である。軍部と政府の収入源は酒とタバコの税収の増加に依存しつつあった。したがって根本正代議士が提出する未成年の飲酒を禁ずる法案への風当たり、あるいはもっと直接的に申せば妨害、が提出のたびにひどくなっていった。それでも法案は提出から2回目、6回目から12回目までは衆議院を通過した。

 加藤「正伝」は伝える。

 法案を委員会に付すか否かの議論にて、伊東知也代議士の言。
 「かくのごとき愚劣なる案を委員会その他に付して、時日を長引かせると云うことは、国務の渋滞を来し、私は見逃すことができないと思う。根本君の殆ど十数年にわたりまして熱誠なる御趣意は分りましたが、その趣旨たるやほとんど道徳と法律とを混淆して、なにがなんだかワケがわからんような問題だと私は考えます。」

 蒙古王の異名を取る佐々木安五郎代議士の言。

「根本代議士が年々歳々熱心なるご提案をなさるということについては、つつしんで敬意を評しておきます。しかしなら承れば根本代議士その人は宗教家のなかでも耶蘇をお信じなさる。この禁酒というようなことは宗教もしくは道徳の力をもって人々みずから戒めるということが本体だろうと思う。」

 そして彼は衆議院可決で出て行っても幾度も幾度も貴族院で葬られるような法案を提出し続けること自体が体面上問題であると論じた。加えて、国は酒を飲んだ時代の方が強い、さらに、私の友人伊東君は酒を飲んでいるけれど、明瞭に演説の趣旨は分った。しかし、酒をのまない根本君の演説はよく要領がわからん。と言う。
 福島のバン寅こと野次を得意とする中野寅吉の趣旨。

「根本君が長いこと提出し続けているからその熱心さゆえに人情論をもって通過させるわけにはいかない。酒を飲んで何がわるい、効能顕著な酒をなんで未成年者に飲ませてはならんか。飲まない親父がいるか、冠婚葬祭はどうする、結婚式の三三九度の杯を水杯でやるのか。13、4歳でのむものはいない。たいてい飲むのは15、6、7である。酒を飲んでへなへなしているやつは、一朝事有ったときに役に立つものか。」

 議論は論理性を欠き、ほとんどその時代の習慣との戦いであったことが伺い知れる。唯一の根拠は税収の減少を危惧することだった。一方、根本正の発言には一語も宗教的道徳的色彩を帯びたものはなく、社会的、衛生的、経済的、統計的説明で一貫している、と加藤純二先生は指摘している。田中正造は議会を去った、根本正は踏みとどまり奇蹟を待つしかなかったのか。


未成年禁酒法の成立


童女

 明治41年(1908年)、この年も正は法案を提出、衆院通過、貴族院委員会にて否決されている。あいかわらずの年だった。

 6月24日。6歳になる三女直子は学校へ出掛ける前、おなかがいたいのと言った。悲劇は小さな事から始まる。学校から帰ってくると熱があったのでお手伝さんと病院へ行った。
 「食あたりのようだからたいしたことはないでしょう」
 医師はそう伝え、二人は家にもどって直子は床についた。
 その夜、午前3時ごろ。
 「旦那様、旦那様っ!」
 直子の容体をたまたま看たお手伝さんが正を起こした。
 「直子様のご様子が..」
 「なんとっ!」
 正は飛び起きて状況を確かめる。息はあるが直子の手足は異常に冷たい。正の行動は早い。近くの松山病院へ走ると当直の中村医師をたたき起こし、すぐさま2人で取って返し、診察に同席した。
 直子は...ひどく弱っている!
 「イエス様われをみてにとりあげたまえて常に喜び真心をもって使えさせたまえ... 」
 中村医師の診察と治療が終えても、主に祈り続ける正の声は終わらない... そして介抱と祈りの甲斐無くな可憐な子の小さな命は天に召されてしまった。6月25日朝9時、三女直子、死亡。あの笑顔はもう二度と見られないのだ。正は泣いた。死因は感冒性胃腸炎による嘔吐と下痢による脱水であった。現在なら点滴治療で簡単に乗り切れるのだが、と内科医、加藤純二先生は述べている。

 牧師の葬儀における説教に続くある人の弔辞。

自分は何時も根本氏を訪づる時に、無邪気な愛深き美しき直子嬢と風船球をつくのが(神の使と遊ぶが如く)例であった。直子嬢が病気に罹かる前の日、二人して風船球をついて遊びました。その時自分はこふ直子嬢に問へました。直子さんあなたは私の様な鬼の如き人と遊そんで面白ふ御座へますかと言へましたれば、直子嬢はこう答へられたのであります。あなただって神様のお子供ですものと。その時自分は感又感、しばし無言のままであった...

 正と徳子は「直子の昇天」という小冊子を編んで永遠の記念としたのであった。


 「アーメン、アーメン、よせ、よせ!」
 明けて明治42年(1909年)、未成年の禁酒法案は衆院可決、貴族院では審議未了で廃案であった。その年、正はローマ字普及の建議をしている。

 夏の暑い日のことであった。正と徳子のもとに、またも悲報がとどけられた。

  米国留学途上のご長男根本美倫君、布哇(ハワイ)寄港の前日、太平洋上の地洋丸船上において永眠せり

 根本正の長男、美倫は明治24年5月23日東京生れで、中学卒業後、国産大型鋼製貨客船、天、地、春をその名に冠したした3隻の内の1隻、地洋丸に乗り込んで米国留学の途についていた。地洋丸は明治41年(1908年)進水の総排水量1万3千トンクラスの世界レベルの新造豪華客船であり、サンフランシスコ航路へ就航していた。その新型貨客船の設備が貧弱だったとは思えないが、8月26日ハワイ寄港前日、地洋丸船上にて美倫は病死してしまった。そのまま寄港先のハワイ美以教会にて葬儀が執り行われ、10月1日遺骨到着、10月3日に正の通う銀座教会で葬儀は執り行われたと「美倫君の碑」には彫りつけられている。

 生涯の恩人ビリングス氏にちなんで名付けられた長男美倫。正夫妻の期待を一身に背負い、父を超えるためにアメリカに向かった彼の旅路の終わりは船上で病死という哀れな結果となった。

筆者は幼いころ、水葬にされたので遺骨はない、と祖母に聞いていた。祖母は明治23年生まれであったから記憶は確かだと思っている。しかしながら東木倉の根本家墓所にある根本美倫君の碑には「遺骨到着」「東木倉に埋葬」と記されている。しかになにゆえに「美倫君の『碑』」と銘するのか。そのあたりに真実が隠されていると感じる。
また、美倫が乗り込んだ石炭(重油)焚きボイラー3軸推進の最新鋭鋼製貨客船地洋丸は大正5年(1916年)香港航路に就航していたが、香港沖で座礁事故を起こして廃棄・解体された。そのニュースを正と徳子も万感の想いで聞いたはずである。
 正夫妻の不幸は終わらなかった。明治44年9月7日、満4歳のいたずら盛り、やんちゃ盛りの男の子、正次を失った。正次の死については、その事実のみが伝えられており、内容は不思議なほど一切伝わっていない。しかし、この数年間の根本正の家を襲った悲しみはあがない難いものであったことだろう。神の試練としてもあまりにも過酷すぎはしまいか。

 年号がかわり大正2年の人物短評本「人物研究」は正を評してこうある。

「毎年の議会に同一の服装、同一の態度、同一の論旨を繰り返すので名物の一つとかぞえられている」

 そんな揶揄に耳も貸さず、未成年の禁酒に執念を燃やし続けることができたのは妻、徳子の功である。徳子は禁酒法が通るまで「全財産を失ってでも出馬させる」と語っていたという。

(註)女子学院資料室委員会編纂の「目で見る女子学院の歴史」には明治39年ごろの婦人矯風会のメンバーの写真として矢島楫子(やじまかじこ)らとともに根本徳子の姿を見ることができる。二人とも見るからに気丈な女性と見受けることができる。
(註)矢島楫子、本名勝子。結婚後、酒乱の夫から逃れて離婚。そののち妻子ある男生と恋愛、出産など波乱をへて、「船の行き先を決めるかじとなる」として楫子と称した。女史学院大学初代校長。女子教育、女性運動家として晩年まで活躍した。

徳川家達

 筆者の父の生まれた大正10年第45議会が行われた。原敬首相暗殺のあとを引き継ぐ高橋是清内閣の時である。その時すでに名物男、根本正は定着しており、あまりに幾度も同じ法案を提出し続けるので人気が落ちはしないかと心配する支持者まで現れるほどになっていた。もちろん、そこでも正は未成年の禁酒法を提出した。

 何かが起った。なぜか強硬な反対派の議員が論戦のあと法案審議の委員を解任された。支持派が委員となり、強硬反対派の一人の議員は議決のその日欠席した。委員会はさながら映画12人の怒れる男の如き様相で次第に賛成に傾いたのだ。奇蹟なのかもしれなかった。潔癖でルールのもとで戦うことを信念とする正が謀ったとは考えられぬ。しかし、15年にわたって否決を続けてきた貴族院の風向きが変わったことは事実である。

 「そうだ皆さん、根本君の禁酒法、通そうじゃないか」

 と。
 言ったその人は、禁酒法を施行したばかりのアメリカに日本代表団として出向き、「海軍主力艦の保有比率は英米5に対し日本は3とする」という屈辱的結果に終わったワシントン軍縮会議帰路の船上にあった徳川家達(いえさと)だという。彼は貴族院議長でもあった。彼が影響を及ぼしたことは間違いない、と加藤純二先生は見ている。

 同じ島国の英国が5であるのに、日清、日露と勝利してきた海国日本が、第一次世界大戦参戦を引き金に前年に禁酒法を施行していた米国、ワシントンで3を言い渡されたのだ。そして、条約にもとづき、余剰の艦船は自沈させられた。

 つまり...

 「禁酒の国に我々は交渉で破れたのだよ、酒を飲んで浮かれている場合ではなかろう。

 徳川家達は皆を見回しながら言った。

 「そうじゃないかね、諸君?

 反論する者はだれも居なかった。加藤「正伝」によると、上の話は禁酒同盟の会長が当時貴族院書記長であった柳田国男からの伝聞であると記されている。

 ついに正の法案が成立し、禁酒同盟や婦人矯風会といった支持団体が大喜びするなか、正は思いのほか静かであったという。

   ふまれても 根強く忍べ 路芝の やがて花咲く 春をこそ待て

 正の胸には一編の和歌が繰り返し浮かんでいたと伝えられている。そのかげには美倫が、直子が、正次が居たのかも知れない。

 未成年者の飲酒を禁ずる法律はこうして成立した。


我田引鉄?〜水郡線の敷設の努力

 正の立候補する茨城二区の支持者層の住む土地、いわゆる票田は茨城県の久慈川沿いにある。茨城県北部は関東平野に阿武隈山地がせりだしてきており、点々と山村を形成していた。現在も袋田の滝をはじめとする観光地を擁する風光明美な土地である。正はそこに鉄道を引こうと考えた。水戸と郡山を結べば、茨城県北地域が一気に活性化するであろう、と。あるいは鉄道王ビリングス氏のやり方が頭にあったのかもしれない。

 彼の政敵はそれを我田引鉄と評した。正は反対勢力の私鉄の権利の譲渡をめぐる疑惑を追及するなど、妨害工作と対立意見を一つ一つ国会の場で論破していった。ルールのもとで戦う信念の成果であった。こうした10年に及ぶ正の建議と活動の結果、水戸と郡山を結ぶ、いわゆる水郡線は出来た。

 感謝した茨城県最北部の大子の人々は固辞する正の銅像をたてた。しかし、すでに敗戦色濃くなった第二次世界大戦末期の金属供出のため、正の銅像は台座から外され鋳溶かされてしまった。そのことを祖母は「てっぽのたまにされちゃった」とよく言っていたものだ。この世からガンとボットルをなくさねばならない、を口癖にしていた正の銅像である。祖母はさぞや悔しかったのであろう。

 昭和47年、筆者が小学校に通っていたころ、大子の駅前に正の銅像が再建されることとなり、除幕式に招待されて父が出かけて行ったのを記憶している。祖母はその時の写真を生涯大切にしていて、よく嬉しそうに話をしてくれたものだ。

 除幕式式典のスピーチで建立者側のある方が経緯を語ったという。曰く、

 「根本正先生は大子駅にとっても、また大子町にとっても非常な功労者なので是非大子駅の広場に先生の像を建てたいのだが、と当時の国鉄水戸管理部に申し出たのだが、駅前広場には個人の顕彰碑などまかりならぬとのことであった。しかしながら、再三にわたる熱心な説得の結果、特別に許可になり、この日を迎えることができたのは感無量である」

 と。

 地元の人々の正に対する思い入れの深さににおおいに感動した、と父は述懐している。
 いまでも水郡線常陸大子の駅前には正の胸像が建っている。筆者は幾度かその像を見に行く機会があった。行き交う人と正翁像を見比べながら、胸像の人がどのような人なのか知って今も駅を利用しているのかどうかはうかがい知ることはできなかった。

 正はまた暴れ川板東太郎として知られる利根川の水害を憂えた。国の特別会計措置を取り付け、利根川の治水に尽力したのであった。田中正造が心血を注いで守った流域を持つ渡良瀬川は最終的に坂東太郎に流れ込んでいる。

 つくば市に高層気象台がある。読者の皆さんがもし常磐高速道を使うことがあるとしたら、三郷インターから北上するとしばらくして左前方に航空法によって定められたストロボランプ点滅する高い塔を見ることが出来る。それが高層気象台の観測塔だ。つくばの住人は高速道路を通って帰るおりに、その塔を見ることによって帰ってきたと実感するのである。この高層気象台は大正9年に設立された。その計画はさらに明治43年に帝国議会に提出した根本正の建議書に起源をたどることができる。彼は5回におよぶ建議により彼の地元、茨城に高層気象台の建設を現実のものとしたのであった。富士山レーダはその使命を気象衛星に譲ったが、高層気象台は気象研究所の中に機能し続けている。まさに100年の計である。


金権候補にやぶれる

 大正13年、私の母がまだ1才のとき正は政界を引退することになった。その選挙では始めから劣勢が報じられていた。それを知った縁者の角谷輔清氏がこころばかりのお金を選挙資金にと携えて選挙事務所を訪れた。正はそれを「かえれ、かえれ!」とにべもなく追い返したという。

 ...手弁当にて願いあげたく候。
 正はその選挙に敗北した。その差わずか33票。当時の新聞は伝える。

那珂第三区の今次の衆議院選挙は根本、宮本両氏の対戦なるが、一方は名に負う金権家につけて加へて、全郡に親族網を張れる宮本氏と、これに対する根本氏は、13回の総選挙に、かつて一人の選挙違反者も出さず当選を続けてきた名物男根本正氏と争ひであったが、金権勝か、人物勝か、全部敵も味方も固唾を飲んで五月十二日の開票を待ちつヽあったが、ここに最も熱烈なる根本氏崇拝者なる那珂郡大宮町傘屋清水なるものあり。当日開票の結果、僅かに三十三票の差を以て根本氏落選の報を耳にするや、憤慨の余り一室に引き籠り、秘蔵の短刀を以て「憲政滅ぶ」の一語を高く叫ぶとともに、右の脇腹より左の脇腹まで一文字に掻っ割き、打ち倒れたる...

 正は「落選を感謝す」というリーフレットを家々に配布した。そこで第一に彼が記したのは、彼の政治家としての期間中、一人の選挙違反者も出さなかったことに対する支持者への感謝であった。

「落選を感謝す」全文

根本正が金権候補に僅差で破れ、政界から引退する及んで後援者に配ったリーフレットである。
第一、今日まで十三回選挙の都度、一人の違反者をも出さざるを感謝す。
第二、明治三十一年当選以来、小学校授業料の全廃国庫負担法、未成年者禁煙法及び禁酒法の如きは、過去二十三ヶ年を要し、既に三大法律を成立せしめ彼の有名なる水郡鉄道八十三キロに対し千二百万円の予算年度制をも成立せしめ、その他砂糖の戻し税の如き、或いは漁業風水害予防のため、高層気象観測所を筑波郡に設置せしめたる如きも、又余の建議に出でたり。今後提案実行すべきもの多々ありと言えども、こは新選挙議員の努力に依りて成功せらるべきものとす。
第三、今回わずかに三十三票の差にて落選したるも、すでに二十六年間「大義震天地」の精神を以て、国家の為微力を尽くし得たるは、全く那珂郡有志諸君の熱誠なる正義正道を以て国家の為尽力をせられたる結果なりと、深く感謝の意を表せざるを得ず。
第四、今回の落選は、余の公人としての責任解除を意味し、私人として大に満足するところなり。その理由は若し当選せば、余の政見たる米麦、特に小麦肥料等にたいする関税改正の件、湊築港国庫補助の件、煙草賠償価格上げの件、教育費国庫負担増加の件、及道路交通機関完成に関する件など提案実行すべきこと多々ありたるも、落選せし上は自ら公人としてその責任を尽くす能はざるに至りたれば、私人としては遥かに安心の生活を得べし。これ、余が責任解除を意味するという所以なり。仰ぎべくは、何人に依りてか一日も早くこれが実行せられむことを切望す。
第五、今回の落選は、余が政界において、身代限りとなるべき時期を喰いとめたる天の賜也と感謝す。



終章

 正は自らの後継者として最も期待した長男美倫を失った。その2年半前に、まだあどけなさの残る娘、直子、さらに次男、正次まで失ったことは前に書いた。信念の男は悲しみの男でもあった。若人よ強くあれ、正のクリスチャンとして、父親としての心は鉛の失意を湛えていたのだ。

 昭和7年の年末、正は病床にあった。狭心症を患っていたのである。正の孫たちはスキーに行くのを楽しみにしていた。長女夫妻は正の病を心配しスキーの中止を申し出た。正はそれを断わり孫たちをスキーに連れて行かせた。正は徳子夫人と二人だけで正月を迎えることとなった。静かな安らかな時間だった。

 昭和8年(1933年)の正月の5日の明け方近く、日本の礎を築いた柔軟で硬骨の政治家、根本正は今の世に脈々と続く青少年健全育成の思いを残してこの世を去って行った。

 正が臨終の瞬間に思い巡らせたのは、或いは東京の下層の民としての苦学の日々であったか、カリフォルニアの照りつける太陽を浴びながらの労働の汗であったか、恩人バーストウ、ビリングスファミリーの温かい姿であったか。また、或いは、目を閉じた正の眼前にいる年老いた妻に重なる12才の羽部徳子の姿であったか、その長じた新妻徳子の姿であったか。悲しく辛く常に心中に供に有った天使、童女直子、自らが強く留学を薦めたがゆえに客死した美倫、やんちゃな正次の姿であっただろうか。捨てた故郷、東木倉の台地の想い出はどうであったか...いまは安らかとなり齢を刻むことをやめた姿がそこにあった。82歳であった。

 東洋の国の正月5日の太陽が悲しみを湛えて沈み、また世界に翌日の朝をもたらす。日々は巡り、正の死と呼応するかの様にこの年、米国では禁酒法が廃止された。

そして時代は語りつがれてはいない多くの人々の努力に反して、日米開戦へと流れて行くのだった。

  そして平成の時代となっても
 「お酒は二十歳になってから」
 「未成年の喫煙は法律で禁じられています」
 これで私、根本の語るお話はおしまいです。
  Be a useful man in Japan!



番外編

根本正の日常 --平成10年四月十二日正の家に寄宿した経験のある根本ひろさん(87歳)からの聞き書き--

 根本ひろさんは水戸市在住。根本正の妹の孫に当たる方です。郷里東木の倉の陶芸家である父が聞き書きしてくれました。

 私が三田のおじさん(根本正のこと)のところで世話になったのは大正12年四月半ばから八月の初めまでです。私はその年に水戸の女子師範を受けましたが合格しませんでした。そこで父が三田のおじさんに相談したところ、1年間三田に来て勉強したらよかろうということになって御世話になったわけです。八月に入りますと1ヶ月ほど家に帰ってきてゆっくりしたらよかろうと言われ、水戸に帰り、九月一日、東京にもどろうとしたら、父が、南の空が真っ赤に見える、これは東京方面は大火事に違いない----。これが関東大震災でした。三田の家も蔵だけ残してすっかり焼けてしまいました。というわけで私も三田のおじさんの処に戻れなくなり、翌年に好文女学校(脚注)に入学して課程を終え、一年浪人して検定を受け、教員の道を進むこととなりました。
 三田のおじさんのと処での3ヶ月半の生活の生活をお話しましょう。茨城や栃木から行儀や裁縫などの勉強のためにおじさんの処に世話になっている若い女性は見習いさんと呼ばれていました。私がいたときには5人いて、お稽古から帰ると、家事も少しは手伝いましたが、女中というわけではありません。徳子おばさんは、皆さんはは食料や御小遣いを持って来ているのですから粗末にはできませんよと言っていました。おじさんは朝5時には起きて、私たちの部屋にもハロー、ハローと声をかけながら蒲田の畑へ出向きました。(国電田町-蒲田を利用)南京袋をステッキに結んで帰りはその袋に、ゴボウだのニンジンだの、おりおりの野菜を入れてきました。畑へは着古しの背広姿で出かけていました。女たちは朝食の支度です。ご飯とおみおつけはへっつい(かまどのこと)で炊きました。ご飯は麦飯です。新聞だのビラだの不用の紙を丸めて燃しました。ほかのおかずは都市ガスです。ハムだのソーセージだの当時としてはハイカラなものも食卓にのりました。四角いおおきな座卓があってその周りに私たちも含めて家族全員がいっしょに座ると、いよ子さん(正の長女)が、今日は何番を歌いましょうというと、各人が讃美歌の本を開いて斉唱し、それから食事です。
 おじさんは食後議会のないときは、ご自分のお部屋で本を読んだり何かを書いたりしておられました。外出のときはお一人で行かれました。書生さんは、私のいた期間中はだれも居りませんでした。
 奥さんの日常は靴下などの繕いものをよくやっておいででした。穴のあいたところにさかづきをあてて靴下を張って糸を縦横に織って、それは奇麗に繕ってました。それから羽織の紐も作りました。これはちりめんの布を紐の長さに切り芯には真綿を入れて縫い手の部分は絹糸を束ね織りして作りました。それは見事な出来栄えでした。それを箱に入れて矯風会の活動資金の一助にしておられたようです。
 英字新聞は奥さんがおじさんに読んで聞かせ、おじさんは時々うなずきながら聞いていました。夕方、おくつろぎのときはお嬢様の弾くピアノに耳を傾けていました。服装はいつも洋服です。和服の姿は見たことがありません。夜はパジャマに着替えました。
 徳川様(脚注2)小梅のお屋敷からよく電話がかかり、徳川様のお屋敷に出向いていました。それは外国のお客様が徳川様を訪問することが多く、そのときに通訳をなさってあげたようです。
 小川芋銭(脚注3)さんもよく来られました。二間続きの十六畳の部屋に緋毛氈を敷いて絵が描けるようにするのです。その時、ひろさん墨をすってくださいとおじさんからいわれて大きな硯に墨をすりました。長いことかかってすっても、紙に書くと淡くて滲んでしまうのですね。そのような時はおじさんがご自分ですりました。
 あるとき、ひろさんお蔵を見せてあげましょうと、と奥さんにいわれて一度だけお蔵に入れていただいたことがあります。幅一間ほどの箪笥は三寸ほどの高さの引き出しが幅一杯に重なるような作りでその引き出しの中には絵がたくさん入っていました。広重や北斎のもあったようです。五十三次の絵なども見ました。価値はわかりませんが古い壷なども所々に置いてありました。お世話になった方などに差し上げていたようです。
 三田のおじさんはいつも穏やかで大きな声を出したことは一度も聞いた事はありません。おじさんの癖など子供でした私には気が付きませんが、特別に無かったようです。私のお話しでお役に立ったでしょうか。

* 注:現在廃校。大正8年、小田梅乃によって水戸大阪町に設立。昭和3年校長の小田梅乃の病死により廃校となった。
* 注2:イタリアで面会した徳川篤敬(とくがわあつよし)か。
* 注3:牛久沼の河童の絵が有名な画家。



根本正の日常2

--根本可茂--
 根本正は、書生をとらなかった。少なくても、「見習いさん」と呼ばれる茨城や栃木から正の家をたよって上京してくる若い娘さんたちがいっしょに住んでいるうちには、間違いがあってはならないと思ったからであろう。しかし、例外的にいっしょに住んでいたのが根本可茂(よししげ、かも)である。正の甥にあたる青年で、のちに東京で大丸屋の屋号を持つ、革製品の店を切り盛りするようになる。大丸屋の革製スリッパは国会議事堂でも使われたと伝えられている。若いころの可茂は、壮士然としたところがあり、どこへ行くにも正とともによく出歩いていたそうであるから、私設のボディガードとして、血縁者をそばにおいていたのかもしれない。

 棒などをもって正の傍らにつけば中々絵になる親父であったと、父は述懐している。可茂は、第二次世界大戦時に東京より疎開し、那珂郡那珂町東木倉へ戻った、筆者の祖父になる。いわれてみれば、父も、筆者も、そして筆者の息子も壮士然とした筋肉質ではある。




ねもしょうとわたし--筆者あとがきにかえて--

 わたしは、こどものころこからお伽話のように「ねもしょう」の話を聞いて育ちました。主に祖母が繰り返し繰り返しに。その祖母は「根本正が明治天皇から頂いた飯茶碗」というものに二朱銀を入れてちりめんで包み、桐箱の中に大切にしまって持っていました。祖母が77歳のときまでは時々見せてもらった記憶があります。痴呆が進み、92歳で他界したおりに荷物を整理したときには紛失していました。白磁の美しい繊細な茶碗だったと記憶していますが、どこへ行ってしまったのでしょう。ねもしょうが歩いたであろうほこりだらけの砂利道と共に遠い木の倉の想い出、です。
 ねもしょうは那珂郡那珂町や久慈郡大子町の、いえ、茨城のヒーローです。しかし、故郷を捨てているんですね。ついに「木の倉」には戻らなかった。東木倉の郷里の親族に倉を幾つか建ててあげたという話は残っています。
 父は「父ぎみに根本正が来たと伝えてくれ」といわれて駄賃をもらい、頭をなでてもらったことがある、と述懐していました。そのあとに「...それで禿げちまった」と付け加えて笑うのです。
 加藤先生がご自身の足を使って取材して下さり、断片的に「時計とマッチをみてえらくなった人」とか、「脚半がなくて墨を足に塗って人力車を引いて苦学した」とか伝え聞いていた「ねもしょう」の人生全体が見通せるようになってきました。わたし自身でいつか調べてみたいものだという淡い希望はあったものの、加藤先生のおかげで情報も集まるようになってきました。インターネット版「根本正伝」を書くに当たり、加藤先生のご好意で先生の自費出版本をおおいに参考にさせていただき、オリジナルの情報を書き加えつつ、読みやすさに注意しました。自分の想い出と加藤先生の労作をもとに書き綴るのは少々心苦しくもあったのですが、加藤先生の快諾をいただき、骨格はカナダ、オンタリオ州の当時のノースヨーク市で出来上がりました。インターネット版「根本正伝」の意図するところは、純粋な「ねもしょう」の再評価と自費出版になる労作、加藤純二版「根本正伝」の紹介です。したがって、ちょっと立場が微妙なことがなくはないこともあって、わたしはねもしょう関連の組織にはなにもはいっていません。
 わたしはねもしょうを明治期における世界の実情を知る数少ない行動的な硬派な政治家、だと思っています。現在のある種の政治家がやるような、票を得んがために票田に利益を誘導するだけの活動とはおのずから異なっていたのです。ですから、いかに地元に尽くしたか、という価値観は意識的に避けています。もう一方の本体であるインターネット版「正伝」を読んで、よく商品を扱っているところからリンクの依頼が舞い込みます。しかし、インターネット版「正伝」をお読みいただければ、商品の紹介などそぐわないことは自明ですので、そのような依頼は即、>/dev/null(UNIXというコンピュータシステムのごみ箱みたいなものへ直行)となります。商行為や政治とは離れて、一人の男の人生として描きたかったのです。医師としての視点を全うする加藤版「正伝」とともにお楽しみ頂けたら良いと思います。
 さらにはインターネット版と電子版「正伝」が呼び水となり、加藤版「正伝」の重版もできるとよいなと願っています。
 ただし、正直に申して、この「正伝」をわたしは立身出世の物語にしたくなかったのです。しかし、書いていて判るのですが、ねもしょうという人物はやっぱり立身出世を強く指向しているのですね。維新期の時風とねもしょうが長男では無かったと言う事実を考慮すればそういうことになるのでしょう。
 しかし、立身出世を目指すねもしょうの意志の堅さには敬服します。それが生来の気質に加え、水戸学とキリスト教に裏打ちされたものであったろうことは疑えません。ねもしょうの言動はいつも骨太です。若いころのはきっととげとげしい、あらあらしい人だったかもしれない、と思えてなりません。年齢を重ねるにつれてその人間的魅力を増し、若い妻、徳子をはじめとし、婦人矯風会、見習いさんと呼ばれる下宿人女性とたくさんの女性陣に囲まれ、意外や意外、ねもしょうはイイ男、だったのかもしれませんね。ちょっとうらやましいです(笑)。
 それにしても、なんという波乱の人生でしょうか。信念を貫くねもしょうは子供たちを不幸にも3人も失います。私の「根本正伝」の中でわたしが敢えて想像し、言及した、ねもしょうの子をもつ親の気持ちから「未来を担うものよ健やかなれ」と願っていたということは真実だと考えています。その気持ちが、当時の「富国強兵政策」を梃子に未成年の禁酒・禁煙法を成立せしめたのでしょう。
 ねもしょうの生きた茨城県、当時の水戸藩は明治維新の原動力、最も先進的に有能な人材をもって改革をすすめる中心でした。水戸黄門とならぶ名君といわれた徳川斉昭(とくがわなりあき)は文武両道を旨とし、農漁民も外国の武力侵攻に対抗すべく軍事訓練を行いました。聡明な若い人材にも武道を奨励し、その結果、意見の対立が天狗党、書生党の内乱状態を惹起し、有能な人材は失われてしまいました。加波山事件、桜田門外の変、など皆さんもよくご存知でしょう。斬り合い、殺し合っていた人達と同じ学問を修めながら、従僕のような立場であったねもしょうは、その凄惨な結末を見つつ、難を逃れたわけです。そうして、勉強の場を外国に求めたのです。そこでもねもしょうは「従僕」を全うしようと思います。ビリングス像の台座に「あなたのサーバント」と刻まれていることからもねもしょうの考え方がわかります。そして、ねもしょうは私利私欲ではなく、国民のサーバントとして人生を生きたわけです。ねもしょうは歴史の表舞台からいつも少し外れた所にいました。しかし、史実の現場には居合わせたのです。「正伝」に登場する人物はさまざまな形で取り上げられる歴史上の有名人ばかりです。わたしは、私の「正伝」を歴史の表舞台に出ない、数かぎりない無名の信念と良心の人に捧げたいと思っています。過去の、現在の、そして未来の。それはきっとあなたのお近くにいる人でしょう。あなたご自身、かもしれません。

 一人でも多くのかたが「ねもしょう」の生き方に元気を分けてもらえますように。
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