Trip to Prague with Internet
バーチャル&リアルトリップTo Praha

WWW上に網羅された情報を探りつつ、それらを頼りに実際にプラハまで旅をして旅行記を書いてみました。活きたインターネットの利用法と海外旅行の知恵をちりばめ、ユーモアたっぷりにその日々を描きます。

この話は事実に裏付けられたフィクションです。Last Modified Oct. 24 1996


読み方
 この読み物は、ブラウザの機能を利用し、本文内にインターネットとインターナショナルトラベルのコツなどが埋め込まれております。最初のこのクリックで本文の上に挿し絵ウインドウがかぶさりますので、ウインドウをドラッグして位置と大きさを調節してください。それ以降が「挿し絵」になります。あとは必要に応じてウインドウが描き変ります。
 本文の上に出てきたときには慌てずに同じようにどけてください。
 最初は情報収集法、それ以降は少しの観光情報と国際交流のコツなどを交えております。この紀行文で、わたしの体験をリアルに追体験しながら、読み終えたとき、あなたがインターネットとインターナショナルトラベルについて「ほう!」とか「なるほど!」とか思えるものがあることを願います。
 サーバの中には遅いものもありますし、更新されてしまっているかも知れませんので、電話接続の方はとりあえず、本文をダウンロードしてから、必要に応じてリンク先をたどってみてください。
 それでは、はじまり、はじまり...

よねもと氏のプラハ紀行

 わたしはこれまでの自分の研究成果を手短にまとめると、プラハで行なわれる国際学会へ出かける準備をはじめた。わたしはドクターよねもと。自分でいうのもナンだが、帽子好きで饒舌なふつうのおじさんだけれどナチュラリストにして科学者。そして、ちょっとはすに構えたインターナショナルトラベラー、といったところだ。
 トラベルエージェンシーへプログラムAのマイレッジサービスの申告を頼み、IDを送る。電話口でキーボードを叩く音がかすかにカタカタとし、「大丈夫」と返事をもらってため息とともに電話を切った。ふう、こういう電話は科学者は苦手だ。航空券は水曜日に手に入る。つくば市に住んでいるわたしは土浦-成田空港のダイレクトバスを予約しなければいけない。机の上のいくぶん時代遅れだが、使いやすく鍛えてあるマッキントッシュでブラウザを起動し、時刻表をチェックする。ついでに成田空港で出発ロビーを確かめる。そのあとドキュメントのエンコーディングをウエスタンに切り替え、いつものトラベルリソースセンターに繋いでみたが、今回はそこには有効な情報はなかった。
 応答が早くてヒット件数の多そうなサーチエンジンとしてAltaVistaに接続した。ほどなく見慣れた画面が現れる。ほんとうは最初にイメージのオートロードを外しておくのが手っ取り早いのだが...手短にキーワードを放り込む。krystal hotel、ヒットなし。koospol。ヒットなし。だんだんエリアを広げ思い付くままに言葉をほうりこむ。+travel prague praha czech...AltaVistaが答えを返してくる。新しいブラウザを開きAltaVistaへの接続を保持しながらプラハの情報を探る。いくつかのゴミ情報に舌打ちしながらAltaVistaへもどりチェコのまとまった情報のサーバを探り当てる。ビンゴ、反応も悪くないしチェコが俯瞰できる。だいたいの状況をブラウズしたあとプラハのオーストリア航空のブランチの電話番号をみつけてメモしておく。マイレッジの申告は行きと帰りとは別なのでリコンファーム時IDナンバーをつげなければならない。ホテルのクリックには会場となるはずのKrystalの名前はなかった。
 心配なのは乗りつぎだった。成田からウィーンへ行かなければならず、次の飛行機まで1時間もないのだ。ディレクトリサーバの画面でキーワードにvienna airportを打ち込んでプラハのサーバを眺めながら待つ。程なくサーチエンジンのページが書き変わり結果が表示される。Vienna International Airportそのものがヒットした。ロケーションをコピーしてプラハのサーバのブラウズ画面のLocationフィールドへコピーしてやりリターンキーを叩く。シンプルで大きな文字のページが現れる。親切な画面だ。そこから空港の図面をみつけてダウンロードした。そっけないが実用的なデザインのページで逆に好感がもてる。到着と出発の位置関係を頭に入れておいた。
 再びプラハのサーバへジャンプした。服装はどうする?、簡単な気候の情報はチェコインフォセンターのサーバにあったが知りたいのはここ数日の具体的な天気と気温だ。気象衛星の画像を見せるサーバはいくつもあるが、実用的とは思えない。世界の天気予報からヨーロッパをたぐってプラハ中心の天気にたどりつく。数日は寒そうだしあまり汗もかかないだろう。衣類は少なめで良いが、長そでと傘は必要だ。
 到着して雨、というのは憂鬱なものだ。大きな荷物、初めての街、ましてや到着は夕方なのだ、不安な気持ちが高まる。プラハの事情はどうなのだろう、もうサーチエンジンは使わなくてもよさそうだ。サンサイトのプラハのページをAltaVistaのリザルト画面から直接クリックした。そこからトランスポートの情報をブラウズする。余りレスポンスのよくない時間なのか、別画面をブラウジングしながら待つことしばし。裏側にあるおまちかねの画面が書きかわる。来た来た。レスポンスは遅いが重要な情報がたくさんあり、わたしは思わずにやりとした。バスも地下鉄も乗り換えなしなら6コルナ、乗り換えありなら10コルナ、である。コルナはチェコの王冠の意味、チェック・クラウンと英語では言う。チケットの画像まであった。
 現地でいくら換金したら良いものか。為替レートを表示するウェッブサイトはいくつも有るが、今回はユニバーサルカレンシーコンバータを使うことにした。わたしのブックマークのInternationalTravelのフォルダの中にある。現地では両替所1カ所で1回しか替えられないのだ。
 一度にいくら替えるか、これで日本人は気づかずに顰蹙をかっているかもしれないし、友情に水を差しているかも知れない。それが日本人は金持ちという固定概念を助長するのだ。つまりその国の人たちの前でとんでもない大金を気軽に替えて見せてまゆを顰められる結果になるとういうことだ。その国の付き合いの有る方に庶民の平均月収でも聞ければ多いに参考になる。その額で家族を養っているのだから。コーヒーの値段や酒やたばこの値段も少しは参考にはなるが、税制を反映し過ぎるので一食の値段のほうがいいだろう。
 カレンシーコンバーターは1コルナは4円ちょっととはじいた。ということはバスや地下鉄が6コルナというのだから24円、ホテル代がプラハで40米ドルでおそらくこれは高いほうだろうから、どこかで1万円も換えればいいだろう。すべての接続を切って探索を切り上げた。
 翌日地元の銀行へ行って米ドルを準備する。だいたい円も通じるだろうが、ドルの現金は強い。学会の会計にお金を払う都合もあり、多少大目のドルを手にした。先生、今度はチェコですか、気をつけて。大学での教え子でもある外国為替の窓口の青年はドルを数えながら言った。
 その晩から少しずつ旅行用の衣類をそろえる。今回の学会は面白い学会で、聴衆はいたってラフな格好をして聴いているが、それも最終日のパーティのときはドレスアップするのである。驚くほど変身する人もいて楽しみにしている。地元のジャスコで7800円で買ったキャリーオンのバッグにシャツとネクタイを入れ、順番にメッシュバッグに入れた下着や衣類、旅行用洗濯ロープに洗剤。洗面用具に常備薬、プロテクターに入れたフィルム、カメラ、傘などをつめていく。キャスター側に軽い衣類を、ハンドル側をやや重くするとハンドルを持って引き回すときに楽になる。最後に背広上下にタオルを抱かせていれる。こうすると皴にならないのだ。あとは商売道具をいれておしまいだ。これで2週間はすごせる。安いスーツケースだが、何度も国際フライトを経験し、ハンドルの修理を1度経験している。大体10キログラムほどにおさまっているはずだ。
 以前、パリに到着したときのことだ。重いスーツケース底の径の小さいキャスターは石畳が苦手で、えらく往生した経験から、荷物は1つ、キャリーオンと決めている。航空会社の手荒な取り扱いにはらはらすることもないし、空港から早々と出てこられるメリットもあるからだ。
 愛用のタラスブルバのカーキ色の帽子をポンとスーツケースの上にのせてケリにした。
 出発前日、Centris660AVからチェコのサーバを呼びだそうとして失敗に気がついた。ブックマークをいれておくことを忘れたのだ。どこからたどるか...重たいページをいくつも経てたどり着くのは人生の無駄だ。キャッシュからURLを再現するソフトを立ち上げるメモリの余裕もない。どうするか...ふう。
 はたと思い付き、ロケーションフィールドにabout:cacheとたたく。ブラウザは5メガバイトのキャッシュファイルをリポートし、その中からチェコのドメインネームに含まれるczをコマンド+Fで検索する。それらしいhtmlをクリックするとブラウザは250メガバイトの内蔵ディスクからテラバイトのゴミ情報の海を越え、チェコのサーバへファイルの参照先を淡々と切り替えた。いいぞ、古いマック!がんばれ!
 ビザに関する情報のところでJapanという文字列を検索する。Japanese passport holders云々というところが見事にヒットし、Japanがハイライトとなる。どうもこの情報だと滞在にはビザがいる。わたしの旅券ではビザは要らなくなったと聞き及んでいた。どちらを信じるか、アップデート情報からでは判断がつかなかった。
 だめでもともととAltaVistaへつなぎ、krystal hotelを検索する。すると見事にヒットするではないか。The Krystal Hotel...ロケーションは4月に登録されていた。なぜ今日までヒットしなかったのかは判らない。でも、インターネットは生き物なのだ。昨日そうでなかったから今日もそうでないとはかぎらない。さっきとは違った今があるというわけだ。そいつはまさに求めていたものらしかった。それは別の学会が運良くそのホテルを使うので参加者のための便宜をはかったもので、空港からの道筋を丁寧に示していた。紙芝居の様なものだ。画像ファイルは100キロバイトを切ってはいたが、やたらとロードに時間がかかり、ページは急造の感は否めなかった。しかし、磨かれていないとしてもピカピカ光るクリスタルの原石をみつけたのだ。たっぷりと時間のかかるブラウジングだったが、主なページをポストスクリプトプリンタへ送ってしまうと、ちょっといたずらをした。最初の「重たい」ページへもどるとReloadし、接続が成立した瞬間に、マック使いにはおなじみの「コマンド+ピリオド」で接続を強制終了するということを幾度となく繰り返したのだ。サーバがなにか知らないが、うまくすればhttpデーモンのログファイルにダウンロードのアボートが1ダースほど記録されているはずだ。サーバの管理者が勤勉なら、ログをみて目的のファイルが重たいからだと気が付きページの著者にメイルを送ってくれるだろう。マナー違反かもしれないが、軽くなれば外の人の利便性があがるというわけだ。インターネットは有限な資源、そして、まだまだ情けないほど細いスレッド、クモの糸なのだ。
 ドキュメントは地下鉄を推薦していた。地下鉄なら情報はまだある。ブックマークからサンサイトのチェコインフォをよびだし地下鉄の路線図を表示させる。もうひとつブラウザを開きプラハの地下鉄の乗り換え案内を並べて見ながら思案する。いきなりのフランスの鉄道でひどい目に遭ってから慎重だ。どうも乗り換えは気が進まない。バスにしよう、決まりだ。しかし、地下鉄への不安は行ってみた後では氷解するのだったが。
 曇天の当日、まだ2才にならない息子が起きると後ろ髪を引かれる思いがするので静かにでかけた。アスファルトにバッグの2つのキャスターの音が朝の街に響く。
 7時20分発の成田へのダイレクトバスは結構混んでいた。成田はもっとだった。早速チェックインに行くが、前の若い女性はかれこれ10分ほどオーバーウエイトのスーツケースについてエクセスのチャージを払う払わない押し問答をしている。ウエイトは35キロを示していた。なんてこった、持ち主と同じぐらいの重さじゃないか!見かねたグランドクラスの窓口がわたしのチケットを受け付けてくれた。なにしろ土曜日出発というので混み合っていて通路側はとれずに、A-310のエコノミーの 第一列窓際。悪くはないけれど、怒涛の混みようでキャリーオンサイズのスーツケースすらも持ち込みも拒否され、急遽紙袋をもらった。オーストリア航空の地上職員が持ってきたのはANAの紙袋で、それにGA645と プラハのガイドブックを入れたものだけを持って空の人となった。しまった、スリッパをスーツケースから出し忘れちまった、ふう。
 機内ではウィーンへいくおばさん、おじさんに囲まれ、お隣りは海外が初めてというおばさまだった。わたしの前に身を乗り出し窓をのぞき込む、眠るべき時間に窓を開け明るい光を機内に呼び込むなど困ったものだ。でも憎めない行為ではある。初めてなんてわくわくして何をしてもしれたもんさ。ひるがえってみれば、わたしだってひとりのおじさんなんだからな。
 なんでもその一行は、バイロイトとか、ウイーンとか音楽の名所巡りを10人でアレンジしたのだという。おもしろいのは、他の乗客からツアーですか、と訊かれると胸を張ってツアーではないとおっしゃっている、自分たちでアレンジしたツアーなのに。世の中ではパッケージツアー商品をツアーと呼び、その参加者でない者は外国旅行者としてのレベルが少し高いと思えるらしい。
 そのグループなかの中心的とおぼしき(わたしにとってははなもちならない、しかし、単に声が大きいだけなのかも知れなかった)おばさまは、眼鏡のツルから指輪からネックレス、それに服装から笑顔まで金ぴかだった。ニューヨークの地下鉄なら平気で指ぐらい切り落としても指輪を盗るのがいるよ。ケニヤだったら、物取りも死刑だから、腕ぐらいは切り落としてバッグを盗ると聞く。まさに必死というわけだ。海外旅行は動きやすくて質素な服装がよい。それともそもそもその方の質素のレベルがちがうのだろうか。
「あの方は語学がお出来になるから...」
 お隣りの言葉とはうらはらに、その金ぴか夫人、フライトアテンダントを呼ぶボタンを知らずに押し続けた。毎回やってくる真っ赤な制服のブロンドのお姉さまにクリアーだが毅然とした態度の英語で「あなたはこのボタンを押しつづけている、これにはもう絶対さわるな」と繰り返し言われている。
 その後も大声で世界各国を廻ったときの自慢話の大廉売、そのたびに日本はねぇ、と比較する。ついでに英会話を3年習っていることを自慢するに至ったのでわたしは頭が痛くなってきた。わたしにダブルのウイスキーを!!たぶん、このご夫人、外国で日本をこき下ろしながら顰蹙をかっているのだろう。自分の側を卑下する形で相手を持ち上げるという日本のご近所付き合い風の外交は良くない。それぞれの文化に良いところも悪いところも有るのだ。なんだか、そういう人の前でガイドブック広げるのもかっこ悪いので最後までガイドブックは開かなかった。わたしにも意地も見栄もある。

 ウィーンではイミグレーションもなくデハビランド=ダッシュエイトシリーズ300にのってプラハへ。設計の古いこの機体がオーストリア航空にあるとは知らなかった。定員にはまだ余裕があり、わたしの隣は空席だったが、機首をあげた「凧のような」独特の飛び方をする。まぁ、小さなターボプロップ機だし、定評はある機体なので大船に乗ったような気分に...なれるはずもなかった。
 小さな機体だが国際線である。飲み物は何でも何度でもタダだったが、これから初めての土地に酩酊して入り込む勇気はなかった。何が待っているかわからないのだ。ましてや夕刻だ、用心するに越したことはない。アドレナリンの分泌が高まる。
 プラハにつくとパスポートコントロールに並ぶ。「すみません」突然日本語で声がした。驚いて振り返ると「日本から学会の方ですか?」と日本人青年がすがるような目でそこにいた。ウィーンで怖い目にあったとかで「ご一緒させてください」と丁寧に願い出る。本来は一人が面白いけれど、まぁかわいそうなので「どうぞ」というと心底安堵した顔をした。
 そこへルフトハンザ機で農水のつくばの研究機関の方がたが到着した。3時間以上エライ揺れましたわ、と関西弁でのたまう田町さんは以前にも一度お会いしたことが有る。コーヒーが「跳んだ」そうな。なるほど顔色がわるい。ま、こんな状況なら「一人がいい」なんて言ってられなくなったわけだ。
 日本のチェコ大使館でビザをとってきた人がいた。それも最近値上げになったのだといって200円ほど高く払ったらしい。わたしは、極く最近不要になったはずだから持っていないよ、と言うと、そうだ、という人とへえと言う人がいた。結局ビザなしで滞在OKだった。わたしのように直前まで何もしない、っていう無頓着が効奏しているというわけだ。ただ、結果がその場でしか判らないのは緊張するものだ。ふう。
 パスポートコントロールを出て荷物を受け取ると1万円をコルナにかえた。だいたい4倍すると日本円になる。そこでもインターネットで検索してヒットしたやり方を行動に移したのだ。ほかの人がぞろぞろとその場で替えた。あとで「空港が一番レートが良かった」と言われて気をよくしたものだ。空港か旧広場近くの銀行が良い、レートが良くてもコミッションが0から10%まで変化が有るので注意とあったのである。
 空港をでてからバス119をさがす。夜に知らない土地に着くというのは心底いやなものだ。映画、タイムアフタータイムで現代にタイムスリップしてきた「切り裂きジャック」が、喜々としてネオンの夜の街に消えていったのを思いだした。が幸い、緯度の関係で日没にはまだ間がある。
 切符の販売をするスロットマシンはおつりが出ないとウェッブにはあったので、ニューススタンドでバスのチケットを買う。これもぞろぞろと日本人が従う。6コルナではなく10コルナのチケットだけが手に入った。あとはバス停。これはインフォメーションで「あっち」といわれただけ。なんの情報もないじゃないか。情報欠乏恐怖症、ってのがあるのか。が、バス停とバスをあっさり見つけて乗り込む。たしかに「あっち」にあった。
 目指すはKoospol。クースポルだかコスポルだか、なんだかかんだかと大荷物の日本人たちが「まったく空港からのトランスポーテーションをアレンジしてくれないなんて!」と文句を言いながら騒いでいると、近くのお姉さんが「コースポルね、教えてあげる」と事無きをえた。後ろ姿と横顔の美しい女性だったが、混んでいたのでそれ以外の角度からの観測は出来なかった。
 バス停からホテルへは学会作成の質の悪い紙に丸に十字が書いてあるだけのいい加減な地図でもわかった。ホテルの外見までネットワークでチェックしてあったので同名の別ホテルがなければと思っていたが、大丈夫だった。一時代前の威容をたたえたホテルである。
 チェックインで前にならんだ山口さんという初対面の農水の人は予約時知らなくてサーチャージを払わなかったらしい。surchargeの日本語訳は「暴利」「不当請求」など良い意味はない。サーキュラー(申し込み案内)にはシングルにするときは170米ドルのサーチャージ(特別料金)を払え、とあったのだ。山口さんはダブルの部屋をあてがわれた様だ。相手は不明。まだカウンターにへばりついて交渉中、大変ですな。
 さて、わたしがチェックインしようとすると...「ドクターよねもとはダブルの部屋へ、ドクター山口といっしょでいいか?」
「あれ、わたしシングルで予約したけど?」「これにはそう書いていない」
丁々発止やりあってわたしが170米ドルを101%してチェックをきって書留速達で送ったし、そのコピーもオフィスにもっていると言うと、
「オーケイ、あなたの言うことを信じよう、シングルでいい。」
疲れている弾みで言ってしまったが、実はわたしはオフィスなんてもってはいない。こんなことなら書類のコピー一式を持ってくるんだったと悔やんだ。ふう。
 ようやくカギを受け取って、部屋へいくと山口さんがついてくる。曰くこの部屋と言われた、と。
 オーララ、あきらめて30分ほど一緒にくつろいでいると山口さん、ふと自分のカードに目をやって、
「あれ、違う部屋に書き変わっている!」...
 早速フロントに電話で確認するとわたしは一人で居て良いことになっていた。しばらくは部屋にいますから、なにかあったらもどってきたらよい、と山口さんに告げて送りだした。ふう。ほっとして、シャワーを浴びることにする。バスタブは15センチぐらいの深さ、ちょうどマンションやアパートで洗濯機を置く台のようだ。これでは湯につかれない、疲れは取れないだろう。しかたなくあぐらをかいて身体を洗った。充分に暖まりヒゲをあたって、バスタオルを巻いて出てくると足のマッサージをした。ひとさし指、中指、薬指の両手指三本をそろえ、静脈上を末端から心臓のほうへ血液を送ってやるのだ。そのあとひざを立てて膝蓋(おさら)の外側下部のくぼみにそろえた3本のうちの人さし指をあてがい、すこし動かして薬指の位置に足三里をさがした。足の血行を良くするツボだ。ゆっくり時間をかけてほぐしておく。
 そのころ山口さんは見知らぬ外人とダブルにされていた。オー、マイ!あとで交渉し日本人の知り合いと同室に替えてもらったとのことだった。それも実は結果的に彼の不運だったのだが。
 もう8時をまわっているがまだ外は明るく、その時間に部屋に入れたことを感謝した。
 部屋は広く清潔だが、ダウンライトもテレビも姿見なく、シャワーも水道も赤錆色の水が出る。くだんのシャワーも鉱泉気分だった。4バンドラジオと小さな冷蔵庫がめぼしい設備だ。ラジオニッポンの周波数を調べておくんだったな、と思いながら短波を聴いてみると不思議なリズム言語ばかりが聞こえてきた。バンド内は昔よりジャミングが少なくなっていた。
 バーでは学会の重鎮でひたすら明るい英国ローザムステッドのジョージ・バワーズ博士を中心に半ダースほどがビールで食事を流し込んでいた。わたしもその中に混ぜてもらってチェコ料理とビールを飲んで、1.5リットルのミネラルウォータを仕入れて200コルナ(800円)だった。バワーズ先生から「ダンプディングは食べたか?」と尋ねられたが、ゆでパンのことだとはそのときは気がつかなかった。うわさにたがわずチェコのビールはおいしかった。キンキンには冷やさず、冷たい中に香りを楽しむ、そんな感じだった。ゆっくり、ゆっくりビールを味わいながら時差ぼけを考え意識的に夜更かしをする。
 チェコ語では読めないが英語でGOOD WATERとある持ち帰ったペットボトルを自室のコンプレッサーのない吸熱式小型冷蔵庫に放り込んでまたシャワーを浴びた。ベッドに身体を投げ出してしばらく火照りをとって、毛布に潜り込む。水を手に入れたことは飛行機のエアコンと飲酒による脱水症状の解消には非常に役立った。メガビタミン指向(?)で規定の倍のパンビタンハイをのんで休む。夜は肌寒いが、ベッドもひたすらチープで、薄くて小さな毛布一枚だけだった。時差ぼけで目覚めるたびに炭酸水をのんだ。決して暑くはないのにちょっと脂汗がういた。
 翌日は学会への登録だけなので、朝からミサのために市街へ行きたいという10年来の友人、ニールさんにつきあってダウンタウンの写真を撮りにいくことにした。もうひとりコントレラスというチリ人の若い女性がいっしょだ。アメリカ・アイビーリーグの名門コーネル大学で勉強し、そこで結婚、6才の子がいる、とのことである。彼女は、現在大学院生をしており、近々博士号をとって研究者になろうというわけだ。外国にはそういう女性が少なくない。三人でバスにのり、ディヴィツカで地下鉄へ。10コルナで60分すべての公共交通機関(バス、トラムと呼ばれる路面電車、地下鉄)が乗り放題だ。そしてどの交通機関も時間どおり運行されているし、安全な上、トラムと地下鉄は明瞭でゆっくりとした駅名のアナウンスがあるので外国人にも親切だ。ムゼウム駅をでるとウエンセスラス広場である。その周辺で適当な教会を見つけてニールさんと別れ、コントレラス女史と町並みを観て歩く。12時にニールさんと本屋の前でおちあうと3人でビュッフェに入り、ビールとチキンとフライドポテトで71コルナ(280円)だった。チキンは一羽の半分はゆうにありそうだった。
 ふたたび日差しの中に出ると、ニールさんはホテルに帰って友人と話がしたいと言い、コントレラス女史は一人ではいやだけれど市内を歩きたいと言う。今日はレジストレーションだけだし、それもトラブってるから遅れても見逃されるはずはないからね、と片目をつぶってわたしは言って、わたしとでよければ一緒に市内を歩こうと提案した。かくしてニールさんと別れ、コントレラス女史とデートとあいなった。日本から来ているはずの小川先生と戸山君がまだ到着していなかったので気にかかったが、とにかく今日は観光だ。今日一日歩き回れば疲れて夜良く眠れ、明日以降の時差ぼけは問題ないレベルになるだろう。
 しかしこのチリ人女性のタフなこと!(今回のプラハの最高のパートナーとなった)とにかく歩く歩く。おもだった旧跡はすべて歩いて廻り、6時すぎにホテル着いた。すてきじゃないか!わたしの参加した今までの学会はほとんど観光めいた事は無かったのだ。
 さて懸案のレジストレーションデスクへ行って、
「わたしはよねもと、問題ありだそうだから、解決しましょう」
と言うと、
「おお、ドクターヨネモト、間違いだった。問題はない。すまない。」
「イズザトライト?ザッツファイン、サンキュー」
ああ、拍子抜け。学会のノベルティのTシャツとバッグと小物などもらって部屋へいった。
 これで本格的に旅装が解ける。食事のあとはゆっくり休もう。朝8時半から夜は10時すぎまでの学会が明日から始まるのだ。

 その夜はウエルカムドリンキングで食事である。
  とにかく笑顔と握手のうずだ。なにしろ久しぶりの再会なので、とにかく「どうしていた?旅はどう?」。握手の仕方もこつがいる。大きな手のヤツと握手するときはこちら主導で握らないと、うまく行かないのだ。弱すぎても強すぎてもいけない。
 今回は今までの倍ぐらいの参加者がいるのですごい熱気だ。その中に、この学会は初めて参加する共同研究者の小川先生とその大学院生の戸山君をみつけた。無事に到着したのだ。緊張しているぞ、気をつかってあげよう。できるだけ参加者の中で人のよさそうなのを紹介し、当然、学会の中心人物には見掛けるたびに紹介しておいた。特に戸山君は早くから国際的感覚を身に付けて欲しいと思う。
 学会はおもしろく、新しいアイディアや刺激に富んでいる。ただ、集中して聴いているのだが英語のジョークはなかなか理解できない。みな、寝ないでジョークを準備してきているのに(ほんとう)。セッションの間に挟まる食事ではなかなか面白いやつと一緒の席にならない。食事も食物繊維抜きみたいなもので、温野菜のサラダみたいなものが洗面器にいっぱい欲しくなった。典型的チェコ料理は焼き豚に酢漬けキャベツに火を通したもの、ゆでパンのスライス、それらをしょっぱいブラウンソースでたべるというものだ。ゆでパンというものはすいとんみたいなもの、あるいは粉っぽいチクワブとおもえば少し想像がつくだろう。食事は全体に塩辛く、昼夜ともビールが一本ずつついた。ビールのラベルの左肩に10%とあるので、おや、これでは酔っ払い過ぎると思い良く見ると、アルコールは4.5%とある。10%は換算糖分含量であった。チェコにはアルコール含量の高い悪魔のビールもある。夕食の後もセッションは続き、終わるとスナックコーナーでまたビールを買い、ロビーや階段などところかまわず歓談の輪ができる。
「ツヴァイ ビア ビテ」
 ドイツ映画の名作、富士フィルムを使い、録音も素晴らしい映画「U ボート」でユルゲン・プロポノフ演ずるところのニヒルな艦長の言ったオープニングの台詞を利用しながらビールを手に入れて、わたしもその輪のひとつに加わった。夜はおしゃべりとともにふけてゆく。
 二日目は7時には目覚め、シャワーをあび、ヒゲに当たる。食堂はビュッフェスタイルで超満員だった。豆のサラダ、キャベツのサラダ、ヨーグルト、コーンフレーク、少しのパンにソーセージとチーズを数種類。外国では食べ過ぎないこと、それに「せっかくだから」と思わないことだ。ええと、さらにオレンジジュース、コーヒーを2杯。欲張って損をすることはままあるのである。もぐもぐ。
 どうして外国の学会に出ると、こんなに勇気づけられるのだろう。帰ったらまた頑張るぞ。日本では絶対に味わえない高揚感を感じながらその日の昼のセッションを終えた。
 夜のセッションは日本のビデオとプラハの歴史のビデオだからきっとつまんないですよ、スキップして市内の夜景を見に行きましょうよ、と小川先生が提案した。それはいい、と、戸山君と3人でトラムのチケット(バスでも同じだが)をフロントで買っていると農水の田町さんも来ることになった。大人数は心強いが軽快さが失われやしないかとちらりと思った。
 このスキップは正解でビデオのプレゼンテーションは最悪だったという。英語のできない日本人が英語で冗長な解説を加えるので、ぼろぼろと人がでていったそうな。あくまでも伝聞だが。つらくて見ていられなくてね、とニールさんからも聞いたので想像に難くない。
(そのプレゼンをした日本人は後でさらに大失態をすることになる。)

 プラハは夜も安全で観光客ががあふれていた。ライトアップされた旧市街は美しいし、あちこちで大道芸人が芸を披露しているし、ジャズや、バイオリンを街頭演奏している人たちも居る。2回目となる旧広場のからくり時計の時報を楽しみ、カレル橋の雑踏に混じる。小川先生が町のストアに入ってビールを買ってくださり、それを飲みながらのんびり歩く。先生が「ビールなんて飲みながら歩いているのはわたしたちだけですねぇ」と言ったそばから、ビール片手の若者たちとすれ違ったので笑った。地下鉄とトラムを乗り継いで帰ってきたのは11時ごろだった。
 外国でサービスを受けたとき、いつも悩むのがチップだ。チェコもチップが要る。大体受けたサービスの一割か100円ぐらいの妥当なほう、と言う感じだが、わたしはチェコに限らずチップはサービスに満足したときだけ、と決めている。ア・プリオリなお駄賃ではないのだ。不快な思いをしたのにチップを払うなんて冗談じゃない。
 ホテルによって対応がちがうことがあるので、ルームサービスはどうかなと思い、飲んだビールの空き瓶の傍に20コルナ貨を置いてみたが、ついに無くなることはなかった。ホテルのスナックコーナーでコーヒー(エスプレッソ)は16コルナだったが、17コルナを渡すと美しいウエートレスは優雅に受け取った。部屋の掃除にはチップなし、でいいのだろう。
 家に電話したりファクシミリを頼んでもなかなか通じないのは困った。テレホンカード(150と200コルナ)を使い果たしたが、ゆいつ、通じたときは息子がぐずっている声だけで終わってしまった。したがってお土産類の相談は最終日までできずじまいだった。
  後で判ったことだが、ホテルがさぼって届いていたファクシミリの部屋への配付を最終日まで溜めておいたのだった。さすが、もと共産圏、勤勉。
 水曜の午後はセッションはなく、希望者にはタダでガイドつき市内ツアーがあった。今まで昼と夜と歩いているのでガイドつきだと由緒がとても良くわかる。毛利先生はプラハは5回目だというのにそのツアーに参加しているんですって、面白いですねぇ、と小川先生がプラハ城へ歩きながら感想を述べた。カレル橋ちかくのトラムの線路沿いの建物の壁に、大きな裸の男の落書きがあった。念入りなエアブラシで、スモウレスラーのコニシキゼキがリアルに描いてあったのだ。本家より引き締まった体躯と精悍な目付きでこちらを見据えていた。カレル橋をわたり、旧市街へはいって3度目のからくり時計の時報を聴いた。毎正時に扉がひらき、聖者が祝福にあらわれ、天文時計の右の敬けんな骸骨が鐘をならし、左の富豪が金の袋をさしだす。短いが込み入ったからくりはとても数百年経っているとは思えない。が、それがオリジナルとして残っているのが、プラハなのだ。
 ツアーは流れ解散となたが、夜はホテルでまだまだ講演と討論が続くので、土産物を選ぶ暇はなかった。
 ここで初めて地下鉄のチケットをスロットマシーンで買うことになった。おつりは出ないはずだし、使い方はわからんし、夜のセッションの前にホテルで食事しなければいけないし、券なしで乗っちゃいましょうよと言おうとしたらばプラハの人に小川先生が聞いてくれて無事に買えた。まずエンターボタンをおしてコインの入り口をあけるのだ。帰りはコントレラス女史と偶然一緒になった。
 少々一人で土産が選びたかったので、決心して最終日の午前中を2時間ばかりエスケープして一人で町へでた。ふんだんにある色とりどりのパプリカや果物。商品を選び、買い、ゆきかう人々。貧乏旅行のバックパッカーがブドウの房をほお張りながらゆっくり歩いている。朝の市の活況はなかなか美しく、カメラを置いてきたことを悔やんだ。しかし安全な町で身軽な一人は気楽だ。いろいろなものが見えてくる。よねもとよ、しっかり記憶するのだ。
 しかし、博物館からムステーク駅までのあいだの大通りにはマクドナルド、ケンタッキーフライドチキン、東芝なんて看板がまん延している。ビデオカメラと1眼レフをもったアメリカ人観光客の1団が前を通り過ぎ行く手を阻まれる。かつて日本人の集団旅行をアメリカ人は笑ったものだが、当時の日本は最先端だったようだ。カラオケとともにガイドつきパッケージツアーも輸出したらしかった。
 息子には木のおもちゃを1200円ほどで見つけた。あと宝石店で妻のために有名なチェコ産のガーネットを買った。しばらくあれこれ見せてもらっているうちに耳飾りはピアスしか置いていないと気が付いた。これは流暢なセールストークの英語をかわすのに役に立った。どんな高級店でもじっくりと目の保養をしたあとで、「耳飾りはピアスではなく、クリップのを探しているんだが...」というと、肩をすくめて、ないというから、こちらはちょっとだけ残念そうに退散すればいいのだ。
 気が付くと随分と時間が経っていた。ボヘミアングラスも日本よりずいぶんと安いのだろうが、家に置き場がないし、大荷物だし、お金さえ出せば日本でも買えるし、と、止しにすることにした。ワイングラス、それもシェリーやシャンパンや赤ワインと目的別にそろえたかったのだが。ほかの人へのお土産は空港になりそうだと考えながら、あわててホテルを目指した。あわてたり、悔やんだり、これが旅というものさ。ふう。
 最終日の午後は、受賞講演だった。オランダのバナード博士はわたしが大学院時代から一度会ってみたいと思っていた方である(美人だという話でもあった)。聡明で、確かに美人で、気さくで、すぐにファンになってしまった。おまけにわざわざわたしを探してくれて、「あなたの発表見たわよ、とってもおもしろいから、時間取ってね。」とお近付きになれたのであった。しかし、内容は早いとこ論文にせねばならない。受賞者はもう一人、よく、海外で一緒になる毛利先生。とてもよい講演だった。先生の人生そのものがその内容だった。同席した夫人は何度となく目頭をおさえていらした。講演終了後、毛利令夫人にひとこと「かっこいい人生ですねぇ」と不躾な感想を言うと令夫人はただ深々とわたしに頭を下げられた。

 夜は着飾ってさよならパーティである。結局今日まですべて晴天に恵まれた。インターネット天気予報は大外れ。教会でバロックを聞いた後、過日日本でわたしの妻と合奏を楽しんだノーベル賞選定委員でもあるオズワルド教授がシルバーメダルを受賞し、フルートを披露した。そして食事。酒はふんだんにあり、なかなかおいしいチェコワインを白と赤を一杯ずつ、料理を二皿食べた。同席した有名なグラント先生に英語をほめられ、「どこにいたんだ?(どこか外国の研究室に居たのかということ)」日本から出たことがないことを告げると驚いていた。もとよりわたしの英語は映画から学んだものだ。文法、時制、単数複数を一切無視して雰囲気でしゃべっているといってよい。日本人てのはシャイなのが多いが、きみは違うねぇ。
 こちらもあなたのように有名な先生がこんなにフレンドリーだとは思わなかったよ。
 食事がおわると教会の中庭にでて談笑。何人かの先生と話をしていると、かのプレゼンをしくじった彼氏が毛利先生とその奥さんにクダをまいている。そこにコーネルのオズワルド先生がきて話をしていると割ってはいって失礼なことをいう。どうも、様子が変だがそういう人なのだろうと思ってその場を離れ、わたしはまだ今回話をする機会に恵まれていない幾人かの知己の先生と話に行ってしまった。
 写真を一緒に撮ったり、苦めのコーヒーで酔いをさましたりしていると、かのグラント御大がつかつかと歩み寄りわたしに握手を求め、わたしの右手に両手を添えてシェイクしながら、これからホテルに戻るが、会えてとても良かった、云々。
「ああ、丁度いいからわたしも戻りますよ、ご一緒しましょう。」
「よかった、ホテルへの帰り方がわからなかったんだ」
「26番のトラムをさがしましょう」
と最後に1パイ、チェコ人からつがれたブランデー(チェコには2ついいスピリッツがある、ひとつはベヘロフカ、もうひとつがそのプラムブランデーだ、といわれた)がいささか回っており、丁度粉っぽいコーヒーを飲み終えたところだったので引き上げる潮時だったのだ。
 主催者に挨拶をして、なんとか通りへ迷い出ると運良くトラムの駅を発見した。それも26番。「本能を信じよう」「フィーリングさ」なんて科学者たちがばかなこと言いながらトラムを待っていると、日本人数名を含む別の一団が合流した。国際的酔っ払いの、それも正装しているのから短パンにポロシャツっていうやつまでいる、陳腐な大集団と化してコースポルへ向かう。わたしはじわじわとブランデーが効いてトラムのなかで不意に眠ってしまったけれど、駅についたと山口さんが起こしてくれ事無きを得た。ま、眠って終点までいって、そのまま戻ってきてもチケットは買わずにすむ時間でもあった。金目のものもパスポートも持っていないから(本当はまずいのだが、身分を証明するものはなにも持っていなかった、時間がなくて忘れたのだ)、気楽に寝てしまったのであった。
 さて翌日、若干二日酔い気味で朝食をとりにいくと、田町さんが「昨日大変だったんですってねぇ?」
え、と聞き返すと、かの無礼な彼氏がついに飲み過ぎて倒れてしまい、毛利夫妻が看病したとのこと。その時間は、もうバスもトラムもないのでドイツのランバート先生が抱きかかえてホテルまでタクシーで帰ってきたのだそうである。
 さらに話は続く。田町さんの上司の富岡さんもいろいろと教えてもらったが、「受賞講演のあとのパーティで散々のご乱行にいたったその人に毛利先生怒ってしまって...」
 農水の人は皆嫌いだ!とどなったとのこと。帰ったら、所長に手紙を書いてやる、とまで。お役所では「文書による抗議」っていうのはかなりきついもの、となるのである。あの温厚で礼儀正しく、抑制の良く効いた毛利先生が、である。そうとうな失態だ。 まぁ、確かにわたしたちが少しずつ築いてきた人間関係に泥を塗りながら歩いた訳だから、多少のお灸は仕方がない。
 わたしがその場に居れば少しは違っただろうか?想像してみたが、その彼氏はわたしにとっても「まともに挨拶すらしない」輩だったので取り立てて何とかしてやろうなどとは思わなかったと思う。よくしてタクシーに放り込んで、ルームチャージにつけとけ、って。
 良い人間関係こそがネットワークなのだ。トレーニングの出来ていない人間が出張ってくる場所ではない。
 その彼と同室を選んだ山口さんは悲惨だった。友人を放っておいて、と毛利先生に深夜に電話でたたき起こされ、怒りの矛先をむけられたのだ。わたしは山口さんに起こしてもらって助かった(?)のに。たしかに、「(公務員)試験で入ったやつにはたまにそういうやつもいるよなぁ」と嘆く方もいた。将来有る若者の失態だ。おおごとにならねばよいが。
 翌朝はバスを空港までアレンジしてくれていたが、そのアナウンスはなく、知らなかった人が多数いた。わたしもバスが目の前に止まって初めて知ったが、約束があり、119のバスで行くことにしていた。乗れれば利用したいが約束の相手、ニールさんがこない。
 バスに乗るとも乗らずともうろうろしていると、イギリスのキール大学の大先生、エド・べーカーがつかつかとやってきて握手をもとめ、「君とは今回はあまりお話をする機会がなかったが、友情を感じている、先日は写真を送ってくれてありがとう、アランにはよく伝えておくよ」そういうと車中の人となった。絵に書いたようなイングランドの老紳士、である。先生はいつも国籍はイングランドと示している。
 つぎに小川先生が降りてきて、「あいつふとどきな奴ですねぇ、バスのなかの一番前に青い顔してすわってますけど、昨日はすみませんでしたもなにもない...」「まぁ、世の中には出あわなくてよかったように思えるようなやつは何人か居るもんですよ、今回の学会は先生とご一緒できて良かったです。つくばであいましょう。」まともな人間とだけつきあおう。とはいえ、本来なら、若造のヨネモトの方がバスへ挨拶に行くべきだったのだが。
 帰りのダッシュエイトはやたらと足が遅く、ウィーンに20分の遅着をした。乗り継ぎに1時間もないので、とにかくショップに走り込んでお土産のお菓子を買う。230だったが単位は知らない。カードで支払ってどたどた走った。くそっ、土産文化にのろいの言葉を!
 サーチエンジンで探した空港の見取り図を頭に描きながら速足で行くのだけれど、ゲートはビルのはじっこのさらに一番奥だった。思ったより大きな空港だと改めて思った。
 無事にチェックインすると、同時に20分遅れるとの放送がはいった。出発ロビーは日本人観光客であふれていた。ひとごみはうんざりだ、時間をつぶすならショップのほうがいいが、もう出られないのだ。ふう。
「ミスターヨネモト、チケットカウンターへ」
 唐突な英語の放送で呼びだされて行ってみると、
「ダブルブッキングだ、席をかわってくれないか」
 赤いジャケットを着たオーストリア人の地上職員が英語で言う。聴けば小さい子供づれの家族が並んで座りたいのだという。家族にも罪はないし、家族ばらばらなんてかわいそうだ。わたしは快く応じた。
「ノースモーキングのアイルならいいよ」
「アイルはスモーキング、ノースモーキングはウィンドウだ」
 まてよ、リザーブを学会の秘書にちゃんとやってもらって、ボーディングパスまであるんだぞ。
 そんな頭ごなしな話があるもんか、エコノミークラスだといってばかにするなよ。
 気をつけて見ていれば逆立ったわたしの髪の毛でタラスの帽子が1センチほど浮き上がったのがわかったかも知れない。
「イッツノットマイフォルト。フーイズレスポンシブルフォディスマター?」
 ちいとごねてやれ。映画、ビバリーヒルズコップのエディ・マーフィを思いだしながらまくし立てる。彼よりは少し冷静に、ずいぶんゆっくりと。
 しかし、双方ゆずらない。現時点で一番良い席だというのがトイレに挟まれたウインドウサイド。狭い、うるさい、人通りが多い、ベストシートなもんか!小声でアップグレードはできないと言っているのが聞こえる。
「イッツノットフェアーアトオール...」
 そうこうしているうちにボーディングがはじまり、ビジネスクラスも乗り込みわたし一人がカウンターに残った。持久戦に持ち込まれたのだ。
 わたし一人で遅れている飛行機をさらに遅らすってのも考えもんだった。集団の中で自分がどう行動するかを考える、それが日本人の美徳というもんだが、責任者ぬきでは話がすすまぬ、戦術に敗けるのはいやだ。と、思いあぐねていると日本人がやってきた。
「マネージャの岡野と申します」
「エコノミーのよねもとと言います。」
 憮然とした私の一言に苦笑した岡野マネージャは今までの英語の説明を日本語で繰り返した。
「小さい子供連れの家族が一緒に座れるように、というのは理解しているし当然だと思うのですが、どうも頭ごなしにかえろ、ってのは納得がいかないんです。ちゃんとリコンファーム時に座席の予約もとれて安心していましたのに、わたしだけが割を喰ってしまって、まったく誠意が感じられない...」
 ひととおり冷静にわたしの側の状況の説明をしたあとで尋ねた。
「なにか間違った主張をしているでしょうか?」
 冷や汗をふきながら、ごもっともです、と岡野マネージャ氏がおっしゃる。
「まぁ、出発を遅らせるつもりはないんですが、御社のスタッフはあまりに誠意がない、それだけですよ。家族が一緒に座れないことは悲しいことですし。わたしはわたしでオーストリア航空は二度と使いたくなくなります。」
 と、言うだけ言って、マネージャが謝罪したということでボーディングパスを受け取ることにした。客室乗務員に良く申し伝えておきますので、とマネージャ氏は付け加えた。
「いえ、岡野マネージャの謝罪で十分です。」
 またも速足。
 二人掛けのその席のアイルには20代おしまいぐらいのきゃしゃな女性が座っていた。まぁ、このぐらいなら我慢はできる。サンチアゴからマイアミへは150キロは優に有りそうな体臭のきつい巨漢が相棒だったことがある。そいつは傍若無人にわたしのテーブルにのみさしのコップをのせた。それを思えばこの席でも相手がいやでなければいいだろう。
「失礼ですが窓際の席はおきらいですか?」
「あ、いつもアイルにしています...」
 突然声をかけられて少しだけ狼狽しながらのきれいな日本語の答えが返ってきた。
「そうですか」
 ふう。
 帰ったら職場のマッキントッシュに火をいれ、オーストリア航空のウエッブサイトにつないで文句をたたき込んでやるつもりだ。権利の上に眠ってはいけない
 フライトアテンダントの日本人女性は「チケットトラブルの方ですね」と念を押し、色々気づかってくれた。岡野さんには彼の対応はよかったですよ、と伝える様に頼んだ。フォローアップしたのはオーストリア航空ではなくオールニッポンエアウエイのスタッフだったのだ。そうは思いたくはなかったが、世界的にはまだまだ東洋人を蔑視する者も居なくはない。
 離陸には永劫ともおもえる長い助走を必要とし、一定の高度まで達すると極端なヘッドアップした姿勢で水平飛行をしている。オーストリア航空とANAの共同運行便であるこのエアバスA-340、エンジンの推力が足らないのだ。そうか、日本人たち、お土産を買い込み過ぎて重量オーバーなんだな。それで水や燃料を抜いて機体の重さを調整していたから出発が遅れたのに違いない。以前、ロスアンゼルスから成田へのほとんど日本人ばかりというデルタ航空の便で同じ目にあったことがある。その時は調整がつかず、オーバーウエイトの荷物を持ち込んだワースト5が次の便へと降ろされた。名前を次々に呼ばれるたびに廻りは次はわが身かと緊張していたっけ。エアバスのヘッドアップした姿勢はタイガを切れるまで続いた。エアロフロートのイリューシンでは普通のことだが(おまけに古い機体は電源用のタービンエンジンがついていないと来ている)。さすがに成田へ向かって高度を下げるときには普通の飛行姿勢になっており、ほっとしたものだった。
 機内ではオーストリア航空の客室乗務員のひとりと、くだんの日本人女性乗務員だけに狙いを絞り、世話をやいてもらった。
「ミネラルヴァッサー、ミットコーレンゾイレ ウント ウイスキ、ビテ」
 氷はなんていうんだったっけな、けっこう滅茶苦茶なドイツ語でも通じるもんだ。コーレンは英語のコールで炭。ゾイレはサワーで酸、つまり炭酸だ。奇妙な一致ではない。日本はかつてドイツから有機化学を学んだ。硫酸も塩酸だってみんなドイツ語の漢訳なのだ。
 一方、日本語では、「ウオッカの小瓶と、氷とトマトジュース。ブラディマリーを作るので。」にっこり笑って塩とコショウとマドラーも持ってきてくれた。こういう「気が利くサービス」っていうのはいいもんだ。トラブルの客でなくてもそうして欲しいぞよ。
 トイレットペーパーをひっぱるゴトゴトという音、トイレをフラッシュする破裂音が四六時中(ほんとうは12時間ぐらいだが)後ろと横から聞こえてくる以外は、揺れも少なく、フライト自体は快適だった。ま、かならずトイレが空いていることを確認して席をたてるという特権(?)もあるにはある。
 しかし、なんでまた、オーストリア航空は朝食時にデロデロに腐った生牡蛎をたべるギャク番組を放映するのだろう。理解不能だ。
 日本海を切れ、佐渡島らしい。「小さい子のためのこの船のノベルティってなにかありませんか?」これで熊の縫いぐるみとシール遊びを息子の為にせしめて、サービス要求は打ちどめとした。
 成田は蒸し暑かった。無事に帰国すると安堵感がしてくるが、日本をなぜか外国のように感じるのが不思議だ。荷物をうけとり、税関をぬけてダイレクトバスのチケットを買い、10時05分12番乗り場を確認してしまうと、ゴールドカードの会員サービスでシャワーが使えないかという考えが頭をかすめたが、思い直し、日本のビールを味わいにスナックコーナーへ向かった。プラハのホテルの2倍以上、ストリートプライスでは4倍以上の金額の氷点直前まで冷えた生ビールはそれはそれで食文化だと感じる。チェコの物価に慣れつつあったわたしにとって目の玉の飛び出るような値段の発泡性のその液体を、目の玉が飛び出ないようにしっかりと目をつぶってゴクリとのみほした。ふう。バスは定刻に発車し、窓の外に異国のごとくの日本を感じつつ、居眠りをしながらつくばセンターへ着いた。
 息子はわたしが帰ると、体当たりと噛みつきという荒っぽい歓迎をしたが、寝る前には「クマちゃんつれてく」と言ってわたしの(そして今は彼の)戦利品を寝室にもっていった。
 わたしがグラスを傾けると妻はいつものように、コースターを敷かないとテーブルクロスがしみになると文句をいった。

たぶん、後日談がいろいろと出てくると思う。
でも、これで今回のプラハ紀行はおしまい...


これはフィクションです。
いくつかの実在の団体、人物を参照していますが、おおはばな脚色を加えており、
実在の人物、団体とは関係はありません。

著作・制作:登場人物「よねもと氏」に良く似た ねもとまで
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