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私の今朝は、ヨーヨー・マ演奏のバッハ無伴奏チェロ組曲で始まりました。二枚組CDの一枚目を聞き終えた辺りで止め、次はいきなり矢野真紀の大きな翼です。このセンス、何なんでしょう。自分でも不思議です。まぁいいです。エンジンかかりそう、「大きな翼はうずいてる〜」だそうです。声出して一緒に歌ってみるのもいいかも。
って、今日は、できないかもしれないけど、やってみようと思っていることがあって。わぁわぁわぁ。できるかな。でっきるかなぁ。
今日から或る事を試みてみることにしたのです。約三ヶ月。試み試み。単なる試みです。試みだけど、試みなんだけど、わぁわぁ、何だか嬉しいのです、やろうと思ったことが。やってみようと思ったことが。もちろん途中で挫折する可能性が大で。なんですけども。昨日病院の帰り道、一冊の本を手にとって、あぁやってみよう、と思った自分は嘘じゃない。できなくて当たり前、できなくて当たり前、だから自分に試してみようかと。
もしもし、さをりさん、大丈夫ですか? 頭の回線、ショートしてません? 
多分大丈夫でしょう、まぁこのくらいなら何とかいけるんじゃないですか、小難しいことは後で考えることにして。まぁやってみちゃいましょう、はい。
途中で挫けたら余計に穴深くに落ち込むんじゃないの?
それもまぁ、そんな気がするのですけど。落ち込むのはいやですけど。でも。まぁいいじゃありませんか、それも後で考えましょうよ、とりあえずやってみて、きっかけは何でもいいの、一歩、まず一歩。ほら、コンポから流れてくる歌も歌っているじゃあないですか。
「猜疑しすぎた痛い瞳からは
眩しい陽光が映っている“自分を愛せ”と
大きな翼はうずいている
記念すべき今日が今はじまる」

何だかよくわかんないけど、そういうわけで今日の始まり。ははは。
2001.11.1 Thu.

うまく焼けない、何故だ、おかしい、これだけやっているのに…と。
あぁ、その原因にもっと早く気づけばよかった、気づくべきであった。何故気づかなかったんだろうか、私は。この現像液は三年前に買ったものだ。妊娠前に買ってしまって、その後買ったことを忘れてしまい込んでいた奴だ。なんてこった。現像液にも賞味期限みたいに消費期限のようなものがある。もってもせいぜい一年だ。印画紙も。二年三年も寝かせたものだとグレーの階調は潰れるばかり。
すっかり忘れて、棚に長いこと寝かせていた代物を使ってしまったその結果は…。言わずとも知れている。見ての通り。ボツの印画紙がほら、こうして山のように…。
でも。それに気づいたのはさんざん現像作業と格闘した数時間後で。もうやりなおす気分にはなれそうにない。腰も限界だ。あぁ散々。折角久しぶりに頑張って焼こうと思っていたのに。溜息も出ない。

そんなこんなで、朝からエンジンをふかし過ぎて疲れてしまった。ぐったり。まぁこんな日も、ある。
2001.11.2 Fri.

保育園からの帰り道は娘と私のちょっとした散歩になる。
この辺りは結構猫が多い。先日は、全員全く同じ柄の、母親猫と兄弟猫三匹が娘と遊んでくれた。あれは飼い猫か、それとも半野良猫なのだろうか、子供が触ってもごろごろいったり前足でじゃれついてきたりするほど慣れているのだもの、野良猫じゃぁないよな。
犬もたくさんいる。それも、老犬が多い。よぼよぼのおじいさんおばあさん犬は、娘がきゃぁきゃぁ言って頭を撫でにいっても、はぁそうですかぁ、といった顔でぼよーんとしている。いつも撫でさせてくれてどうもありがとうです。
そんなこんなであっちこっちで犬に会い、猫に会い、鳩に会い、酒屋さんや八百屋さん、魚屋さん、畳屋さん、ちょっと時間が止まってるんじゃぁなかろうかという店たちの前を通って、ようやく家に辿りつく。すっかり日も落ちた頃。
2001.11.2 Fri.

目が覚めてしまった。いつもよりずっと早く。仕方ないので起きて顔をばしゃばしゃ洗ってみるが、中途半端眠気の波がゆらゆらと。これじゃぁ再び寝床に戻ってしまう、でもそれはもったいない、せっかく雨が止んで空が綺麗な色を出しているのに、なんてことを思って、冷蔵庫に常備してあるユンケルの一本をぐいと飲み干す。やぁきっとこれで起きられるだろう。これで起きられなきゃユンケル、君のせいだ。
昨日は書き記すほどのことが何もない一日で。雨が強く降っている中、淡々と一日は過ぎ。夜も、いつものように娘がトトロを見たいと言い出したのでトトロを見。トトロも毎晩見てると飽きちゃうよなぁとそんなことを思い。
それにしても空が綺麗だ。稜線の薄橙色から上方へ向けて水色が広がり、まだ抜けきらない雨雲がふわっと乗っかっている。じきに沈む白い月が雲間から時々顔を覗かせる。この空を見ただけで一日分得したような気持ちになれる。
きっとあの空の中は凍てつく冷たさなのだろう、そんなことを思っていたら突然、この部屋の中も晩秋の気配を纏い出していることを思い出し、ぶるんと背中に震えが走る。
さてそろそろ珈琲を入れよう。あったかくなりたい。
2001.11.4 Sun.

最近お線香がいい。お線香がいい、という言い方で良いのだろうか、こういう場合。頭がうまく回っていないのでまぁいいということにして。ひばのお線香が売っていて。衝動買いをしてしまった。お線香、お香の類は嫌いじゃない。嫌いじゃないけど最近は柑橘系の香りの方に偏っており。すっかり忘れていたというところで。ひばのお線香。煙草吸った後の換気扇の下、珈琲片手にひばのお線香。こう言うと変な構図だけど。煙草に珈琲にひばのお線香。いいんです、これが。まったりとして。いい感じなんです、ほんとに。
と、気づいたら雨。出しっぱなしにしていた洗濯物を慌てて取り込んで。
そろそろ床の冷たさが気になり始める季節です。
2001.11.5 Mon.

誉められた言葉って、人はどのくらい覚えているものなのだろう。否定された時のことを具体的に書いてごらんなさい、それから、自分が誉めてもらった時のこと、肯定されたときのことも具体的に書いてごらんなさい、という問いにあって、私ははたと止まってしまった。
誉められたり肯定してもらって嬉しかった記憶は、その後すべて、自分がどうしても思い出したくない出来事や記憶と、私の場合、密接に繋がっているということに気がついた。だから、誉められた、嬉しい記憶を思い出そうとすると、心が苦しくなるいやな記憶も同時に、芋づる式に思い出されることになり。だから私は、誰からか言われて嬉しかった言葉を思い出すことがひどく困難なのだ。
誉められて嬉しかったことなど思い出さなければ、その後続いて思い出される厭な記憶も思い出さなくて済むから、ということなのだろうか。
正直戸惑っている。
私以外の人たちは、どうなんだろう。自分が肯定されて嬉しかったときのことを、こんなふうに苦しくなったりせず、すんなり思い出すことができるんだろうか。

何となく心が重い。
2001.11.6 Tue.

病院の帰り道に立ち寄ったスーパーでほうれん草の白和えを見、食べたいなぁと思って思わず買いかけたのだけれど、いや、ほうれん草も蒟蒻も豆腐も胡麻も全部、うちにあったと思い出し急いで帰宅。勢いで白和えを作ったら、ちょっとこれ、塩味が強かったかも。うぅん失敗。でもまぁいいか。ちょっとくらい仕方ないか。
そんなことを思いながらタッパーに白和えを入れて冷蔵庫にしまっているところに呼び鈴、宅急便が届く。やけに重いと思ったら、直径二十八センチ、馬鹿でかい南瓜が入っていた。これ、一体何食分あるんだろう。
2001.11.7 Wed.

明日はだめかもしれない、昨日はだめだったかもしれない、一昨日もだめで明後日もまただめかもしれない。でも、今この瞬間はこうして、息を吸って吐いて、そう、大丈夫なのだ。いつだって今この瞬間は、何だかんだ言って、踏ん張って生きているのだ。
今が大丈夫な瞬間だ、ということを、忘れていた。
大丈夫な瞬間の今が、ひとつひとつ、連なって、今日になり昨日になり一昨日になり、一年になり二年になり三年になり、私の年輪を作っている。
ということは、いつだって大丈夫の連なりなのだ。たとえそれが、二度と見たくない光景でも、二度と味わいたくない出来事でも。
今の連なりがこうやって螺旋を描いて、私を少しずつ形作っている。

今日は珈琲がおいしかった。だとか。
向日葵の蕾が一センチに膨らんだもののそこから大きくならない。だとか。
すっかり水をやり忘れて干からびているガザニアから、またひとつ、蕾が膨らんできた。だとか。
友達が教えてくれた本の名前が今読んでいる本の中に出てきた。だとか。
電話をくれた友達がありがとねと言ってくれた言葉がとてもあたたかくやわらかく私の心の中落ちてきたこと、だとか。
そういうごく些細なことに、もっともっと目を向けてみたい。きっと見落としていることが山ほどあるに違いない。そうそう、公園で鴎が人から餌を貰っているところを今日初めて見かけただとか。そんな、過ぎ去ったらどうでもいいかもしれない諸々の出来事を。もっとたくさん。見ておきたい。

そんなことを思った今日。
2001.11.8 Thu.

一日がゆるりゆるりと。まるで降る雨の如く。ゆるりゆるりと過ぎてゆく。
何となく始めたクロスステッチに気づいたら夢中になり、あっという間に時計の針が進んでいく。
本も何も読まず、ただひたすら針を進めるばかりの布地の上に、下絵も何も描いていない模様を作る。終りがあるのかどうかも分からないまま。終りがない、辿りつかないというのは時として不安を生みもするが、一方、妙な心地よさも呼び覚ましてくれるもの。
右に左に、上に下に。針を進めて。ただひたすら手だけを動かし何を思い煩うこともなくただひたすら。なんかいい感じだなぁ今日は。淡水魚になったみたいだ。
娘を寝かしつけてからも尚、ちまちまといつまでも縫っている私に飽きれた夫が苦笑する。
一緒になってから、お互い、思ってもみないそれぞれの癖を見つけ、日々飽きれたり感心したり。そうやってこれから何年過ごすのだろう。これもまた、終りの見えない一つの道だ。
天気予報は明日も雨。洗濯物は日曜日まで延期かな。
2001.11.9 Fri.

風呂場で娘とシャボン玉をして遊んでいたらあっという間に時間が過ぎ。ふたりともすっかり茹蛸になってしまった。それにしても、風呂上りの蜜柑はなんておいしいんだろう。口の中で瑞々しさが弾け飛ぶ。体中の細胞の端々に、蜜柑の香りが染み渡る。
窓の外に視線をやって今気づいた。雨が止んでいるのだな。室外機の上においたガザニアの葉がゆらゆらと揺れている。窓はちゃんと締めているのに窓の境目で風の音がしている。すっかり季節は冬なのだ、あぁもういい加減衣替えを済ませねば…。実はまだ手も付けていない、だらしのない主婦がこの私。
2001.11.10 Sat.

 セブンイレブンのおでんはおいしくて、家で作ったおでんはおいしくない、というのは、何故なんだ、手間隙かけて作ったものより、そこでさっと買ってきたものがおいしいなんて。うぅん、何なんだ何なんだ、こんなんなら作り損じゃないか。もう。
 でも、昨日作った、豚肉と牛蒡と人参と蒟蒻をよーく煮込んだ代物は、今日になったら余計に味が染み込んでいておいしかった。これだけでもよかったとしようか。

 娘が熱を出している。振り返ると、一ヶ月に一度は熱を出すという具合か。こういうものなのかな、幼子というのは。
 そんなこんなでべったり娘と過ごすこの数日。トトロと魔女の宅急便が大活躍している。一日中、交互に見たがる娘は、この歳にしてながら族と化している。テレビを見ていないでお絵描きしていたりするのに、スイッチを消すと怒る。見てないからいいでしょ、と言うと、いやいやと首をぶんぶん振る。じゃぁ見るのかと思いきややっぱり見ない。見ないでそっぽを向いていたりする。でも、要所要所はちゃんと見ているらしい。突然笑い出したり怖いとしがみついてきたり。ながら族ってなかなか忙しいんだな。
 少しでも早く熱が下がるといい。真っ赤な顔してぐずっているのを見るのはいつだってしのびない。
2001.11.12 Mon.

 絵描きのS氏に電話した。電話するなり、悪い、俺今忙しいんだ、別の時に電話してくれる?と言われ、はいはいじゃぁねと電話を切る。その間一体何秒あったのか。あまりのあっけなさに電話を切った後受話器に見入り、ちょっと笑った。
 でも、忙しいというのはいいことだ。そもそも、彼がサラリーマンか何か、いわゆる定職というものに就いている人だったなら、昼間に電話なぞ私はしなかっただろう。今年の初め、絵のことでまた外国に行って来ると電話で話して以来何の音沙汰もなかったから、さて今頃どうしているだろうと思って掛けた今日の電話だった。あの頃、とりあえずカルチャースクールの仕事をしながら絵を描いているという状態で、展覧会なぞの予定が一切未定のままの彼だった。絵が売れなくて食費にも事欠くときには、廃品回収の仕事をして賄っていたこともあった。会おうかと言って会っても財布の中が恐ろしいほど寂しいことなぞしょっちゅうのことだった。
 それが、忙しい、という。実情を何も知らずにこういう無責任なことは言うべきではないかもしれないが、彼が忙しいと言ってくれることは何だか嬉しい。
 絵を描くということ、絵に限ったことではないが、自分の内界に深く沈み込んでそれを描き出すということを生業にしている人間にとって、作品制作は決して生易しいものじゃぁない。己のうちを肥やしながら、同時に生み出すという作業も為すわけで。どちらが欠けても、成り立たない。そして、その前者は、言葉で言うのは容易いが、実際に為すことはとても難しい。
 己を自分で肥やしていくこと。己の内なる大地を耕し豊穣な土地にしてゆくこと、幾つの季節も越えてその豊穣さを維持してゆくこと。外界がいくら劇的な変化を遂げようと、外界が劇的だから己が肥えるというわけではない。どんなに平々凡々な日常でも、それを注意深く観察し、自分が何を感じ何を受け取ろうとしているのか同時に何を拒み何を捨て去ろうとしているのか、そういったことにいつも聞き耳を立てていなければならない。そういった小さな変化の積み重ねに聞き耳を立てることで、自分の深淵が時に垣間見えるのだ。そう、時に。いくら聞き耳を立てても常に聞こえるわけではない、心の声というのはとても小さなものだから。
 彼がこれまで私に忙しいからと言うときは、実際の手元の忙しさももちろんだが、それ以上に、心の忙しさを指していることが殆どだった。だから思うのだ。心が忙しいのは大変だけれど、心が忙しく自分に向かっている時間は、ぜひ大事にしてほしいなぁと。
 と、こんなことを書いていることが氏にばれたら、きっと突っ込まれるに違いない。俺にそんなこと言ってる前に自分はどうしたよ、と。ごもっともな話で。だから氏には内緒にしておこう、こんなことを書いてたなんて内緒内緒。
 ごもっともついでに、そうだそうだ、私自身、自分の心に、素敵な意味で忙しくありたいと思う。さて、今度彼に電話をかけるのはいつになることだろう。そうだな、自分がもう少し栄養をつけてからがいい。

 気がつけばまた雨が降り出している。空もずいぶんここのところ忙しそうだ。雨が降ったり止んだり、光が溢れ出たと思ったらまた雲にずぅんと覆われたり。あぁ洗濯物を干しっぱなしだった、すっかり忘れていた、急いで取り込まねば。
2001.11.13 Tue.

 駅まで行く一番の近道は、家の裏手にある公園の中を通ってゆくことだ。
 公園にはたくさんの桜の樹が植わっており、中ほどには、道を挟んで片側に池が、片側に子供の遊ぶスペースが作られている。
 ここに引っ越して来たのは六月に入ってからだった。だからまだこの公園の桜は見ていない。が、これだけたくさんの桜の樹があるのだもの、それはもう美しいことだろう。今日、駅から家まで帰ってくる道すがら、空を見上げながら少し歩いてみた。道と空の間、桜の枝々が丸くアーチのように伸びている。夏には色濃く生い茂っていた葉はそれぞれ思い思いに色を変え、ある者はまだ枝に残り、ある者ははらはらと舞い落ちて道を埋めている。枝に残った者たちもこの季節のせいか、少し痩せたようだ。葉と葉の間から見える空が日に日に大きくなっていく。そういえば桜の樹も裸になるんだったっけ、と、当たり前だろうことに首を傾げた。幼い頃一時期住んだ場所の、川沿いの風景は何故かいつも冬で、そこには必ず裸の桜の樹が並んでいたのに。今思い出そうとしてもうまく思い出せない。裸の桜の樹が並び立つ様子は思い出せるが、一本一本を私はきっとよく見ていなかったのだろう。この冬が来たら、この公園の桜の樹の裸の姿を、一本一本見て回ろう。あぁ、そういえば空も見たはずなのに、空の色を思い出せない。どんな空色だったのだろう。今度はちゃんと空の色を覚えておこう。
 桜の枝のアーチから下方に目を下ろしてくると、桜の樹々たちの足元には紫陽花が植わっている。六月に越して来たとき、それらは満開だった。殆どの株が蒼い花びらをしていたことを覚えている。蒼い花びらの群れの中に時折、薄桃色、紫色が、本当に時々、混じっていた。今紫陽花の株を見ると、もう十一月だというのにいまだに花をつけたままでいる株たちがいる。もちろん花はすっかり色を失い、まるで汚れた葉と仲間だというかのように同じ色で佇んでいるのだが。あの花たちは一体いつまで枝の先にくっついたままなのだろう。改めて紫陽花を眺めていると結構な数の花がそうやってくっついていることに気づく。中に二つほど、恐らく病気になってしまっているのだろう、株全体が黄色く変色し、枝の色合いも乾いているものたちがいた。
 でも何故だろう。季節のせいだろうか。立ち枯れている姿を見ても、かなしいとは思わないのだ。これから冬に向かって彼らは深くゆっくり眠り、再び春に芽生えるのだ、と私が思っているせいだろうか。これが彼らが青々と生い茂る季節であったなら、私は、立ち枯れた姿の前に立ち止まり、多分きっと、重苦しい気持ちになっていたに違いない。
 紫陽花を眺めながら、私は公園の中を少し遠回りして帰った。途中いつもは通らない石段を歩いて、笹の葉やつつじの葉の色を確かめながら、今度見るときはどんな色になっているだろうと思いながら。時間にすればそれはたった数分の寄り道だったけれど、今度歩く時の楽しみが一つ増えた気がする。
 冬というのは不思議な季節だ。人間は冬眠こそしないけれど、でも体の活動はとても緩慢になる。自分の体温を奪われ過ぎないように用心しながら、ゆっくりゆっくりと、呼吸する。
 私はそんな冬がこのうえなく好きだ。
2001.11.14 Wed.

 慌しく日を過ごしているうちに、ベランダの向日葵の蕾から、一枚、二枚、三枚、花びらが開き始めた。
 蕾はたった一センチ、直径一センチあるかないかの小ささで、だから開いた花びらも、五、六ミリしかない。
 十月あたりから向日葵の葉は病気になってしまい、今ではすっかり白黴だらけになってしまった。赤いアブラムシも、いくら指で潰しても潰しても、集まってくる。開き始めた花びらにもそれはついており、私は小指の爪を使って、何とか潰してみた。でもきっと、明日にはまた、新しいアブラムシがやってきて葉や花から水分を吸い上げてゆくのだろう。向日葵がこのプランターにある限り、私とアブラムシはいたちごっこを為すことになるに違いない。
 黄色い色が蕾からちろんとはみ出してきたとき、私はどきどきした。あぁこれなら、たった一輪でも咲く花の姿が見られるかもしれない。それから一週間、ゆっくりゆっくり、蕾は力を蓄えて、ようやく花びら三枚を伸ばし始めた。
 花を咲かせる。それは、向日葵にとって、どのくらい力のいることなんだろう。向日葵の季節である夏であったとしても、それはきっと、大変なことに違いない。全身全霊を蕾に傾けなければ、開かせることは叶わないくらい。しかもこの向日葵は、私の気まぐれで秋から冬などという正反対の季節に植えられてしまったのだ。日差しの量も温度も、全部、彼らにとっては足りないに違いない。その中でさえ蕾を広げようとする、その力は、一体何処からくるのだろう。この細っこい茎や頼りない葉たちの一体何処から。
 自分の心のざわめきにばかり目をとられて、もう少しで向日葵のことを忘れてしまうところだった。黄色い色がちらちらベランダで揺れているのに、私の目はそのことを気づいていたのに、じっと見つめるだけの余裕はなかった。心に向日葵を思う余裕が、私にはなかった。そういう一週間だった。
 でも多分もう大丈夫だろう。今朝、ゆっくり、向日葵を撫で、葉や茎を撫で、他の蕾も指で撫でた。そして撫でるだけの余力が自分の中に戻ってきたことを知る。
 そうだ、これからが大変なのだろうけれども、でもとりあえず、最初の心の大波は何とか越えられた。次の波も多分きっと、何とかやれるさ。
 冬の向日葵よ、どんなに小さい花でも、咲けよ、私の為に。
2001.11.18 Sun.

 その日、誘われて、ここ数年下りたことのなかった賑やかな街まで出掛ける。ちょっと勢い良く足を踏み出したら前を歩く誰かの靴の踵を踏んづけてしまいかねないくらい行き交う人、人、人、人の群れ。一体何処からこんなにも人が集まってくるのだろうと思う。
 喫茶店に入って相方を待つ時間。心のことを考えた。心の内側にひっかかってることのひとつに思いを巡らせてみた。
 家の中で過ごしている一人の時間に、同じように考えても出なかった答えが、ふと浮かぶ。自分がひっかかっていた事柄の根源は何だったのか、何故そんなにもひっかかって離れないのか、そしてそれを撫でてやるにはどうしたらいいのか。そんなことが泡ぶくのように次々鮮明に浮かんで来。
 窓のすぐ近くのこのテーブルからは、駅から下りて来る人駅へ往く人の行き交う様がすっかり見渡せる。しゃがみ込んで靴の紐を結び直す人、それを避けようと右に足を踏み出す人、信号が変わる時間さえ惜しむように携帯電話に指を走らせる人、腕を組んで歩く女性二人組、その二人を追い越してゆく毛糸の帽子を深く被った人。
 心の中にうずくまっていた事柄が、人々の行き交う様にオーバーラップするようにして私の眼の中、次々浮かんで来、私はそれをひとつずつ、できるだけ丁寧に、自分の言葉に変えて、より鮮明な形にしようと試みる。
 書き出したノートはいつのまにか六頁も進んでおり。一息つくために注文したアイスティーに口をつけ。
 それができただけでも、この外出は、私にとってとても尊いものに思える。
 でも、多分、もう、この町に、私は自分から進んでやってくることはないだろう。隣を往く人が無機物のように思えてしまってならないような雑踏を、好んで歩きたいとは、今の私はもう、思わないだろう。物に溢れ、そこを往く人までもが物に見えてきそうな中を歩くには、私の心は生々し過ぎる。
 人を人と思えないほど込み合った雑踏なら、揉まれ疲れてまで歩くことは、今の私にはもう、必要ない。
 通り過ぎるだけで充分な、場所。
 さぁ、体温を取り戻せる、自分の場所に、早く帰ろう。
2001.11.19 Mon.

 活力を取り戻せないまま昨日という一日を過ごし、迎えた今日は、朝から洗濯を二回こなし、その後自転車で本屋へ。粘土細工の本なぞ買って、珈琲でも飲もうかと喫茶店に入ったら、店内は禁煙とのこと、仕方なく外の席で、上着にくるまったままフレーバーカフェなるものを飲む。ちょっと甘いけど、たまに飲むにはいいのかもしれないなぁと思いながら。
 鞄に入れてきた読みかけの本の続きをひらくと、ちょうどいいタイミングで自分が思っていたことがその人なりの言葉で書かれており。あぁ同じ事を言ってると妙に感じ入りながら読み進める。この本は何故か、あぁおんなじことを思ってる、と思う箇所が本当にたくさんあって、読むたびひとりほくそえんだりしてしまう。
 それにしても、私はどうも、非現実的なんだなと最近思うことしばしば。ここでいうところの現実的とは、生活の糧を支えるための金を稼ぐという意味合い。要するに、私は、生活を支える金を稼ごうという思考回路及び行動が欠けている気がしてならない。最近、あぁこれやってみたいなぁやりたいなぁと思いつく事柄を省みてもまさにそのことが言えて、これじゃぁ絶対いつか飢え死にするだろうなぁと苦笑せずにはいられない。
 この非現実的な私の傾向は、一体何処から培われたのだろうと不思議になる。育った家庭環境を省みれば、まさに現実的な環境であったはずなのに。おかしいなぁ。

 多分昨日私が脱力して一日を無為に過ごしてしまったのは、前の日に、価値観の異なる人と長いこと話をしたせいだろう。話をしていた時は気づかなかったけれど、私はひどく疲れてしまっていたのだ。
 でも、今日、自分の時間を少しでも持つことができたおかげで、活力が少し、取り戻せた気がする。やっぱり自分の時間を一分でも二分でも、持つということが、大切なんだと実感する。
2001.11.20 Tue.

おばちゃまのところで一時間を過ごす。瞬く間に過ぎてしまったけれど、無理して出かけてよかった。やはり、心通じ合う人との時間は貴重だ。

野見山先生の、この秋に亡くなられた奥様のことを記してある記事、そして、奥様にとアガリスクのお茶を送ったのだが間に合わず奥様は亡くなられてしまったことを知って悲しかったこと、石原慎太郎の息子だか何だかが書いた「石原家の人々」を読んだけれど面白くなかったこと、石原慎太郎の文字はこれでもかってほど汚くて、専属の編集者以外読めないほどだとかいう話、言葉が遅い娘のことを話すときっとある日突然大人みたいな言葉で喋り出すのよ、私は喋るのが早かったらしくて、でもそのせいで大人になっても子供みたいにこんなに「遅口」でしか喋れなくなっちゃったわ、というおばちゃまの言葉。
おばちゃまのいれてくれた濃い目のお茶を飲みながら、そんな他愛ない話をして過ごす。
ここのところ疲れ気味で、ずいぶん無為に日を過ごしてしまったが、本当に、今日、無理して出かけてよかった。夫が朝、早く出掛けろとしつこく言ってくれなかったら、私は今日も一日家にいて、ものもらいになった娘と一緒に過ごすばかりだったろう。

込み合う電車に乗ってことことと。帰り道、揺られながら、駅からは殆ど走って家まで。バトンタッチして今度は夫が出掛ける。

慌しいけれど、こんなふうに、出かけて良かったと思えることが、嬉しい。
また近いうち、ちゃんと時間をとって、おばちゃまに会いにゆこう。
2001.11.22 Thu.

 娘が私の机から紙を引っ張り出している。何をするのかなと見ていると、床に散らばした色鉛筆でぐちゃぐちゃと線を描いている。描いている途中で紙に穴があいた。穴をじっと見つめる娘の目。やがて彼女は、その穴に指を突っ込んで、紙をちぎり始めた。あっというまに紙は細長い切れ端に変わる。面白そうなので私もその切れ端を拾い上げて一緒にちぎってみる。びり、びりり、びりびりり。
 わたしたち二人の手によって、気がつけばA4二枚の紙はすっかり細かくちぎられ、床は紙切れだらけだ。ふと思いついて、紙切れを拾い集めて彼女の頭の上からかけてやると、顔をくしゃくしゃにして喜ぶ。調子に乗って拾ってはまた紙切れをかけてやる。彼女も同じ動作を始めた。ふたりして紙切れの雪にまみれて、体中のあちこちが雪だらけだ。
 後で掃除が大変だとか、そういったことは一切忘れて、ちぎっては拾って相手に降りかけて、一心不乱にそればかりを繰り返す。
 気がつけば、寝床の方まで紙片の雪が飛び散っている。布団の下にまで入っていたり、猫の背中にもくっついて。ふたりで雪のかけあいをしているうちに、こんなにあちこちに飛び散っているなんて。あまりの様に思わず笑い出してしまう。

 午前中のひとときが、そうしてゆっくり過ぎてゆく。
2001.11.25 Sun.

 危険物あぁこが、今新たに危険物と化している。私のプリントアウトした原稿から何から全部、目に付くものをびりびりやるのだ。ご飯を作っていて、静かにしてるなぁと思って娘を見ると、びりびり。トイレに入っていて、珍しく追いかけてこないなぁと思っていると、やっぱりびりびり。
 よほど紙を破くことが気に入ったと思われる。うぅん。娘よ、楽しんでいるのは嬉しいのだけれども、破いちゃいけない紙まで破かないでおくれよ。お願い。

 言葉を吐き捨てることは、そんなに難しいことじゃぁない。吐き捨てた先で、誰がそれを受け取り、どんなふうに受け取り、それをまたどんなふうにその相手が咀嚼するかといったことを一切考えず、ただ吐き捨てるだけならば。
 けれど、言葉とは道具だ。人と人とを結ぶ道具なのだ。あくまで言葉の先には誰かがいる。人が、いる。それは時に全くの赤の他人であったり、時に自分自身であったり。
 だから、言葉をいたずらに吐き捨てて後は知らん振り、というのは、気がつく限り自分はしたくないと、そう思う。
 道具とは使い方次第。相手を殺してしまう刃にもなれば、相手を包む衣にもなる。
2001.11.28 Wed.

私はもっと、自分の怒りと上手につきあえるようになりたい。
怒りに翻弄されてしまうのではなく。それでは周囲の大切な人間達を傷つけ、自分自身もまた傷つけるばかりになってしまう。

私はもっと、自分の激昂を上手に操れるようになりたい。
切り替えスイッチをタイミング良く押して、相手の胸を刃で突き刺してしまわないように。

言葉も振舞いも、
瞬間の刃だ。
私はその刃を、
踊るように上手に、使えるようになりたい。
凶器として出なく。
美しい道具として。

怒りというものの持つエネルギーを、何か他のものに還元できないものだろうか。相手だけでなく己の身体も傷つけてしまうような凶器にではなく、逆に、何かを包み込み得るような、柔らかな毛布に。

怒りを結晶させたら、どんな形になるのだろう。
怒りを浄化させつつ結晶させたなら。

一度でいい、この目で見てみたい。
2001.11.30 Fri.

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Copyright(c)2001 Saori NINOMIYA.

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