怖い話2

 筆者はその昔、スキンダイビングを教えていたことがある。タンクを背負うスクーバダイビングと違って息をとめて潜るんだからその分実は技量が問われる。そのまま15メートルほど潜ってしまうのだが、日本の海は大概、10メートルも行くと真っ暗になってしまうので、コワくてかなわないから早々に上がる。海水は重いのですぐにはそうならないが、5メートルも潜るとそれからあとは水圧で勝手に肺が押しつぶされて墜落していく。10メートルを過ぎるころには人間の身体はこれほどになるものかと思うほどピンの様に細くなっている。その分、血液に余計に酸素が溶け込むので潜れば潜るほど息が続く。でも、息こらえは常に肉体的限界より精神的限界が早く来るものなので、苦しいと感じて浮上してしまうものなのだ。

 そういうときでも、海中の決定的瞬間を見たくってもうちょっと潜っていたいっていうときにはマスクの中に少し、ほっぺたの中に少し息を吐きだす。でほっぺたを膨らませたりひっこめたりしてわずかな空気を呼吸することで自分の脳を少しだけ慰撫してやって時を稼ぐのだ。

 一般に息こらえは思いっきり吸うより1割ほど少なくしたほうが長くこらえられるというが、それはおそらく地上での静止状態での話だ。スキンダイバーは大気充填120%!潜水!!とやる。で、水圧で張り付いてくるマスクの中に鼻から少しずつ吐くことで呼吸本能を騙すのだ。息こらえを本質的に延ばすが、二酸化炭素分圧の上昇に気がつかない過換気は避ける。いきなりブラックアウトするからだ。たぁっぷりと吸って潜水してから少し吐いて、口の中の空気をやり取りして欲求を満たす。そのぐらいにしておく。水中でちょっと息を吐いてリラックスすると30秒ほどで徐脈効果があらわれ、心拍数が落ちる。それでますます水中に適応したスキンダイバーとなる。装置で潜らせてもらうスクーバは装置に対する理解が重要だが、こまかな節約で潜水時間を延ばすスキンダイブはよりスポーツ性も高いとも言える。もっとも鼓膜を取り去って純酸素を呼吸して重りとともに落下するディープダイバーにはなりたくない。私の場合はあくまでも釣魚の生態観察、水中の生態学が主な興味だ。あ、若くて健康な水着姿の女性の生態にも少々興味は、ある。

 私はスキンダイバーだが、もちろんCMASのオープンウオーター(スクーバ)のライセンスは持っている。ここはジャック・クストーが創設した団体で、インストラクターになる試験が最も厳しいということ、世界中の海で潜れない海はない、というのでそれにした。ある団体は泳げなくてもインストラクターになれるんだそうな。泳力試験も100とか200メートルとかで良いらしい。それでも落ちたら、お金を払えばいいんだそうである。これも、実はとてもコワイ。
 でも機械に潜らせていただくのはもっと年取ってからでもいいかと思っている。そりゃ、水面下30メートルで呼吸する4分の1に圧縮されてトロ〜ッとした空気ののど越しも魅力はあるんだが。

 泳力といえば、筆者の二十代後半というのはまさに水泳三昧であった。夏の五日間、寝食を供にしてスノーケリングの実習をやる。いちばんすごかったときはこんな具合だ。朝起きる。朝飯前に1キロほど泳ぐ。前日の残り湯で冷えた身体を暖め、朝食にどんぶり飯を3杯も喰らう。朝九時からの実習前にもうひと泳ぎ、1キロほど、そして実習で2セットスキンダイブして、昼をたべて、午後1セットダイブしてそれからもうひと泳ぎ。5日間が終わるころになるとヒザや肩が見て判るほど引き締まってしまうのだった。

 その海の仲間の先輩の魚の専門家でいろいろな本やディジタルメディアで活躍中の方に聞いた。この人はガンガゼ(ウニの仲間で棘が折れやすく刺されると痛いやつ)や電気クラゲの異名をとるカツオノエボシ(こいつにやられると、いきなりドカドカと何かで殴られたような刺激が最初に来るので「なんだ!?」と思う)その他海洋生物のかなりアブナイのものに遭遇して体験している方だ。その方からヤシガニに指をはさまれたというコワイ話を聞いた。

 ヤシガニというほとんど陸生の蟹で縦歩きができる。大きなハサミでヤシの実を切って落すのであぶないから、南方ではヤシガニよけにヤシの木の胴にトタン板を巻いてある。爪が立たなければ登れない。ガラス板の上のカブトムシ、である。このヤシガニのハサミ、挟まれると大人の指でも簡単に切断するほど強力だ。なので、まず、この手のカニを捕獲するときはハサミを閉じる方向に押さえつける。開いたハサミを閉じるのには怪力を発揮するが、ハサミを開く力はそれほど無いからである。生きたワタリガニやオマールエビのハサミがちゃちなゴムバンドで封じられている理由である。

 で、先輩、そのときあえなく捕獲に失敗した。右手拇指がしっかりとカニのハサミに捕まり、振りほどこうとすればきゅうっとハサミが閉じられて一巻の終わりとなる。ぱちん、ああ。...先輩が咄嗟に取った行動とは...やにわに先輩の右手拇指を捉えたカニのハサミに...噛み付いたのだ。カニの怪力も支点あってのこと。そしてカニのハサミは可動部分は一ヶ所である。ちょうどヒトが親指だけ動かしているようなものだ。それを知っていた先輩(知っていたってできるもんじゃあないぞ)、ガリッとカニのハサミの可動部の付け根に自分の犬歯を突き立て噛みつぶしたのだ。支点を失った怪力ハサミはあっけなく先輩の親指を開放した。ハサミのあとは残ったが大したキズにはならなかったという。


 そんな百戦錬磨の先輩に私は皆の前で今まで経験した一番コワイ話を所望した。

「...ああ、そりゃ、居眠りだな」

「いねむり、ですか?」

 ホオジロザメと格闘したとか、海底洞窟に閉じ込められたとかいう大冒険譚を期待した私は少々失望したが先輩はかまわず続けた。

「マンタの回遊の時期だからとリーフのへりに腰掛けて待っていたら、あったかくって気持ち良くって、ふっと気がついたら眠ってたんだ、ありゃぁなにより怖かった」

 私は震え上がった。たしかに、コワイ。すんごくコワイ。え?なんでコワイのかって?海底で寝込んで空気が無くなったらコワイ?ブブー、ハズレ。海中で空気が無くなったって、リーフはサンゴ礁の事だからそれほど深くない。ホントウに空気がなくなったらBCD(ベスト)の中の空気を吸えば良い。浮上するに従って空気は膨張するからゆっくり落ち着いて浮上すればよい。

 解説しよう。リーフのへり腰掛けて、がポイントだ。リーフというのはサンゴ礁だから、日本の場合そこは島である。サンゴ礁を持つ島というのは火山島で海底深くからそびえる険しい山である。リーフのへりに腰掛けているというのであるから中性浮力をとっているのではない。と、いうことは....自分の知らぬ間に奈落の底へのサイレントダイブである。水中感覚に馴れた身体は落下中も目覚めないだろうな....そして、死体は、上がるまい。


 あなたは東京タワーの上のソンブレロハットのへりに腰掛けて居眠りできます?

ああ、コワイ。コワイ。


2000.06.01|目次ホーム