おごちゃん的視点のページ1997年9〜12月分
献本
1997年9月27日
JLUGの理事長なんて立場があくまで
も名目の上のものであっても、対外的には意味があることらしく、結構献本が
届く。もちろんそれらの献本はタダで来るわけではなく、それなりにお手伝い
をした時に来るのが大半である。まぁ手伝いをした時によこすのは良い方で、
出版社によってはこっちから催促しないと献本をよこさないところもあれば、
催促してもよこさないところがある。
この献本であるが、やはり
タイミング
は重要である。自分の関係した本であるなら、当然その出来に関心があるわけ
で、献本の来るのが遅ければ、自分で買ってしまうものである。そうなってか
ら送って来ても、
単なる紙クズ
同然である。特に自分が原稿を書いた本が、献本よりも先に本屋で発見すると
なると(実は改訂版「Linuxを256倍使うための本」はそうだったのだ)、もうそ
れは
勘弁してくれ
という気になってしまう。著者校もロクにしてない本でそれをやられると、本
当にどうしたものかと困ってしまう。とにかく自分のタッチした本であるなら、
すみやかに目を通したいものである。そうなると、出版社はすみやかに本を届
けて欲しい。これはセコさで言っているのではなく、
自分の発言への責任
からである。また、出版社も、少しでも絡ませたのであれば、そのことへの
礼儀
として献本して欲しい。仮に直接原稿を書かなかったにしても、多少なりとも
手をわずらわせたわけであるし、出版社にとっての本は安いものであるからだ。
などということを書くには当然それなりの理由があるわけだが、それは日経バ
イト10月号の解説記事のことである。この記事の記者はメールであれこれ問い
合わせて来たので、一応わかる範囲で返事をしておいた。その後音沙汰がない
ので、忘れていたのであるが、MLで「Linux/FreeBSDの実体」という記事があ
るという話だったので、「もしや」と思い調べると、やはり私に問い合わせた
記者がそのことをネタに記事を書いているものであった。もちろん私はこの記
事を書いたわけではないので、原稿料の類をもらうことが出来る立場にはない。
しかし、メールとは言え取材協力をしたのである。ま、記事の中身は
論外
な内容であるのではあるが、少なくとも協力したのであるから、あいさつなり
するべきであろう。また、献本くらいするべきだろう。ところが、この馬鹿記
者は「献本くらいしてもバチは当たらんだろう」というメールを送ってやっと
のこと、
「さっそく手配します」
と返事をよこして来た。だいたい、そんなものは本として出る前から手配して
おくのが当然であろう。
もう一つ馬鹿な例が、秀和システムの「無敵のLinux広大無辺インターネット」
という本である。こいつの内容も
話にならない
くらいくだらない本であるが(そんな本が苦労して書いた「Linuxを256倍使う
ための本」よりも高いのもシクシクである)、やはり内容的に若干絡んでいる
(と言ってもJLUGのホームページが出ているだけである)が、やはり献本がもら
えずにいた。まぁ
シャレ
ということもあって自費で一冊買って、MLにもそれを元に書評を書いたりした
のであるが、何を思ったのか随分と後になってから献本が送られて来た。こっ
ちは既に持っているのだし、内容もクズでしかないのでそんなものもらっても、
紙クズよりもタチが悪い
ものでしかない。一体何を考えているのやらわけがわからぬ。
さらに腹の立つ例を挙げると、「Software Design」という雑誌である。これ
も前に頼まれて特集記事を書いたので
あるが、件の記事が掲載される前後はちゃんと献本してくれたのであるが、掲
載後はいきなり届けるのをやめてしまった。まぁそれは仕方ないわいとは思う
のであるが、読者欄に出る否定的な意見に何のフォローもしてない。それぞれ
は小さな問題ではあるが、積み重なると
もう書いてやらないぞ
という気になるし、考えようによっては、
使い捨てにされた
という不快感も感じる。あるいは、
都合の良い時だけいい顔しやがって
とかも思ってしまう。まぁどっちにしても、この辺のやり方を間違えると、い
いようには思われないのは事実でである。
就職難?
1997年10月3日
世の中は新卒の就職がないのだという話である。また、
新卒の就職は氷河期
などと言われている。確かに学校
で話をしていても、あまり明るい話は聞かない。そうしてみると、確かに就職
難のような気がしないでもない。
しかし、私にはそうは思えない。実際、
私の会社はInternet上でも職安でも、
求人を出しているのであるが、応募は皆無に等しい。特に
事務員や
研究助手
などは、
学歴・経験を問わない
とゆー非常にゆるい資格にも関わらず...である。また、面接に来た人の多く
は、業務内容や展望の話をしていると、
ビビって尻ごみ
してしまうし、一応採用を決定した人でも、数日すると
ばっくれてしまう
のである。私のトークは、
あなたという人物が必要なのであって、
あなたが何が今出来るかは問わない。
必要な教育は全てこちらでやる
と言っているのであるが、どうもビビってしまうようである。何しろこちらの
やっている仕事は、いわゆる「ベンチャー」なのであるから、我々だってこれ
と言った経験を持っているわけではない。だから、入って来る人にあれこれ知
識や経験を要求しても無駄である。なまじ中途半端な経験や知識があったとこ
ろで、
初期化して再インストール
みたいなことをするわけなので、事務員や助手なんてものは、むしろ何もない
方がいいくらいである。
必要なのは本人のやる気だけ
である。
ここまで応募資格を簡単にしていて来なかったり来てもすぐ逃げ出したりする
ということを見ていると、
就職する気がない
からだとしか思えないのである。こちらは当地としては破格の給料を出す用意
をしているし、程々会社も持っているので、とりあえず会社を潰す予定はない。
物事は大きくなる途中であるから、安定の類には程遠いが、
毎日がお祭
みたいなもので、それなりに楽しいし、今いる社員は結構我が儘であるから、
新しく入って来る人も、ある程度の我が儘は是としている。だから、仕事をす
る気でいるのだったら、良い職場環境であるはずである。
ところが、Intenetの求人でも職安の求人でも人は来ないのである。職安に行っ
てみればウロウロしている人は程々いるし、あいかわらず就職難であると言わ
れているようである。にもかかわらず人が来ないということは、仕事をする気
がないか、
大きくて安定して一般ウケする会社でなきゃヤダ
とか思っているからであろう。つまりは、
甘い
のだ。
プロというもの
1997年10月28日
私は以前はTV局
に勤めていたし、子会社では音響照明といった舞台関係の仕事をしていた
時代もある。だから、今でもテレビや舞台を見る時には、ついそういった目で
見てしまう。
8月の末頃、大阪にあるエキスポランドに寄ってみた。そこの野外ステージの
ようなところで、何やらバンドをやっている音が聞こえたので、ついついのぞ
いてしまった。しかし、そこでの音は、
聞くに耐えない
ような酷い音である。低音はボコボコ言ってるし、音の「切れ」も悪い。もち
ろんバランスも滅茶苦茶である。まるで
素人
がやっているような音である。いや、素人の方が上手かも知れない。機材はそ
こそこ立派そうなものを揃えていたのであるが、とにかく調整がなってない。
席の構造上、ちょっと調整が面倒な点があるのは認めるが、いくら何でもあれ
は酷い。もう少し何とかして欲しい。
また、10月18日には京都駅のオープン記念らしく、嘉門達夫のコンサートを室
町広場(だったかなぁ)でやっていた。これがまた照明も音響も下手くそである。
照明は
まー適当にやっかぁ
的な様子であるし、音響は例によってボコボコ(低音の締まりがない)のキンキ
ン(高音のバランスが変)のワウワウ(エコー対策がしてない)である。まぁここ
の会場も音響的にはなかなか厳しく、どうしてもエコーは避けられないし、ハ
ウりを嫌うとイコライズも難しいはずである。とは言え、嘉門達夫は基本的に
は
言葉の人
であるから、喋りや歌詞がちゃんと聞こえないと面白くないのである。しかし、
それが全然ダメなのである。中程で聞いていた私がそう思うのだから、後の方
の人はもっとダメだったんじゃないかと思う。
おそらくどちらのコンサートも、それなりの人がそれなりの金を出して企画し
たことであると思う。また、出演者もそれなりに思ってやっていたはずである。
ところが、いわゆるステージスタッフがなってないので、せっかくのコンサー
トが
台なし
である。
ところで、私はステージ屋の道を進み続けることを諦めてしまった(今でもた
まにアルバイトではやっている)。これは
今の会社が忙しいとか、ステージ屋をやると休日が人と違うことになって
子供と遊べないとかという理由はあるのだが、一番大きかったことは、
自分はその道のプロとしての仕事が出来ない
と見切りをつけたからである。「ステージ屋としての私」が、「コンピュータ
屋としての私」を越えることが出来そうになかったので、自分に見切りをつけ
たのである。本当のことを言えば、前の会社のコンピュータのセクションから
外れた時に、
もう二度と本業でコンピュータは触るまい
と決心をしていたのであるが、やはり10数年ちゃんとやって来て築いた「コン
ピュータ屋としての私」と同じようなレベルのステージ屋にはなれそうにない
ので
仕事をするならプロとして働きたい
と思っていた私は、プロとしての技量が持てない自分を見限るしかなかったの
である。何しろコンピュータ屋としての私と同じレベルをステージ屋に適用す
るなら、おそらくは、
安室奈美恵やマライヤ・キャリーのコンサートを仕切っている
くらいのレベルになるであろう。しかし、どう頑張っても私はそんなステージ
屋にはなれそうにないので、その道のプロであり続けることを断念したのであ
る。
とは言え、そんな私でもプロとしてメシを食っていた時代はあるわけで、一応
プロとしての自覚とプライド
は持ち合わせている。いや、このようなものはいわゆる
プロには共通
のものであるから、コンピュータ屋では少なくとも名実共にプロである私は、
当然プロとは何たるかくらいは知っている。だから、ステージ屋をやっていて
も、自分の技術で出来る限りのことをやるし、妥協や「ま、いいか」的なこと
は、余程の事情がない限りはやったりしない。それが「プロ」というものだと
思っている。そのようにしているから、こんな私にでも指名で仕事が来ること
だってあるのだ。
そのような目で冒頭のようなステージを見ると、
お前らそれでもプロか!
と言いたくなるのである。確かにもらった金以上のことをする必要はないかも
知れない。しかし、そうだからと言って手抜きをする理由にはならない。そも
そもステージ屋のギャラというものは、
人件費 × 人数 + 機材損料
となるのが普通であるので、技術を尽そうと手を抜こうと同じである。しかし、
そうであるなら、
技術を尽すのがプロ
ではないかと思う。
同じ金なら手を抜くというのは単なるサラリーマン
に過ぎない。
まぁ付け加えておくと、技術というものは精進しないと身につかず、手を抜く
と減って行くものである。どんなくだらない仕事でも、しっかりやっておかな
いと技術は身につかないものである。だから、手を抜いて楽をしたような気に
なっても、その分下手になるのだから、後でそのツケは回って来る。プロたる
もの、その辺はよく理解しておいた方がいい。
SuperASCII
1997年12月5日
知っている人は知っているとは思うが、私はSuperASCIIにLinuxの連載を持っ
ている。そして、この前まで、
女子高生とLinux入門
というシリーズでやっていた。
タイトルがタイトルだけに、色々と物議をかもしていたようで、読者欄でも賛
否両論あった。私としては、このようなタイプの入門をすることにより、
Linuxなんて誰にでも使える
ということをアピールし、また本質的に
未熟
な女子高生(と言っても高専の情報工学科なのだが)が初心者の代表として、い
ろいろつまづいてくれることをネタに、超初心者向きの入門を書こうと思って
企画したものである。
ところが、どこにも物事を表面的にしか捉えられない馬鹿はいるもので、
くだらない
とか、
読者を馬鹿にするな
的な意見を読者欄に送って来る奴がいる。そう思うのだったら読まなきゃいい
のにと思うのだが、どうもそーゆー意見を書きたい馬鹿がいるようである。まぁ
何であっても
評論家になりたい馬鹿
というものはいるのだ。
まぁ、その辺は読者の考えや見方は色々あるので、色々な意見が出るのは当然
だろうと思う。「面白くない」と思う人がいても、「面白くないなら読まなきゃ
いいのに」とは思うが、それ以上のことは思う必要はない。まぁせいぜいが
「他人の意図を理解する能力に欠ける奴だ」程度に思うだけである。この辺の
ことは、まぁ
世の中いろいろだね
で終わりである。
しかし、許せないのはこの欄を担当している編集長である。
彼は「まぁ賛否あるのは当然で、それは合計で反応があったと解釈しています。
だから、どんどんやって下さい」と言っていた。私はこの考えに「なるほど」
と思ったので、やれるだけやっていたつもりである。そして、その意見から、
「編集長はちゃんと責任をもってくれるのだ」と解釈したものである。
しかし、彼はそうではなかった。読者欄には賛否あればそのまま載せ、しかも、
否定的な声が出ていても、それに何のフォローもしていなかったのである。
こういった意見もありますが、編集部はこう考えてます
的なことを書いてあれば、否定的な意見の人の何割かは納得したものだと思う。
また、私もそれを見れば、「編集長はちゃんと責任をもってくれている」と納
得したであろう。
しかし彼はそれをしなかった。そして、「この欄は読者の意見をそのまま載せ
ています」という態度表明をしたのである。つまり、
俺は公平にやっている
ということだけを表明し、編集部の考えを読者に明らかにしなかったのである。
そうなれば、当然のことながら、
シリーズの責任は筆者にある
ということになる。つまり、
あのシリーズは著者が勝手にやったことで
編集部としては何ら関知していない
ということになるのである。確かに発案は私であるから、私に責任がないと言
う気は全くないが、それにGOを出したのは編集部である。そうであるなら、
応分の責任分担
をするのが編集部の務めであろう。それをしないのは、
単なる卑怯者
でしかない。
読者の声として、賛否あるのはこれは当然であると思う。私は読者の声は気に
する方なので(悪口を言われるのは好きではない)、読者から否定の芽が出てい
れば、それをすみやかに知って紙面に反映させたいと思う。そう言った意味で
は、否定されることは「書いてはいけないこと」を知ることが出来るので、む
しろ喜ばしい。裸の王様になっていてもしょうがないのである。もちろん、こ
ちらの意図を理解しようとしない意見を読めば不愉快になるが、それとても私
の目に触れていれば、何とかすることが出来る。だから、読者の声として否定
的な意見があることについては、悪感情は持たない。
しかし、「読者欄」は違う。これは編集部の裁量で現実の読者の声をピックアッ
プしたものである。つまり、編集部の裁量の中で編集される部分である。だか
ら、この欄に載せる「声」は、
編集部の意見の代弁
のはずである。実際の意見として賛否両論であっても、その辺を上手にコント
ロールするのが編集部の仕事である。そうであるから、読者欄に否定的な意見
を載せるということは、
編集部として否定している
ということになるはずだ。だからこそ、私は怒っているのである。「やれと言
うからやったのに、そのやれと言った人間が否定している」と。普通、このよ
うな行為を世間では、
裏切り
と言うのである。
さらにこの編集長の愚かなところは、この一件でへそを曲げた私にも何のフォ
ローもしないところである。どうも、
面倒なことは担当任せ
と思っているフシがある。別にわびを入れろと言う気はないのだが、何か一言
あってもバチは当たらないと思うのであるが。
まぁそういったわけで、Linux Japan Vol.5のマ
クラに書いたような話になるわけである。簡単に言えば、
クズの相手をするから、馬鹿な目にあう
ということでクズタコを避けることにしたのだ。だから連載の方も、いきなり
レベルを上げて、
クズには読めない内容
にしたのである。ま、それにしても、
ゴチャゴチャ言うのは不愉快だ
的なことを言う馬鹿の前には無力であったのであるが(これも
Linux Japan Vol.5のマクラに書いた)。
まぁ何にしても、私が書いているのは、あくまでも技術解説であるから、あま
りこういったことをあれこれ記事の中に書くことは出来ない。多少反論してみ
ても、そんなことにページをさくのもナンセンスだから、適当なところで切り
上げたいと思うのだ。そんな時に必要なのが、
編集部のフォロー
である。ところが、この編集部はそれをしない。ま、今のシリーズが終わった
ら、私は連載を下りる気でいるので、それはそれでも良いか。
PS
1997年12月10日
というようなことを書いていて、2月号の原稿を出したのであるが、担当から
の返事で
当該連載は3月号で打ち切り
ということになったらしい。何でも、
今後のSUPERASCIIでは,現状の紙のメディアだけでなく,CD-ROMやWebなどと
も連動した展開をしてくということで,これに協力してもらえないのであれば,
連載を終了してもらうしかない
|
と言うことらしい。これは最初に書いてるようなことが原因で私がキレている
ところに向けて、「よろしく」みたいなメールを部下に送らせて来ているので
(以前は直接メールをよこしていた)ので、「拒否する。理由は編集長がよく知っ
ているはずだ」という旨の返事を書いたものだから、それを理由にしたものだ
と思う。普通、このような「条件」みたいなものを言う時には、「飲んで戴け
ない時には××ということになります」的な説明(脅しとも言う)があって然る
べきであるが、それもなかったのだから、これは
一方的
としか言いようがない。まぁこれでめでたく連載を下りることが出来たのであ
る。全く慶ばしい。
まぁ話題の繋ぎとかのことが色々と面倒なので(何しろ連載だ。前号だの次号
だのとの話題の繋ぎはいつも書いているものだ)、
2月号の原稿も取り下げ
にする旨を伝えておいた(原稿はここに
ある)。
しかし、ここまで来ると編集長は
哀れ
としか言いようがない。
元Coco 宮前真樹
1997年12月28日
芸能ネタとゆーのは、あまり得意ではないし、あれこれ言うつもりもあまりな
いのであるが、どうも気になってしょうがないので書いておこう。
宮前真樹とゆーねーちゃんがいる。私はあまり詳しいことを知らないが、私が
テレビ局に
勤めている時に、一度だけ一緒に仕事をしたことがある。あまりタレントには
興味がないのだが、まーそれ程悪い娘でもなかったし、タレントとしての線の
細さが気になったが、まぁそれはそれである。
ところがこのねーちゃん。その時もそうであったし、他の番組でもそうなので
あるが、
元Coco
として紹介されることが多い。実は私はそのCocoが何者であったかよく知らな
いので、むしろ単に
宮前真樹さんでーす!
と紹介されう方が、わかりやすくて良い。まぁこれは
単なる認識の違い
と言って言えないことではないが、どうも気になるのである。
このねーちゃん、確かに昔はCocoとゆーグループ(ですか?)だったのだろう。
しかし、それは既に過去のことである。今は一人のねーちゃんとして活動して
いるはずである。この際、売れているかどうかは関係ない。今はCocoとやらと
何の関係もないし、そーゆー過去のことを使って、
元
などという副詞と共に紹介されているというのが、どうも解せないのだ。まぁ
過去にCocoとゆーところと関係があって、それで本人も売れていたとゆー事実
があるのだろうが、そうであれば余計にそのような、
過去の栄光の元
を使われて紹介されるということは、どうも変に思えてならない。あるいは本
人はそのように紹介されるということを喜んでいるのかも知れないが、それは
それでおかしな話だ。やはりタレントという
キャラクタで勝負
な世界で、既に存在しないものに従属した形で紹介されるようでは、あまり良
いことではないだろう。出来れば元Cocoなどとゆーわけわかな形容詞を使って
紹介するのではなく、個人として紹介してやるべきだろう。
しかし、これと似たようなことはいくらでもある。
元○○の××と申します
的自己紹介は結構ある。まぁこれも場合によりけりで、○○にいた頃の付き会
いであれば、そのようにして現在の所属等を言う前に説明するのは正しいこと
である。しかし、その当時とまるで関係がない人にまで、
元○○
などと言う人は実際にいる。どうもこのような、
過去の栄光の元
を使いたがるのである。しかし、冷静に考えれば、このような「元」の使い方
は、あまり格好のいいことではない。
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